だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 マタイによる福音書6章24節
平和について考える礼拝を持っています。「沖縄には申し訳ないが、やはり抑止力として沖縄に基地が必要だ」という声が根強くあります。強い大きな基地が沖縄にあることで、相手が日本を攻撃してくることがなく、日本全体が平和になるのだそうです。しかし私たちが目指す平和はこのような平和でしょうか。私たちが目指すのは強い軍事力で牽制しあう、抑止力に頼った平和でしょうか。それは平和なように見えて、必ずひずみを起こし、次の戦争を起こします。
もちろん基地が無くなりさえすれば平和になるかといえば違うでしょう。もっと平和を造っていく働きが大事です。でも私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできません。それは今日の聖書箇所にあるように、神と富と両方に仕えることができないのと同じです。私たちは軍事力と平和の両方に仕えることはできません。私たちはどちらによって命を守るのか、ひとつを選ばなくてはならないのです。
今日の聖書を読みましょう。これは私たちの命や関係について語っている言葉です。教会での関係は富や力によって決まるのではありません。教会の中ではあの人はお金持ちであることとか、肩書があることとかはどっちでもいいことです。教会はそれを軽んじます。それより私たちが大切にする親しむのは、私たちの関係は神様を中心にした関係だということです。だからこそ教会の中では互いに優しさのある言葉を交わします。この教会の中で起きていることは私たちの世界でも本当に起きてほしいことです。
私たちの住む世界は、お金と力がものをいう世界です。だいたいの問題はお金で解決できるのでしょう。だからこそ私たちの世界は富・お金によって自分を守ることができると錯覚するのでしょう。軍事力はこの富とよく似ています。それが人よりたくさんあれば自分を守ることができると錯覚するのです。しかし富・お金・軍事力をいくら自分のもとに集めても、本当の平和は生まれません。
私たちは富や力が平和を生み出すとは考えません。この教会の中で起きているように、世界も神の愛によって平和が造られると信じます。神の愛こそ平和の源であり、私たちの命を守ると信じます。「愛を憎んで抑止力を愛するか、愛に親しんで抑止力を軽んじるか」どちらかなのです。
沖縄から日本、そしてキリストを見ると様々なことに気づかされます。私たちは富のある者に親しみ、声を聞くのではなく、基地の存在に苦しむ場所、世界で日本で小さくされている人の声を聞いてゆくことに親しみたいのです。その人々が抑えつけられている力を知り、そこから解放されることを祈り、連帯してゆきたいのです。基地と抑止力ではなく、愛を選びたいのです。