2024/12/01
2024/11/24
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝いたします。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。...
2024/11/24
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 マタイ6章3節...
2024/11/17
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。10月と11月は地域活動と福音というテーマで宣教をしています。先月、西南学院に訪問した際に、ある学生から一冊の本を教えてもらいました。それは稲垣久和の『閉鎖日本を変えるキリスト教 公共神学の提唱」という本でした。さっそく読んでみたのですが、大変興味深い内容でした。私たちの教会が取り組む『こひつじ食堂』や『こひつじひろば』『こひつじカフェ』で日々感じる思いを、この本では『公共神学』として明確に表現していました。今日はこの公共神学を紹介し、神様の愛の豊かさについて、そして私たちがどのようにその愛を広げてゆくべきかについて考えたいと思います。 この本では社会全体を『個人と集団』『自己と他者』という2つの軸で4つに分類しています。縦の軸は他者と自己、公と自己ともいえるでしょう。左上には行政や学校が位置づけられます。公的な集団で、社会全体の利益をもとめる集団です。一方左下は私的な集団です。主に企業や塾などが当てはまるでしょう。私的な集団として自己の利益を追求していきます。右上にいるのは他者や公が強いが、集団ではなく個人を対象にした共同体です。NPOや労働組合がここにあてはまるでしょう。最後の右下は公と反対の自己、そして個人の事柄の領域です。家族や教会がここに当てはまります。教会・信仰とは個人の自己の最も奥深くにあるものでしょう。教会は人の内面を専門としています。 そして最近、教会以外の他の3つのグループは垣根を超えて活動をしています。企業がNPOのようなことをしたり、NPOが企業のようなことをする場面があります。NPOが行政のような働きをすることが増えています。さらにそれぞれは専門を持ちながらも、他のグループと連携・協力をしています。それは単にどちらかが一方的に手伝っているのではなく、相互が協力することで、自分たちの専門分野をより発展させています。様々な形で垣根を超えること、連携することが始まっています。 一方、教会はどうでしょうか。この本の理解によれば教会は自己・個人という枠組みの中に居続けようとしています。他の領域に対して、この世的な事として垣根を越えようとしてきませんでした。他の領域と協力をしようともしませんでした。しかしこの本では、教会ももっと垣根を超えて他の領域に進出したらよいと言っています。その理由は他の領域に取り組むことで、教会の自分たちの専門分野がより発展していくからです。私たちの中心であり、専門であり、最も大切にしていることは内面のことです。でも私たちと違う領域に出会ってゆく、そこに進出することで教会はさらに発展することができると言っています。 私はこひつじ食堂がまさにそのような取り組みに位置づけられると思いました。こども食堂は本来NPOがすることかもしれません。でも私たちの教会がその活動に取り組むことで、他者と関わることで、福音と愛がさらに広がるのです。今まで教会が行かなかった領域で私たちの信仰・価値観が広がってゆくのです。著者は、日本の教会が抱える閉塞感を打開するには、各教会が他の領域に積極的に関わることが大切だと述べています。 そして著者は日本社会にキリスト教がなかなか浸透しないのは、クリスチャンの意識と信仰が内向きで、防御的過ぎることに問題があるのではないか?もっと教会は、他の領域で影響力を発揮してはどうか?と勧めています。 社会と教会は対立するものではありません。またまったく関係ないものでもありません。教会が「この世」と呼ぶ、自分たちと違う領域に様々な接点を持つことにチャレンジをすることで、私たちの福音と愛はますます広がっていくはずです。私たちの地域活動がまさにそれです。私たちはこれまでの教会の概念から、少しはみ出して活動をしています。でもそのことが福音と愛の広がりにつながっているのではないでしょうか?今日はこのように私たちは自分たちの領域をはみ出して、福音と愛を伝えようということ、世を愛そうということを一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。   今日はマタイ6章38~48節をお読みいただきました。イエス様が私たちに「敵を愛しなさい」と教えた箇所です。現代も古代も「隣人を愛し、敵を憎め」というのは社会の常識でしょうか。しかし聖書は旧約聖書からずっと敵を愛するように教えています。イエス様も新約聖書においてあらためて、そしてさらに発展的させて、敵と思える人にも愛を深めるように、私たちに教えています。それは敵を愛し、迫害するもののために祈りなさいと教えています。 私たちクリスチャンはこの教えの前にどのように生きているでしょうか?今までもしかしてこの世のこと、社会のことを、教会とは別のこととして、敵視してきたかもしれません。この世のことを、私の個人の内面や、自分の信仰とは関係ないものとしてきたかもしれません。でも今日イエス様は、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。イエス様は今日、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。つまり、私たちとは異なる社会の領域の人々に対しても愛をもって接するよう導いているのです。 もしかすると、反対にこの世の人々からは、私たちの領域以外からは、私たちのことが敵に思えることもあるかもしれません。統一教会をはじめとしたさまざまな宗教が、人の気持ちに付け込んで、お金を巻き上げています。宗教は怖い。平塚バプテスト教会も同じではないかと誤解され、敵視されているかもしれません。でも私たちは、教会のことを誤解している人、教会のことを知らない人を愛したいと願っています。きっとこのままだと、私たちが自分たちの領域から一歩踏み出さなければ、教会がその人と接点を持つことはまず無いでしょう。でも私たちが、私たちの方からその人が暮らす領域に出てゆきます、必要に応えてゆきます。そしてそのようにして出会う時、はじめて教会への誤解が解けたり、私たちの信仰を知ったりするようになるのです。福音と愛が伝わり始まるです。私たちはこの領域に飛び込んでくる人を待っているだけではいけないのです。 イエス様の活動はまさにそのような活動でした。イエス様は旅をしながら福音と愛を広げました。自分から相手を訪ねて歩きました。そして訪ねた先で今日の教えのように、イエス様は、神様はクリスチャンだけに恵みを与えるのではないと教えました。神様はクリスチャンだけを愛しているのではありません。イエス様は、誰にでも太陽が登るように、誰にでも雨が降るように、神様の愛はすべてのひとにあまねく注がれると教えたのです。それが神様の愛です。イエス様はそのように自分たちと違う人に福音を愛を伝えたのです。その教えは一般社会の教えとは大きく違うものでした。しかしその異質な教えが、人々の心に残ったのです。多くの人がその教えに共感をしたのです。 教会の中というのは、いろいろな問題がありながらも、多くの人が互いに愛し合っています。教会の人同士が愛し合うことは当然と言えるでしょう。仲間同士が愛し合うというのは誰でもしていることです。私たちに教えられていることは、教会の仲間だけでなく、他の領域に出て行って、そこでも他者を愛しなさいということです。教会の仲間を愛するように、その外の領域でも、他者を愛しなさいということです。 48節で私たちは完全なものとなるようにと言われています。それはもっと福音と愛が社会、世界に大きく広がるように、完全にゆきわたるようにせよという意味でしょう。私たちは教会の中だけで愛し合うだけではなく、私たちの愛を他の社会の領域にもっと広げてゆくようにと示されています。それこそが伝道と言えるのではないでしょうか。ですから、この世との関わり、私たちの地域への活動は教会にとって二次的な「おまけ」ではありません。私たちの中心である信仰をより広げてゆくために、私たちの自身の信仰をより豊かなものにするために、愛を広げるために必要な活動なのだと思います。 私たちが世に出る時、周囲とは違う独特の価値観を持っていることに、私たち自身が気づくでしょう。この世界では38節のような「目には目を、歯には歯を」という価値観が支持され、広がっています。でも私たちの正典は、それは間違っていると教えています。暴力に暴力で立ち向かうな、必要とする者には必要とする以上のものを与えよ、寄り添うべき人に徹底的に寄り添うようにと教えています。他者、地域の人々がこのような異質な価値観、愛と出会うとき、福音が伝わるのでしょう。私たちはこれからも地域への活動を教会の二次的な活動としてではなく、愛を広げるための活動として取り組んでゆきましょう。 そして、私たち一人一人が毎週置かれている場所のことも考えます。私たち自身も、もともと教会の中だけで生きているのではありません。教会から派遣されて、それぞれの場所で生きています。そこで皆さんはキリスト教の価値観に基づいて生きるでしょう。その時に様々な領域の人に出会うでしょう。そのようにして他者と出会う時に、福音と愛が広がってゆくのです。教会もそれと同じです。 私たちは教会の中で互いに愛し合いましょう。そしてこの愛を教会の外にも、違う領域にも広げてゆきましょう。その時、出会いがありイエス様の愛を伝えてゆくことになるのでしょう。お祈りをいたします。
2024/11/17
稲垣久和の『閉鎖日本を変えるキリスト教 公共神学の提唱」という本を読みました。この本では社会全体を『個人と集団』『自己と他者』という2つの軸で4つに分類しています。教会は人の内面に関わることを専門としています。最近、教会以外の3つのグループは垣根を超えて協力し、自分たちの専門分野をより発展させています。一方、教会は自己・個人という枠組みの中に居続けようとしています。この本では、教会ももっと垣根を超えて他の領域に進出し出会ってゆくことで発展することができるはずだと言っています。私はこひつじ食堂がまさに他の領域に進出する取り組みに位置づけられると思いました。 今日はマタイ6章38~48節をお読みいただきました。今まで私たちはこの世のことを教会とは別のことととして、敵視してきたかもしれません。でも今日イエス様は、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。私たちとは異なる社会の領域の人々に対しても愛をもって接するよう導いているのです。反対に私たちの領域以外からは、私たちのことが敵に思えることもあるかもしれません。さまざまな宗教が、人の気持ちに付け込んで、お金を巻き上げています。平塚バプテスト教会も誤解され、敵視されているかもしれません。私たちが自分たちの領域から一歩踏み出さなければ、教会がその人と接点を持つことはまず無いでしょう。私たちは私たちの方からその人が暮らす領域に出てゆきます。そのようにして出会う時、はじめて教会への誤解が解けたり、私たちの信仰を知ったりするようになるのです。 イエス様の活動はまさにそのような活動でした。イエス様は旅をしながら福音と愛を広げました。自分から相手を訪ねて歩きました。そしてイエス様は、誰にでも太陽が登るように、誰にでも雨が降るように、神様の愛はすべてのひとにあまねく注がれると教えたのです。それが神様の愛です。イエス様はそのように自分たちと違う人に福音を、愛を伝えたのです。 教会の人同士が愛し合うことは当然です。私たちに教えられていることは、教会の仲間だけでなく、他の領域に出て行って、そこでも他者を愛しなさいということです。私たちの地域への活動は教会にとって二次的な「おまけ」ではありません。私たちの中心である信仰をより広げてゆくために、私たちの自身の信仰をより豊かなものにするために、愛を広げるために必要な活動です。 私たちは教会の中で互いに愛し合いましょう。そしてこの愛を教会の外にも、違う領域にも広げてゆきましょう。その時、出会いがありイエス様の愛を伝えてゆくことになるのでしょう。お祈りをいたします。
2024/11/10
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は地域活動と福音というテーマで聖書を読んでゆきます。私たちの教会では月2回のこども食堂をしています。経済的に困っているこどもだけではなく、子育てに追われる保護者や、寂しい思いをしている高齢者、誰かと会いたい人、そんな人が集って、みんなで食事をしています。 こども食堂をしていると、様々な団体から寄付や調査の依頼やお知らせが届きます。先日は「NPO法人アトピッコ地球の子ネットワーク」という団体から手紙をもらいました。私も初めてこのような団体の存在を知ったのですが「NPO法人アトピッコ地球の子ネットワーク」はアトピー・アレルギーを持つ人とその家族を支援する団体だそうです。手紙にはその団体からの切実な要望が記されていました。それはこども食堂にも食物アレルギーへの配慮を求める内容でした。こども食堂が必要なこども、こども食堂に行きたいこどもの中には、アレルギーを持つ子供もがいます。しかし多くのこども食堂ではアレルギー対応が不十分です。ある食堂の看板には「アレルギーの方はご遠慮下さい」と書いてあり、中には「アレルギーの方はお断りします」とまで書いてある食堂もあるそうです。こども食堂は小規模な民間団体の運営で限界もあると思うが、必要なこどもがいることを理解し、もう一歩対応してくれないかという要望でした。 そしてその団体はアンケートに答えると、アレルギーフリーの食事セットをプレゼントするとのことでした。それを保管しておいて、アレルギーのこどもが来たら対応をして欲しい。それを使って、こども食堂の看板を「アレルギーの方お断り」ではなく「アレルギーの方には対応する食事を準備している」と書き換えてくれないかとありました。素晴らしい活動だと思い、アンケートに答えました。食材がもうすぐ届くでしょう。 私たちの教会でもこれまで「アレルギー対応はしていません」と毎回の看板やメニューに記載していました。実際に200食を作りながらアレルギーに対応することは難しいものです。でも保管できる別の物を準備しておくという少しの努力で、表記の方法や利用できる人が増えるという事を教えていただきました。 地域の方に平塚バプテスト教会は素晴らしい活動をしているとほめていただく機会が増えました。平塚バプテスト教会に誇らしい思いを持ちます。でもまだこれで完成ではないのです。まだまだ配慮できるのに、配慮していない自分自身に気付かされています。そのことを悔い改めます。食堂にたくさんの人が来ているからこそ、私たちは少数への対応は無理と言ってしまう、言えてしまうのです。私たちはもう一歩、少数者への配慮をしてゆきたい、そう思っています。 少数者を置き去りにしてしまう私たちです。もっとできることがあるはず、それを心にとめながらこれからの活動をしたいと思います。私たちも「アレルギーには対応していません」から「アレルギーの方には別のものが準備できます」と表記を変更しようと思います。もちろん少数者への配慮はこの食堂だけではなく教会全体のこととしても考えたい事柄です。そして少数者への配慮は教会だけではなく、私たちそれぞれの日常生活の中で目を向けてゆきたい事柄です。今日はこのことをきっかけにして、聖書を読みたいと思います。   さて今日はマタイによる福音書3章1~17節をお読みしました。今日の聖書の個所と食物アレルギー、少数者への配慮はどんな関係があるでしょうか。 イエス様がまだ公の活動を始める前、バプテスマのヨハネという人がいました。彼の元には大勢の人が集まっていました。彼は町から離れ荒野に住み、いなごと野蜜をたべて生きていました。5節~7節を見るとユダヤ全土からたくさんの人が集まったとあります。そしてその中にはファリサイ派とサドカイ派の人もたくさんいたとあります。 ファリサイ派とはユダヤ教の多数派です。たくさんの人がファリサイ派の指導の下に生きていました。サドカイ派とはいわゆる貴族のような人々で、当時のエリートです。彼らには誇りがありました。9節「我々の父はアブラハムだ」という誇りです。自分たちは選ばれた者であり、自分達は尊敬されていて、正しい事をしている、すばらしいことをしているという自覚があった人々だったのです。 自分たちに誇りをもった彼らにバプテスマのヨハネは言います。「そんなものは神様からしたら石ころみたいなものだ」。自分の先祖に対する誇り、人の誇りや、選ばれた者という意識、それらは神様にとって本当にたいしたものではないと言ったのです。神様は石ころのようにそれをすぐに創ることができ、すぐに壊せるものだと言ったのです。 ヨハネの元にはバプテスマを希望する人たちが集まりました。ヨハネのバプテスマとはどんな意味だったのでしょうか。諸説ありますが、例えばバプテスマは当時外国人が、ユダヤ教に改宗・入信するときに行われていたと言われます。改宗・入信の儀式だったのです。しかしファリサイ派の人もサドカイ派の人ももちろんすでにユダヤ人です。生粋のユダヤ人です。血筋のよい人です。多数派、エリート、正しい人です。ユダヤ人で高い自己評価を持つ彼らには本来バプテスマはまったく必要ありませんでした。しかし彼らの一部はバプテスマのヨハネの教えに呼応して、本来改宗・入信の儀式であるバプテスマを受けようとして集まってきました。彼らは、自分が正しい、自分が誇らしいという思いを捨て、バプテスマを受けようとしたのです。今まで自分たちが誇ってきたものを捨てる、バプテスマを受けようとしたのです。 そのバプテスマは人や世界を、これまでの正しさや誇りといった高みから見るのではなく、悔い改めや信仰の始まりといった低みから見直そうという運動でした。バプテスマを受け、人と世界を低い場所からもう一度見直す、それがバプテスマのヨハネが勧めた活動でした。それがバプテスマの意味でした。彼らがバプテスマの前に告白した罪とは、外国人や他宗教の人を見下してきた罪だったでしょう。少数派を軽んじたこと、自分が絶対正しいと思ってきた罪だったでしょう。彼らはその罪を告白し、バプテスマを受けて、新しい人生を歩もうとしたのです。高みからではなく、低みから人と世界を見る生き方に方向転換しようとしたのです。 13節以降はイエス様が登場します。イエス様も一部のファリサイ派、サドカイ派のように、このバプテスマのヨハネの運動に賛同したお方でした。イエス様もバプテスマを受けたのです。私たちは驚くかもしれません。イエス様こそ自分を誇るべき神の子だったはずです。14節のヨハネも「私の方が受けるべきだ」と言い、ためらっています。しかしイエス様は悔い改めて低みに行くことは「正しいこと」であり「私たちにふさわしい」のだと言います。誇っても誇りきることのできない神の子イエスが、誇ることを捨てる、そのことから地上での活動をスタートしたのです。そしてその時天が開き、霊が「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」と称えました。誇らずに、低みに身を置く、このような生き方を始めることを霊がほめたたえたのです。 この後のイエス様の活動もこのバプテスマの延長線上にあると言ってもいいでしょう。イエス様はその後の生涯で自分を誇り、その権威によって人々を従わせたのではありませんでした。イエス様は人気が出て多数派になったのではありませんでした。ただ貧しい人、罪人と言われ差別された人、病に苦しむ人を訪ね、目を向け続けてゆきました。その人たちと食事をし、同じ場所で時を過ごしたのです。そしてイエス様はその後、十字架に掛かられてゆきます。バプテスマよりさらに低い場所へと向かわれていったのです。十字架に掛けられた姿はこの地上でもっとも呪われた者の姿でした。イエス様は最後、この地上でもっとも残酷な姿になりはてたのです。 しかし、その十字架こそ、人々の絶望ではなく希望となりました。イエス様は人々の絶望の中に、共にいるという希望となったのです。イエス様は高みから私たちを見下ろして、善悪を判断し、審判を下そうとしているのではありません。イエス様は今も誇るのではなく、低みから、十字架から私たちを見ているのです。共にいるのです。 私たちはイエス様の歩みからどのように生きるかを考えます。私たちの地域活動は人々に支持されています。私たちはそれを誇らしいと思います。多くの方が私たちの活動を支持してくれています。 でも私たちは誇る気持ちを脇に置きましょう。私たちはバプテスマを受け、イエス様に従う者であることを思い出しましょう。どんなにたくさんの人が来ても、人気がでても、低みへ追いやられた人、端に追いやられた人、寂しい思いをしている人を忘れずにこれを続けてゆきましょう。それがバプテスマを受けた者の歩みです。それがイエス様の十字架を支えとする者の歩みです。 私たちはそれぞれの生活においても、同じことが言えるでしょう。みなさんには誇るべきすばらしいものがあります。しかし私たちは誇らずに共に生きてゆきましょう。いつも私たちが置かれた場所で、困っている人、見過ごされている人、さみしい思いをしている人に目を向けてゆきましょう。イエス様のように、その人と共に過ごし、その人たち食べ、歩んでゆきましょう。お祈りをいたします。
2024/11/10
悔い改めにふさわしい実を結べ。 マタイによる福音書3章8節 地域活動と福音というテーマで聖書を読んでいます。私たちの教会のこども食堂はこれまで看板に「アレルギー対応はしていません」と記載していました。でも保管できるアレルギー対応食品を準備しておくという方法で表記の方法や利用できる人が増えることを教えてもらいました。...
2024/11/06
平塚バプテスト教会のこひつじ食堂ではこのたび、クラウドファンディングを始めることにいたしました。こども食堂の備品を更新するための資金の寄付40万円をいただきたいと思っています。期間はクリスマスまでです。ぜひご協力の程、よろしくお願いいたします。
2024/11/05
このたび平塚バプテスト教会のこども食堂を題材にしたドラマが全国放送されることになりました。このようなことからも私たちの活動が広がっていくことを願っています。平野牧師も登場予定です。ぜひみなさまもご視聴ください。 番組名:「それぞれの孤独のグルメ」テレビ東京開局60周年連続ドラマ 孤独のグルメ特別編 ドラマ24 主演:松重豊...
2024/11/03
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝、召天者記念礼拝をもてること主に感謝します。お久しぶりの方も共に集うことができてうれしいです。私たちはこどもの声がする教会です。小さいこどもも一緒にこの礼拝をしたいと思っています。声や足音がするかもしれませんが、それも礼拝の一部です。小さな命を感じながら礼拝をしましょう。...

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