2015/03/08
当時、婚礼は家と家との祝宴であり、大勢の人を招いて数日から一週間にわたって行われたようである。招かれた人々はふんだんに肉やぶどう酒を振舞われ、祝宴を楽しんだことだろう。その婚礼の席でぶどう酒がなくなるとは、花婿の家にとっては一大事で、恥とされることであった。 ...
2015/03/01
ここではイエスをめぐる出会いが次々と起こる。バプテスマのヨハネの証言に導かれて、その弟子であった二人がイエスに出会い(41節以下)、その内の一人アンデレがそのことを兄弟ペテロに出会って(41節)伝えつつ、イエスに導き、翌日にはイエスがフィリポに出会い(43節)、そのフィリポがナタナエルに出会って、イエスとのこの出会いを伝えつつ(45節)イエスに導く。 しかし、よく読んでみると、そのそれぞれの出会いにおいて、イエスご自身の眼差しが一人ひとりに向けられているのを感じ取ることができる(38,42,43,47節)。これらの出会いの真の「導き手」(へブル12:2)はイエスご自身だった。 そのことを、ペテロとナタナエルの場合がよく示している。イエスはヨハネの子シモンを「見つめ」つつ、あなたは「ケファ(岩)」と呼ばれるであろう、と言われる(42節)。一方、ナタナエルは、フィリポの証言に反発する。聖書のどこにも言及されることのない寒村ナザレから一体どんな人物が出てくるのかと(45-46節)。しかし、イエスはこのナタナエルをもあらかじめ「見て」おられる。ナタナエルはあなたは一体「どこから」自分のことを知ったのかと問い、イエスは答えられる。「わたしは、あなたが……いちじくの木の下にいるのを見た」。旧約聖書によれば、いちじくの木やぶどうの木の下に座る(住む)というのは、メシアによって治められるであろう平和な時代の中での生活をしめす表現である。だとすると、イエスはこう約束しておられるのではないだろうか。「君がわたしのことを見聞きする以前に、私は君が、いちじくの木の下で、メシアによる平和の国のただなかで、守られ祝福されているのをすでに見た」と。 このように、ペテロもナタナエルもいまだいかなる働き、奉仕も行わない以前に、何の資格も持たぬままに、イエスによって、メシアの将来の、すべての人のために、平和の国を証しする働きのために既に選ばれていたのである。 こうして、最初の5人の弟子たちはイエスの出会うやいなや、その弟子となる。おそらく、自分の言っていることが、本当のところ何を意味しているのか、よくは分からないまま、しかし、たまらずに告白するのである。「私たちはメシアに出会った」(41節)。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と。イエスは彼らに、そして私たちに、問われる。「君たちは何を探しているのか」(38節)と。それに対して彼らはその時理解できた限りで答えたのである。「あなたを、私は探していたのです」と。これはイエスとの出会いの始まりにすぎない。しかし、その瞬間から、彼らはこの方に捕らえられるのである。それは、彼らがこの方を十分に理解したからではなく、この方のまなざしのうちに彼ら一人一人がすでにいるからである。 彼らは、ただイエスの「とどまって」おられるところに共に「とどまる」だけでよいのである。そうすれば「見るであろう」(分かるであろう)(39節)とイエスご自身によって約束されるのである。
2015/02/22
4-5節は申命記の核心となる言葉である。主イエスも、旧約聖書に600以上ある戒めの核心として、この戒めを示された(マルコ12:29-30)。「聞く」ということは、人間としての最も大切な行為の一つ。それは単に耳が聞こえることを超えて、人間の生きる姿勢に関わることである。「聞く」ことをしなければ、人は自分の世界に閉じこもってしまう。しかし、「聞く」ときに、ことに主の言葉に「聞く」ときに、人は新しくされる(イザヤ50:4)。「聞け、イスラエルよ」とは、自分の狭い世界に閉ざされているイスラエルの民の耳を開き、解放する主の呼びかけなのである。 イスラエルは何を聞くべきなのか。モーセは二つのことを告げている。「われわれの神、主は唯一の主である」。当時のパレスチナの農耕神バアルは、いたる所の丘で礼拝され、様々な形の像で表されていた。しかし主は、そのように人間の都合に合わせてさまざまに解釈され利用されることを許さない「一つ」の方である。聖書に示された神は、その初めから終りまで首尾一貫した方であり、裏表がなく、ただ一心にイスラエルを愛される方。貧弱な民であったイスラエルをご自分の民として選び(申命記7:6)、荒野で何度背いても見捨てずに愛し抜かれた神なのである。だから、彼らにとって、この主以外に神はいない。 二つ目は「あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛さなければならない」。主への全人格をかけた変わらぬ愛が命じられている。しかし人間の愛は罪によってゆがめられている。だから、感情に左右され、自分勝手な愛へと容易に変質していく。今日の箇所の10節以下に暗示されているように、事実イスラエルは約束の地に入ると主を忘れ、神を愛するよりも自分の生活と他の神々を愛した結果、滅亡へと転がり落ちていく。気分屋のイスラエルに対して、主はどだい無理なことを命じているのだろうか。 7章6-8節によれば、そもそもイスラエルは、どんな民よりも貧弱な民だった。しかし主は一方的な愛によってこの民を選び、ご自分の「宝の民」とされ、奴隷の地から解放して、幾度も民に裏切られながらも約束の地へと導いてくださった。主はイスラエルの弱さ、その愛の移ろいやすいことを重々承知の上で、なぜかそのイスラエルを選び、契約を結んで「私を愛せよ」と命じてくださるのである。だからこの5節の言葉は、イスラエルを拘束するものではなく、主との愛の交わりに留まるようにと招く呼びかけであり、それは恵みの言葉なのである。 主が選び、愛された民はイスラエルの他にはなく、イスラエルの民にとっての神も主以外にありえない。主とイスラエルはこのような特別な愛の関係で結ばれているのである。ゆえにそれは応答の信仰となる。
2015/02/15
ヨハネ福音書の冒頭には、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1:1)と宣言する。言は神であるとされる。言とは知らされ、また伝達されるもの。「言は神であった」とは、神はご自身を知らせるお方であることを明らかにしている。しかしながら、神はその伝達については、考えてわかるという方法を取られなかった。「言は肉となって、私たちの間に宿られた」(1:14)とは、その伝達の形。言は単なる概念としてあるのでなく、命ある存在となったのであり、その命ある存在は人間の中にあると宣言する。神が命を持つ人となり、私たちの中にいる。インマヌエル(神、我らと共にあり)の神。 さて、この箇所を読んでいくと、神の言は、単に父なる神の思いとして父なる神の内にとどまっていたのではなく(1:18)、父なる神と共に造ったこの世に向かい(1:3)、肉と血をまとって人となった、とある。「肉」がしばしば人間的な思いと深い関係にあることを考慮すると、神の言が肉となったことの意義は大きい。実に神の子が人間性をまとったことは、言語を絶する神秘である(カルヴァン)。それは神の霊的な思いは、この世の肉を通してでも実現したいという熱意、愛の表れでもある。 「宿る」とは、もともとは神が人々の中に「天幕」を張ってその中に住み、その人々の神となることを意味する(出エジプト25:8-9)。したがって、神の言は人となって人々の中に宿ることによって、同時にその人々の神ともなったのである。 しかし、かつて紀元前7世紀頃のユダ王国の預言者エレミヤが預言したように、神は人が帯を腰にしっかりと着けるようにイスラエルの民をしっかりと身に着けて自分の民とし、自分の栄光を示すものにしようとした。しかし、イスラエルの民は他の神々に従い、腐った帯のようにまったく役に立たなくなった(エレミヤ13:1-11)。 そこで、今や父なる神は神の言をこの世に送り、再び栄光を示すことにした。父なる神は、かつて何度も預言者たちをこの世に送ったように神の言を何度も送るのではなく、独り子として一回限り送ることにした(ヨハネ3:16,18)。それがイエスであり、独り子として父なる神の愛を一身に受けている。 イエスは数々の力ある業を行うことによって父なる神の栄光をこの世に示し、人々の罪を赦し、病をいやすことで父なる神の恵みを示した。「恵みと真理」とあるが、真理は人々に命を与え、人々を自由にし、聖なる者にする(ヨハネ8:32)。そのイエスの誕生と生涯のわざを14節は簡潔に表現し、告白しているのである。
2015/02/01
16章は現実の私たちの教会生活にはとても身近な、大切なことが記されている。共に生きることに失敗しているように見えるコリントの教会の人々に対して、パウロが具体的な事柄を語り告げることによって、共に生きる教会の姿を指し示している。 ...
2015/01/25
信仰者に確信(信念)はつきものである。信仰者に対するイメージの一つに、確固不動の信念の人というのがある。時として、そのような確固不動の信念が称賛の的になったりもする。確信を持つことは、信仰者にとって良いことであり、また必要なことでもある。しかし、信仰者の確信は、時とすると神と信仰の名において、容易に自己の確信、信念を絶対化し、他の確信、信念の可能性をないがしろにしてしまうという危険な側面も持っている。要注意である。では、私たちが持つように期待されている「確信」とは、一体どのようなものなのだろうか。 箴言26章1-12節の単元をくくるキーワードは「愚か者」。この「愚か者」に関する単元で、私たちの注目を引くのは、4節(否定)と5節(肯定)に相対立する警告が並置されていることである。この相対立する警告の並置は、ステレオタイプ(画一的)にしか現実に対応しようとしない者を戸惑わせ、また不安にさせる。確かにこの4節と5節は矛盾している。 この単元には「愚か者」についての「知恵」が語られている。この「知恵」は、一個人の思いつきではない。これらの格言的言葉の背後には、何千、何万という人々の洞察と経験の集積がある。人類の英知と言ってよいもの。十中八九間違いのない洞察、知恵、そしてそれ故に、揺るがしようのない「確信」と言ってもよいと思う。 しかし、4節と5節では、両者ともこの「愚か者」についての知恵(確信)に基づきつつ、その対応については全く相対立する警告が語られている。この二項対立的警告は、私たちに何を教えているだろうか。それは現実問題の対応について、絶対的に「これだ」という永遠に不動の固定的、絶対的基準というものはない、ということを言わんとしているように思われる。そして絶対的基準がない以上、一つの方便や確信を絶対化することはできない、いや、絶対化すべきではない、ということを言わんとしていると考えられる。 自分が現実問題に対して誤りのない絶対的な答えを持っていると確信する者は、自分の限界を越えて「誉」を求めることになる。そしてそれは思い上がり以外の何ものでもなく、自分を自分の目に賢い者とすることになる。究極的な答え(確かさ)を持っているのは、主なる神のみであって、人間ではない。 26章12節の「自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる」は、思い上がる人に対する手厳しい警告である。自分の知識、知恵、経験、力、確信に思い上がって謙虚さを欠く者、これは「愚か者」以上に始末におえないということである。 信仰者にとって確信は必要であり、また大切なことである。しかし、信仰者は自己の確信が、絶えず絶対化、完結化に向かう傾向を持つことに目覚めている必要がある。その意味で、相対化の用意のある、開かれた確信、揺らぐこと、疑うこと、ためらうこともある確信、そして何にもまして自分の限界をわきまえた謙虚で確たる信とでも言うべきものが、私たちには一番ふさわしいのではないだろうか。 閉じられた確信からは自己絶対化が生まれ、それは妄信、狂信となり、他者の確信、信念の可能性を否定し、暴力的な力を持って破滅へと向かうだろう。私たちは他者と共に生き、他者に向かって愛するようにと勧められている。そのためには常に私たちは開かれていなければならない。
2015/01/18
聖書は主イエスの復活が記され、私たちはそれを信じている。にもかかわらず、現実はどうかと言うと喜びに満たされない、なぜか心が躍らない。どうしてなのだろうか。これに答えるものが、この15章なのである。 ...
2015/01/11
パウロは、「私たちは神の同労者である」(第一コリント3:9口語訳)と言っている。神は私たちをご自身の同労者として召してくださった。神は補助者を必要とするようなお方ではない。しかし、神は恵みと憐れみとをもって私たちを同労者として立ててくださった。私たちは神の同労者として神に仕え、奉仕し、捧げるときに、より深く神の恵みを知ることができる。スチュアードシップを通して神と私たちの関係は強められるのである。 スチュアードシップは神の同労者として生きる、ということでもある。神から託された時間、からだ、能力、富などを神の愛を証しするために用いるのである。私たちは神の同労者だから、献げ物や奉仕などを「取り引き」として行わない。「取り引き」としての献げ物とは、「これだけ献げますから、私の願いをかなえてください」という献げ物や、人から褒めそやされることを目的として行う奉仕である。 同労者は互いに一つの目的のために力を合わせる。励まし合い、いたわり合いながら共に荷を担うのである。神の同労者とされた私たちは、神が私たちを神の属する者にしてくださったことに驚き、感謝をもって神の指差される目標に向かって働き、捧げる。私たちが捧げるのは神が私たちを愛してくださっているからであり、大切なスチュワードの働きを託してくださったことへの感謝である。私たちは神に信頼されたことを喜び、感謝をもって奉仕し、時間を捧げるのである。愛されて嬉しいと感じるとき、私たちは自発的にプレゼントをするのではないだろうか。素晴らしいプレゼントをもらった時、私たちは感謝の気持ちを伝える。スチュワードシップはこのような神への感謝の応答のわざなのである。 神の同労者として召された私たちは、主イエスが友なき人の友となったように、また、しいたげられ、差別された人を尋ね、彼らを愛されたように、主の愛の器として彼らを訪ねることを求められている。だから、神の同労者として生きるということは、自分との戦いが強いられる。ことに自己充足、自己満足を望む思いと戦わなければならない。 またそれは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)との道である。道はたとえ厳しくとも、主が歩まれた道だから、私たちもその道をたどるようにと招かれている。しかし、その道は一人で歩む道ではない。イエスと共に歩む道であり、その道を歩むとき、私たちはイエスを身近に感じることができるのである。 讃美歌「いつくしみ深き」に「いつくしみ深き 友なるイエスは/罪とが憂いを とり去りたもう/心の嘆きを 包まず述べて/などかは下ろさぬ 負える重荷を」とある。友となってくださるイエスに従い、罪ある私たちを信頼し期待し、神の同労者としてくださった神に応えようではないか。
2015/01/04
パウロは、礼拝でそれぞれが与えられた霊的な賜物をもって奉仕するよう求めた。霊の賜物は多様に多くの人に与えられており、その恵みを共に分かち合い、励まし合い、学び合うことが教会を造り上げるために重要なのである。...
2015/01/01
私たちは新しい年を迎えて、抱負を語り、夢を語り、希望を持ち、計画を立てる。しかし、新しいことを始める時には、それが何であっても、まず第一にそこに神を存在させねばならない。どんな計画でも、神とともに始めなければならない。私たちがあれこれ計画を立てる時に、その計画を神に捧げなければならない。そうすれば、私たちは自分の意志ではなく、神の意志に従っているのだという確信が持てるだろう。そうするならば、私たちにも光が与えられるだろう。 さて、ドイツの神学者が、牧師は講壇に上がる時には、右手に聖書、左手に新聞を持ってあがりなさい、と言ったという。今だったら、右手に聖書、左手にスマホだろうか。聖書の話は昔の話、遠いどこかの国の話ではなく、その聖書のみ言葉が、今起きている現実の社会とどう関わっているのか、この時代に照らして、聖書が私たちに何を語っているのか、ということを常に考えることが大事であるということだろう。それは常に現実を相対化してみるということでもあるだろう。 今朝の招きの言葉に、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって/主は救いの御業を果たされた」(詩編98:1)とある。神は御自身の愛をみ子イエスに託された。神は、ご自身がどんなに私たちを愛しているのか、ということを伝えるためにみ子を遣わしてくださったのである(ヨハネ3:16)。その主イエスの生涯の第一ページがクリスマスの出来事であり、その後の主イエスの公生涯(とりわけ十字架と復活)の出来事が「福音」であり、「よきおとずれ(グッドニュース)」なのである。 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)とあるように、主は私たちに福音を託し、福音の管理者(スチュワード)として福音の宣教をお命じになった。しかし、この福音のわざは一人の力でできるものではない。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と語られているように、私たちは神の同労者として、今、生きて働いておられる聖霊なる神とともに託されたわざをなしていくのである。 同労者は、目的を一つとしてともに重荷を担う。互いをよく理解し、信頼と尊敬のきずなを強めて。パウロは、「私たちは神の同労者である」(第一コリント3:9口語訳)と言っている。神は私たちをご自身の同労者として召してくださった。神は補助者を必要とするようなお方ではない。しかし、神は恵みと憐れみとをもって私たちを同労者として立ててくださった。私たちは神の同労者として神に仕え、奉仕し、捧げるときに、より深く神の恵みを知ることができる。スチュアードシップを通して神と私たちの関係は強められていくのである。今年も神の同労者として、共に祈りつつ励もう。