「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」マタイ17章4節
私たちは第3・第4金曜日に、こども食堂を開催しています。忙しい1週間を送った人たちが、金曜日に教会の食堂に集い、食事をし、励まされ、またそれぞれの場所へと向かってゆきます。私はその光景を見て「ここに教会があるのはすばらしい」と感じます。きっと地域の人々もそう思ってくれているはずです。
礼拝に集うこと、食堂に集うこと、私にはそれが重なって見えています。きっとどちらも同じ様に、神様に招かれる、教会に行く、神様が共にいる、励まされる、それぞれの場所に派遣されることなのではないでしょうか。そして私は今日の個所も教会に集う事と共通していることがあると思います。聖書を読みましょう。
マタイ福音書において山は非常に重要な場所で、イエス様はいつも大事なことを話す時は山に登りました。イエス様にとって山の上は、祈りの場所、神との出会いの場所でした。イエス様は日常を離れてそこに一緒に行こうと私たちを招いてくださっています。このことは礼拝に参加する私たちとも共通しています。そしてこども食堂の利用者にも共通しています。
ペテロは「私たちがここにいるのはすばらしいことです」と言いました。現代の私たちに置き換えるなら「ここに教会があるのはすばらしいことだ」「ここにこども食堂があってよかった」ということに、置き換えることができます。
ペテロはそこに小屋を3つ建てようと提案をしました。しかし天から「これに聞け」という声が聞こえました。それは、建物はいい、それより神の言葉を聞けという意味です。私たちは誰よりも建物の大切さを知っています。でも最も大事なことは、イエス様に聞くことであるということを忘れないようにしましょう。
弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏したとあります。ひれ伏したという言葉は、礼拝をしたという意味も含む言葉です。これは礼拝です。そしてこの礼拝ではイエス様が弟子たちの手を握って、こう言いました「起きなさい、恐れることはない」。弟子たちはどれほどの励ましを受けたでしょうか。弟子たちはその言葉を聞いて、また山の下、日常へと戻ってゆきました。これもちょうど日常からイエス様に招かれて日曜日の礼拝に来ること、礼拝し励まされて日常へと戻ることに似ています。そして日常から食堂に招かれて、食事をして励まされて、日常へ戻ることと似ています。
私たちは本当に「ここにこの教会があるのはすばらしい」と感じています。神のみ言葉を聞き、希望を持ち、また歩み出せるこの場所があることに、心から感謝しています。私たちだけではなく多くの人々がこの教会で神の励ましを受け取り、それぞれの生活に戻ってゆきます。
今日、イエス様は私たち一人ひとりの手を握り『起きなさい、恐れることはない』と語りかけてくださっています。私たちはこの言葉を胸に、次の一週間も力強く歩み出しましょう。そしてこの教会をもっと「ここに教会があるのはすばらしい」と言われる教会、人々を招き、励ます教会にしてゆきましょう。お祈りします。
どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。 マタイによる福音書12章25節
今日はこの後、来年度の計画を確認する総会が開催されます。私たちはキリスト教の中でもバプテストという民主主義を大事にするグループで、議論しながら物事を決めていく教会です。今、特に大切な議論は新会堂を建てるのか、それともこの会堂を修繕するのかという点です。議論するとは意見を述べ合うだけではなく、互いが考えを受け入れ、変わってゆくことです。今日は、私たちは議論し、互いに受け入れ合い、互いに変わってゆくこと、どんな時も神様が私たちを導いてくださるということについて考えましょう。
マタイによる福音書12章22~32節までをお読みいただきました。イエス様は二重に障がいのある人を癒したとあります。それは神様の一方的な恵みによる癒しでした。神様は良い事をした人にだけ良いものを与えるお方ではありません。神様はたとえ私たちが動けず、見えず、聞こえず、しゃべれなくなっても、私たちに良いものを与えてくれる方なのです。私たちは全員、やがて若さを失い、病になり、自由に動けなくなる日が来るでしょう。それぞれも、そして教会もそうかもしれません。でも神様は何ができなくなっても、何があっても必ず私たちに良いものを与えられるのです。私たちはこの信頼をもって聖書を読み、人生を生きてゆきましょう。
24節の発言は議論ではなく、ただの拒絶と批判です。本当の議論とは、互いの考えを尊重し、共に変化することです。イエス様も反対する人もみな、内輪もめ、拒絶と批判による分断の力の大きさを知っていました。25節、どんな支配も、どんな国も、どんな町も家も、そしてどんな教会も内輪で争えば、荒れてはててゆくのです。
私たちもこの後、熱心な議論をしてゆきたいと思っています。しかし議論と他者の拒絶と批判による内輪もめとは違うものです。きっと議論することは、分断の危うさを含んでいます。
私たちはまず一致していることに目を向けましょう。神様の愛は一方的で、どんな人にも恵み深い方です。どんな時も神様が導いてくださるお方です。私たちはその最も重要な部分で一致することができています。私たちは自分の希望が叶わないことがあるかもしれませんが、神様がすべての導いてくださることを信じる、そのことを土台に共に議論し、歩みましょう。
私たちは何度でも悔い改め、変わることができます。神様の私たちへの赦しと愛には際限がありません。しかし自分は間違っていない、変わる必要ないと思って生きることは、神様の際限のない赦しへの拒絶です。際限のない神様の愛の前に、自分の貧しさ、欠けに目を向け、自分が変わってゆくということが大事です。私たちは難しい議論の中で、大小の内輪もめが起こるでしょう。でも私たちは議論し、互いに悔い改めあい、互いに赦されながら、互いに変わってゆきましょう。そして思い通りにならなくても、絶対に神様の導きがあると信じ、前に進みましょう。お祈りします。
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。 マタイ12章35節
今日は東日本大震災と原発事故を覚えながら礼拝します。人間は罪を持った存在です。自分自身が良い人間でないことを感じる機会はなんと多いことでしょう。そして今日注目したいのは、罪とは、個人個人のレベルに限らないということです。社会には一人一人の罪が積み重なり、凝縮された、社会全体の罪があります。それは社会の罪的な構造ともいえるでしょう。
「原発は罪です」なぜなら原発は私たちの便利な生活を支えるために、誰かが犠牲になるという罪の構造だからです。危険な廃棄物を10万年間安全に保管できる場所はありません。廃棄物が次の世代に命を脅かす深刻な負担を残すとわかっていながら、それを生み出し続けている原発は罪です。その原発は過疎地の人々にお金と引き換えに受け入れてもらいます。お金で不利益を押し付ける原発は罪です。
原発は核兵器と同じ原理です。核爆弾を最初に開発した科学者オッペンハイマーは広島・長崎で原爆が使われた後「物理学者は罪を知ってしまった」と言いました。
私たちはキリスト者として、この罪の連鎖をやめさせなくてはいけません。未来の命を守るために、お金で安全を買い取られ、危険を負わされる命のために、原発をやめなくてはいけません。このように原発は宗教とは関係ない問題ではありません。罪に関わる、大きな宗教的なテーマです。
マタイ福音書12章33~37節をお読みいただきました。33節には「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」とあります。原発は便利な電気を生み出す一方で、深刻な事故を起こし、放射性廃棄物を今日も作り続けています。
35節には「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出す」とあります。原発のゴミは行く当てもなくとりあえず使用済み核燃料プールという倉に眠り、処理水のタンクはいっぱいになりました。処理水はもはや倉に納めることができなくなり海へと放出されています。悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる、それはまさにこの原発のようです。
36節には私たちが「裁きの日には責任を問われる」とあります。私たちには将来の命への責任、今の命への責任があるのです。裁きの日、それは破滅が訪れる日ではなく、もっと先にある希望の日です。神様はこの地上をすべて善いもので満たし、完成させてくださる日に向けて、私たちを導いています。裁きの日とは、この世界が神様によって過不足なく完成させられる希望の日です。
やはり、罪ではなく、神様の希望に目を向けてゆきましょう。イエス様は抜け出すことのできない、罪から抜け出し、超えてゆかれる方です。そしてその先から私たちを導いています。神の願った行動をあなたが起こすようにと導いています。私たちがその罪から抜け出そうとするとき、必ず神様の助けがあります。私たちは平和で、命を大切にする社会を築く希望をもって、生きてゆきましょう。お祈りいたします。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。 マタイによる福音書15章28節
こひつじ食堂を始めて教会に大きな変化が起きました。日曜日の礼拝だけにしか使っていないかった会堂は、みんなが月2回集まる食堂になりました。この礼拝堂は、礼拝の場だけでなく地域との交わりの場へと大胆に変えられてきました。いろいろな地域活動をしていますが、私たちは出会った人たちをすぐにキリスト教へと改宗させることを目的にしているわけではありません。むしろ変化が大きいのは教会の方です。教会は出会いによって、より開かれた存在へと変わってゆきました。きっと私たちはこれからも地域の人との出会いによって変わってゆくのでしょう。
これは聖書の中にも見られる姿です。たとえば、今日読む聖書箇所では、イエス様ご自身がある女性との出会いを通して、驚くべき変化をしました。マタイによる福音書15章21~28節を読んでみましょう。
ティルスとシドンの地方は貿易で栄えた、富裕層の町です。カナンの女性とは異邦人、つまりユダヤ教の神様を信じない異教の人でした。当時のユダヤ教では異教の人との交際や会話は禁じられていました。女性に対してならなおさらです。しかしイエス様は本当にいろいろな人と出会います。カナンの女性は「憐れんで欲しい」と頼みます。お金では解決できない病を持っていたのです。
しかしイエス様は黙ったままです。そして24節でははっきりと、私はユダヤ人を導くために来たのであって、ユダヤ人以外の人、異教徒を導くために来たのではないと言います。女性はそれでも食い下がります。少しだけ私にもその恵みを分けて下さい、ユダヤ人以外だって、神様の恵みにあずかってもいいではないか、神様の愛はもっと広くに及ぶはずですと言ったのです。
イエス様はこの女性の信仰に感心しました。イエス様は、神様は確かに分け隔ての無い、広い愛をお持ちのお方だと、この女性との出会いを通じて改めて気付いたのです。この物語からイエス様自身が大きく変わる姿を見ます。イエス様の信仰は出会った人を通じて、変わっていったのです。
この物語を読んで、私たちは何を学べるでしょうか?出会いは私たちの視野を広げ、新しい気づきをもたらすものです。イエス様がカナンの女性との出会いによって変えられたように、私たちもまた出会いを通じて変えられていくのではないでしょうか?私たちの人生も様々な出会いによって変わってゆくものでしょう。教会がこひつじ食堂によって、新しい出会いによって、大きく変えられたように、私たち一人一人の人生も出会いによって変えられてゆくのです。
私たちは、変らない神の愛を大事にしつつも、いつも変化の可能性に開かれていることに目を向けていたいと思うのです。もしかすると私たちは相手を変えようとばかりしているかもしれません。でも本当は、自分が変わってゆくという姿の中に、イエス様の生き方があるのかもしれません。お祈りいたします。
「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」 マタイによる福音書5章17~20節
今月は「地域活動と福音」をテーマにお話をしています。先日はある方が教会のシェルターを利用しました。たった一晩の宿泊で彼をとり巻いている難しい状況が変わることはないでしょう。でもそれは本人にとっては一筋の光を見たような、天国とも思えるような経験だったのかもしれません。
こひつじ食堂は月2回、炊き出しは月1回、私たちには小さな点の様な支援しかすることができません。でも小さな点のような些細なことでも、誰かにとっては大きな励ましとなることがあります。それは時に、天国のような希望をもたらします。私たちの教会は、そんな「小さな愛の『点』」を大切にする教会です。今日は聖書から小さな点が大きな愛『天』につながっていることを考えてゆきましょう。
イエス様の新しい教えを聞いた人の中には、戒律の様な細かなこと、小さなことはもうやめてしまっていいと考えた人がいました。しかしイエス様は旧約聖書の大切さを伝えました。同時にイエス様はこれまでの戒律をもう一度、愛を基準にしてとらえなおす様に教えました。イエス様は律法の中にある愛に目を注ぎ、律法を愛の視点からもう一度見直し、新しく解釈し直そうとしているのです。
イエス様は、「律法の一点一画も消え去ることはない」と語りました。それは、律法の中にある小さな愛に注目しよう。それを軽んじてはいけないということです。どんなに小さな愛でも、愛は人を大きく支えます。だからこそ、イエス様は古い教えも愛の視点でもう一度見直し、大切にすべきだと訴えたのです。小さな愛を見過ごさず、大切にしよう、それが5章のイエス様の新しい律法解釈でした。
例えば安息日とは、意味もなく、ただ何もしてはならない日ではありません。それは神様に感謝をする日です。シェルターにいるように体を休め、自分としっかりと向き合うための日です。神様に感謝し、家族や仲間との時間との関係を考える日です。これは特に忙しく生きる私たちが失ってしまっている大切な時間でしょう。
この後「〇〇するな」が繰り返されます。「腹を立ててはならない」という律法は、礼拝よりも仲直りする愛を優先させようと解釈しています。
私たちの周りにどんな一点一画の愛があるでしょうか?私たちはその愛にどのように支えらえているでしょうか。私たちの教会自体も小さな点のような教会です。でも私たちは誰かを支え、誰かを愛し、誰かに生きる力を与えている教会です。そしてそれは教会だけではありません。きっとあなたもそうなのです。あなたも点のように小さい存在かもしれません。でもきっと誰かの生きる支えになっています。あなたの小さな愛の行動はきっと誰かを支え、励ましています。
イエス様は小さな一つの点、愛も失われない世界を目指したのです。私たちも小さくても、互いを大切にしあってゆきましょう。きっと私たちの点の様な愛は、神様のおられる天につながっているはずです。お祈りをいたします。
イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」マタイによる福音書13章3~4節
こひつじ食堂は私たちにとってイエスの愛の教えの実践です。私たちは信者を獲得するためではなく、いつかこの「愛」が伝わることを願っています。
私たちのこひつじ食堂は種まきに似ていると言えるでしょう。やがてつらい思いをしたとき、あるいは自分がこどもを育てるようになったとき、こども食堂の愛はより深く分かるはずです。ずいぶん先のことかもしれませんが、私たちはそれに期待をしています。いつか神様がその種を芽吹かせてくれる、私たちはそのことに期待し、未来に希望をもって種を蒔き続けてゆきましょう。今日はあきらめず、希望をもって、惜しみなく愛の種をまくことを一緒に考えます。
2000年前の種まきはいまよりずっといい加減に行われていました。種を握って、畑に直接ばらまき、芽が出るのを待ちます。まるで節分の豆まきです。一粒一粒ずつ、大事にではなく、気前よく、ひと握りの種を投げて蒔くのです。それは多少失敗してもいい、多少鳥に食べられてもいいという蒔き方です。
イエス様はこのように、あなたにもたくさんの種を蒔くお方です。イエス様は「あなたの心には蒔いてもムダかな?」と思ってもとにかくたくさん蒔いてくださいます。ひとりにひと粒ずつ種を蒔くのではありません。種をわしづかみにして、気前よくばら蒔いてくださるのです。イエス様は誰に蒔いたら芽が出そうか、よく吟味して種を蒔くお方ではありません。イエス様はとにかく種を蒔くお方です。芽を出し、育ってくれるようにと願い、大きな希望を持って、惜しみなく種を蒔いています。
私たちの食堂はそのような種まきに近いと思います。私たちはとにかく無条件に愛をばら蒔くのです。祈りながら、いつかたくさんの芽をだすと希望を持ちながら、100倍になることを期待して、祈りながら蒔くのです。それが私たちのこひつじ食堂なのではないでしょうか?
私たちは人生においてどんな種のまき方をしているでしょうか?私たちの生き方は愛を惜しんで一粒ずつ蒔くような生き方になっていないでしょうか。自分の蒔いた一粒の愛が無駄にならないように、よく相手を吟味してから、一滴の愛を注ぐような生き方をしていないでしょうか?ちびちび愛を注いで、いちいち実りがあるかどうかを勘定していないでしょうか?愛を注いだ人から、すぐに見返りの愛を求める生き方になっていないでしょうか。
私たちはイエス様の種まきを見習いましょう。イエス様は気前よく私たちを愛して下さるお方です。それは相手の失敗も織り込み済みです。でもきっとうまくいく、きっと愛は100倍に増える、そう神様に信頼し、たくさん蒔くのです。なんどもチャレンジするのです。そのように神様を信頼して愛の種を蒔くのです。その愛を受けて私たちはどのように他者に愛の種を蒔き、生きるのでしょうか。お祈りします。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。マタイ21章12節
今月と来月は地域活動と福音について考えます。外食の頻度や価格帯は、私たちの間にある格差をはっきりと表します。そのような中でこひつじ食堂はかなり平等なのだと気づかされました。全員が同じ料金200円で、同じものを食べます。でもその価値以上ものを食べることができるからです。
礼拝をすべき神聖な場所で、にぎやかな飲食をすることは、不信仰なことに見られるかもしれません。でも、私たちはこの食事が、福音宣教だと思って大切にしています。この食事は全員が神様の前に平等であることをよく表している食事です。
きっとイエス様も、会堂で食事などけしからんと怒るのではなく、この平等な食事を見て喜び、楽しく加わってくださるでしょう。なぜならイエス様も格差や差別に反対し、平等を愛し、共に食事をすることを愛したお方だからです。今日はイエス様が平等を行動で体現した姿を聖書から見てゆきましょう。
当時のエルサレム神殿にはたくさんの献金や献げ物が集まりました。しかし特権階級の祭司たちはその献金で贅沢な暮らしをしていました。イエス様が神殿から商売人や両替人を追い出した理由は、神殿で商売をすると神殿が汚れるからではありません。貧しい人からの献金で、祭司が贅沢な生活をしているという、経済的な搾取に反対をしたからでした。いわば神殿の集金システムを批判したのです。
神殿ではもうひとつ深刻な問題がありました。それは差別の問題です。神殿はいくつもの壁で仕切られ、その壁はまさに差別・階級の象徴でした。そして障がいを持った人は異邦人の庭にすら入ることが許されませんでした。
14節によればイエス様の行動の後、事件が起きます。門の中に決して入って来てはいけない、神殿を汚すと差別された人が神殿の中に入ってきたのです。イエス様の行動の後、障がいを持った多くの人々が、差別と階級を乗り越えて、イエス様のそばにやってきたのです。さらにイエス様は、差別された人を先に門の中に招き入れてから、神殿の中で癒しました。このようにイエス様は差別に反対する姿勢、徹底的な平等主義を行動によって示したのです。
既得権益と階級構造を揺るがすこれらの行動は神殿の特権階級を激怒させました。このようにしてイエス様は十字架に掛けられてゆくことになります。
現代にも様々な格差や搾取、階級社会とも言える不平等があるでしょう。人々は徹底的な平等を救いとして求めています。もしイエス様が今のこのような社会を見たらならどうするでしょうか。聖書を読む私たちは今をどのように生きてゆくことができるでしょうか。イエス様の求めた徹底的な平等を私たちも実現したいのです。私たちの教会からその平等を、この地域に広げてゆきましょう。お祈りします。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
マタイによる福音書4章15~16節
2015年に「翔んで、埼玉」というコメディー映画が大ヒットしました。東京の人々から「ダさいたま」と差別され、見下されていた埼玉県人が解放を勝ち取っていく、笑いと涙のあふれるストーリーです。
今も昔もいつの時代も人々は地域に優劣をつけようとします。ガリラヤ地方は人種・文化・宗教の混合した土地でした。そして山から流れる豊富な水で農業が盛んな地域でした。人々は訛りが強かったと言われています。エルサレムの人々はガリラヤに対して訛りの強い、農村地帯のド田舎という印象を持ち、見下されていました。イエス様はそのような場所で育ったのです。
マタイ4章15節にもあるとおり、イエス様の活動は中心地エルサレムから見てはるかかなたの場所から始まりました。16節では、ガリラヤの人々は暗闇に住む民と呼ばれています。ガリラヤはいつも見過ごされ、忘れられてしまう場所でした。イエス様はそのような場所に光を当てるために活動を始めました。光り輝く神殿のある、エルサレムではなく、日のあたらないガリラヤから活動をはじめたのです。
16節ではさらにガリラヤの人々は死の陰の地に住む民と呼ばれます。辺境の地ガリラヤに住む人々は、いつも見捨てられ、見殺しにされ、見下され、様々な国々に支配されてきました。イエス様は、その死の陰の地に住むガリラヤの人々に、光となったのです。イエス様は太陽が昇るように、夜が明ける様に、人々に現れたのです。
イエス様が見下されたガリラヤの地で宣教を始めた事、このことの意味を私たちはもう少し心に留めた方が良いかもしれません。クリスマスと、イエス様がガリラヤから宣教を始めたことの共通点は、メシアに似つかわしくない場所で人生と活動が始まるということです。それは明るく、光輝く場所からスタートしたのではないということ、人間の期待とは大きくかけ離れたところから始まったのです。
でも信仰とはそのようなものです。光り輝く奇跡から始まる信仰は多くありません。信仰は暗闇、良いことが一つもない、そのような時や場所から始まるものです。信仰とは自分自身の目をむけたくない場所が光で照らされるように信仰が始まるのです。私たち共同体の信仰もそうです。私たちは信仰を、思いもよらない人、場所から教わるものです。イエス様の光は苦しんでいる人、逆境の人、行きづまっている人、見下されるような人から訪れるのです。
イエス様は復活の後、ガリラヤでまた会おうと言われます。ガリラヤは復活のイエスと出会い、弟子たちの信仰の再スタートの場所にもなりました。失意の中で再び信仰に立つ場所になりました。信仰はガリラヤで始まり、失敗し、再びガリラヤでスタートするのです。そのようにしていつも信仰は、人々の注目の集まる中心ではなく周縁から、高みからではなく、低みからスタートするのです。お祈りします。
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。マタイによる福音書4章19~22節
キリスト教では牧師を目指すことを献身(けんしん)と呼びます。神様に向けてこれまでとは違う人生を歩み出すことは、たくさんのことを捨てるような気になります。でも神様に従うとは必ずしも何かを捨てることではありません。
みなさんの礼拝出席も立派な献身です。今日みなさんは、家族を捨てて礼拝に来たわけではありません。家にいる家族と新しい関係を願って礼拝をしているでしょう。教会の存在も同じです。教会は社会との関係を断って存在をしているのではありません。私たちは地域といままでよりもっと深い関係を願って礼拝をしています。
きっと聖書は私たちに何かを捨てて、神に従う事、礼拝することを求めているのではないでしょう。聖書は私たちが大切にしているものを、大切にしたまま、新しい関係を求めて、神様に従うことを求めているのでしょう。
聖書に目を向けます。ある日、ペテロとアンデレは漁をしていたところ、突然イエス様が現れて「私について来なさい」と言われました。20節には「二人はすぐに網を捨てて従った」と書いてあります。この個所から神様に従う時には、たくさんのもの、すべてのものを捨てなければならない、そう言われてきました。
しかし22節には、舟と父は残して行ったとあります。網は捨てたけど舟は捨てなかったのです。実は20節の「捨てる」と22節の「残す」は、どちらも同じギリシャ語で『ἀφίημι(アフィエイミー)』という言葉です。この言葉は「捨てる」とも「残す」とも翻訳できる言葉です。翻訳の幅を考えれば、網も舟も父も捨てずに、そのまま残して従ったとも訳すことができます。無理に大切なものを捨てたと理解する必要はありません。自分の大切にしていることを大切にし続けてよいのです。
私たちは家族や仕事あらゆるものとの関係を捨てて、礼拝に来たのではありません。私たちは家族や友人や職場での新しい関係を願って、でも今日はそれを残して、今日この礼拝に集ったのです。私たちはそれぞれの場所での関係がより、うまくいくことを願って礼拝をしましょう。
そしてイエス様の招きは、自分のためだけではない人生を、他者に仕え、他者を愛する人生を送らないか?と語り掛けてます。それは自分の大切なことを大切にしながら、他者をもっと大切にする、そのような招きです。
私たちは今ある大切なものを抱きしめながら、神様に従ってゆきましょう。そして自分のことだけではなく、他者への愛と祈り、他者の大切にしているものを守ることに時間を使う生き方を選び取ってゆきましょう。イエス様はそのように私たちを招いているのではないでしょうか?お祈りします。
「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」
マタイによる福音書2章14~15節
国連の統計によれば、紛争や気候変動により故郷を追われた難民は1億2000万人に達し12年連続で過去最高を更新しています。難民の40%がこどもです。この数字の一人一人の人生に数えきれない悲劇があったはずです。日本は難民に厳しい国です。私たちは文化や経済の違いを超えて、難民を受け入れ、共存できる国になりたいと思います。この世界のどこで神様を見つけたら良いのでしょうか。今日は、神様は悲しみの中に居る人と、また戦火を逃れてきた人と共にいるということ、神様は困難に追われ苦しむ人と共にいることをみてゆきます。
暴力で奪った権力は暴力でしか守ることができません。ヘロデは自分の地位を狙っている者は親族でも容赦なく殺してゆきました。ヘロデの権力への執着は、こどもたちに対しても向けらます。この権力者は、自己保身の王であり、暴力的な王でした。人々の求めた救いとは平和であり、こどもたちを含めたすべての命が守られていくことでした。そのような場所に救い主イエス・キリストは生まれたのです。
イエス様の誕生は軍事的指導者、自己保身、暴力に象徴されるヘロデとは対極的なものでした。イエス様は強大な力に対して、力のない無力な姿でこの地上に生まれました。イエス様は逃げることを選びました。その姿は現代の難民と同じ姿です。多くのこどもが殺されました。その中でイエス様は生き残りました。イエス様は虐殺生存者という意味でサバイバーです。難民、虐殺からのサバイバーであった彼が平和を語ることには大きな重みがあったはずです。そしてイエス様は復讐ではなく、敵と思えるような相手を愛するようにと教えて歩いたのです。この物語はイエス様が平和をどれだけ大切に思っているのかということを示しています。
そして同時にこの物語は、私たちはこの世界でどこに神様を見出したらよいのかという答えにもなっています。私たちの神様は苦しむ者と共におられるのです。神様は難民の姿でこの地上を生きたのです。神様は苦しみのただなかに生まれて来られたのです。そのような場所に私たちは神様を見出すことができるのです。
私たちの心の内側にも向き合いましょう。きっと私たちは自分の心の中にもヘロデを見つけることができるでしょう。誰にでも自分の思い通りにしようと強引になることがあるものです。それをキリスト教では罪と呼びます。私たちは全員そのような罪をもった罪人です。この世界、この私の中にヘロデがいます。この物語は、この世界の、この私の罪に気づくように訴えています。
現代の難民とかつての難民イエス・キリストの両方に目を留める時、私たちは神様を見つけることができるでしょう。そして平和を実現してゆく者へと変えられてゆくでしょう。小さな命が世界を変えていったように、私たちの小さくても互いのためにすること、小さくても愛を伝えてゆくこと、それが世界を変えてゆくはずです。お祈りいたします。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。イザヤ11章8節
みなさん、あけましておめでとうございます。今年一番最初の朝を、神様を礼拝することから始めることができ感謝です。十二支によると今日からヘビ年です。ヘビ年というのは縁起のいい年だそうです。聖書にもヘビがたくさん登場しますが、聖書では神様の呪いを受けた動物、全世界を惑わす存在、悪魔の代表とされています。聖書でヘビはあまりにも悪者にされおり、ちょっとかわいそうです…。聖書の中にはヘビを肯定的にとらえている箇所があります。今日はヘビとの共存を考えます。
3節の「彼」とはあなたのこととしても解釈できます。あなた神様の見えない力に満たされます。その力を受けると目と耳だけで判断しないようになります。つまりそれは、誰かの声にならない声を聞き、誰かの表面化しない苦しみを想像するようになるということです。弱い人の立場から物事を見て、想像することができるようになるということです。弱くされている人に寄り添うことができるようになるということです。神様はそのような見えない力を、あなたに与えてくださいます。
5節、私たちは正義を、正義の味方・ヒーローが敵を暴力的にやっつける姿と考えがちです。でも神様の正義はそのような暴力的な正義ではありません。聖書の正義は平和や公平と近い概念です。聖書の正義は共存の概念です。やられていた人がやり返すのではなく、共存をする様になるのです。
6節はまさに聖書の正義が実現した世界です。弱い者と強い者が、富める者と貧しい者が共存してゆく世界です。神様の正義とはこのように様々な立場の人が共存共栄してゆける場所のことです。聖書は、本来共存が難しい者同士が共に生き、共に寝て、共に育つという風景を描いています。そして小さいこどもがそれを導くようになると言っています。それが正義に満たされた世界なのです。
8節にはヘビが登場します。聖書はヘビを悪魔の代表のように扱う場面が多くあります。しかし、今日の個所ではヘビと共存できると言われます。
私たちの世界、個人個人の生活の中には様々な衝突や対立があるでしょう。しかし、聖書はあなたがたは霊で満たされると言います。あなたを満たすのは排除の霊ではなく、正義の霊、共存共栄の霊です。その力であなたは満たされ、相手をやっつけるのではない方法で、共に生きていく力が与えられるのです。それが今年、私たちが神様からいただく力です。そして私たちには今年、失敗もあるかもしれません。神様は大きな失敗をして、たとえヘビのように否定をされても、きっとそれでも共に生きる道、共存の道を備えて下さいます。
今年1年、あなたは神様の見えない力で満たされるでしょう。そしてあなたは正義と公平・平和を追い求めるようになるでしょう。神様は敵と思える相手とも、共存と平和の道へと導いてくださるでしょう。共に生きる1年があなたには実現するのです。神様の力が海を覆う水のように、あなたの心を満たします。そのことを信頼して新しい1年を歩みましょう。お祈りいたします。
ところが「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書2章12節
今年も一年間、様々な出来事がありました。バプテスマ式、転入会、テレビ撮影、寄付、こひつじカフェ・・・。1年前には予想できないことがたくさん起こった年でした。地域協働プロジェクトの申請が理事会に否決されたのは1年前でした。私たちは納得できない思いもありましたが、新しい制度には私たちの要望が多く組み込まれています。これも1年前の想像とは大きく違う結果になっています。
今の私たちは1年前に目指した場所とは、かなり違う場所に到着しているような気がします。これら全体が神様の導きだと思います。神様の導きとしか言えないことがたくさん教会で起った1年でした。もちろん私たちの旅はこれからが本番です。でもきっとまた計画にないことが起こるでしょう。私たちの計画を超える、神様の導きがあるでしょう今日も聖書の物語から神様の導きを見てゆきましょう。
占星術の学者は星占いによって未来を予測し、未来の計画を決めるという人でした。そのような学者たちがひときわ輝く星を見つけました。これまで星の動きを正確に予測してきた人が、いままでとは全く違う動きと輝きをする新しい星を見つけたのです。学者にとってそれは大きな予想外の出来事でした。
学者たちは計画にはない長い旅に出発し、まずヘロデ王を訪ねました。しかしそこに新しい王は誕生していませんでした。彼らは計画を変更しなければいけませんでした。首都エルサレムの人々なら何か知っているはずだと予測しました。しかし彼らは何も知りませんでした。再度、学者たちは計画を変更し、ベツレヘムへ向かいました。しかし今度は家がたくさんあり、どこの家に新しい王が生まれたのか予測ができませんでした。そこでもまた星の光が導きました。星の光は学者たちをイエス様の生まれた家の前まで導き、止まったのです。占星術の学者たちは、そこでようやくイエス様に出会うことができました。旅の出発をしてからイエス様に出会うまでに学者たちの計画と予想は一体何度、覆され、変更されたでしょうか。しかしそのような変更は神様の導きによって起こされたものでした。この旅は最後まで神様の導きによって、計画が変更されます。夢のお告げに従って、ヘロデに会わずに別の道を通って帰ることにしたのです。学者たちは繰り返し計画を変えられ、自分たちの予測とまったく違う旅をしました。それは神様と星に導かれた旅だったのです。
この物語は私たちの人生にも当てはまるでしょうか。私たちは計画を立てましたが、計画通り、予想通りにはいかなかったことがたくさん起こりました。それは神様が私たちを導き、何度も計画の変更を迫った結果だったのでしょう。
私たちは次の1年どんな星を見つけ、どんな旅に出るのでしょうか?確かなことは、私たちは神様の大きな導きの中に生きているということです。私たちの計画や予測を超えて、また明るく輝く星が示されるでしょう。共にそれを目指して、旅路を出発しましょう。来年も神様の導きを共に歩んでゆきましょう。お祈りします。
彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書2章6~7節
今年、私たちの教会は「孤独のグルメ」というドラマでとりあげられて、大きな注目を集めました。このドラマは今回に限り「孤独ではない」設定となりました。こども食堂を通じて、普段の教会の温かさも伝わったと思っています。
教会の雰囲気は、さまざまな人が集まることによって織りなされています。そのひとつは「孤独ではない」という雰囲気です。教会に来れば誰かに会い、誰かと一緒に食事をすることができます。教会は孤独ではない場所として立っています。何回か教会のそのような雰囲気の中にいると「神様に守られている」と感じることがあるでしょう。
聖書によれば、神の子イエス・キリストが生まれてきたのは孤独な場所でした。孤独な出産によって、神様は孤独の中に共にいるお方であるということを表したのです。私たちの周りには出産、子育て、学校、職場、家庭、食事、介護、さまざまな場所に孤独が存在します。そのような孤独のある場所に、神様は来て下さるお方なのです。神様は孤独にいるその心に生まれ、その心に共にいてくださるお方なのです。神様は孤独と思える場所に共にいて下さるお方です。今日はどうぞ孤独でない教会でそれを感じてお帰りください。
主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。
マタイによる福音書1章20節
この後の持ち寄りの食事会、愛餐会(あいさんかい)を楽しみにしています。愛し合うということは、この食事のようなことです。誰かを思って準備すること、ひとりひとりの違いが大事であること、分かち合うこと、お互いのことをお腹の中に迎え入れ、受け入れ、ほめ合うということ、それが愛なのです。愛餐会は料理を通じてお互いを迎え入れる象徴です。それは教会の本質です。
私たちの教会は今年、様々な人を迎え入れました。いろいろな人が、いろいろな気持ちを持ち寄って集まるのが教会です。教会は愛餐会のテーブルに様々な料理が並ぶように、様々な人を迎え入れてゆく場所です。教会は、着飾ったり、背伸びしたりする場所ではなく、素直な自分でいられる場所であって欲しいと思っています。
楽しい食事の前に聖書から愛を聞きます。今日は聖書からお互いを受け入れ合うことを考えましょう。
ヨセフは婚約者マリアが自分以外の人のこどもを妊娠したと聞き、縁を切ろうと思いました。しかし天使が現れて、こう言ったのです「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」。ヨセフは正しい人・正義の人だからこれを受け入れました。正しいとは何でしょうか?我々の思う正義は悪い事をした人に罰を与える、悪への鉄槌が正義です。しかし聖書の「正義」「正しい」には、私たちのイメージする罰を与えるという意味ではなく、貧しくされている人や、立場が弱い人が守られるという意味です。。
もしかするとヨセフは第一にお腹のこどもを守るということを考えたのかもしれません。それが神様の目に正しいことだったのです。ヨセフは正しく、正義の人だったからこそ、立場の弱い、こども命に目を向けました。そしてヨセフはマリアのことも信じ、守ろうとしました。それが正しいことだと思ったのです。
ヨセフがこのようにこどもとマリアを受け入れ、迎え入れた様子を見て、果たして私はそのように、他者を迎え入れる存在になっているだろうかと思いました。自分の正義ばかりを振りかざし、彼のようには他者を受け入れられない自分を見つけます。私たちのこの教会はどうでしょうか?私たちの教会もヨセフの様に、様々な気持ちをもった人を迎え入れることができる教会になりたいと感じます。さまざまな人々が集まれば、いろいろな衝突が起きますが、私たちはその出会いを恐れずに、お互いを迎え入れあいたいのです。きっと聖霊は教会にもこういうでしょう「恐れず、迎え入れなさい」。この声を聞き、私たちの教会はお互いを迎え入れあってゆきましょう。
私たちの人生には驚くことや苦労が起きるものです。でも神様は私たちにそれを迎え入れるように、向き合う様に言っているのです。そして何よりまず神様が先に私たちのことをも受け入れ、迎え入れ、愛してくれているのでしょう。私たちはこの神様を信じ、愛し合い、迎え入れあいましょう。お祈りいたします。
イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
マタイによる福音書11章4節
クリスマスは、キリスト教や教会が最も注目を集める季節です。キリスト教のことはネットで検索してもわかりません。キリスト教を知るには日常生活の中でクリスチャンと出会うことがもっとも重要です。キリスト教のことを知らない人にとって、本物のクリスチャンである皆さんとの出会いはとても貴重な体験です。
私たちは他の人と少しだけ、大きく違うことがあります。それは愛し合おうとするということです。私たちが他者を愛するという姿勢が、私たちの背中から伝わり、キリスト教が、福音が伝わっていったら嬉しいと思っています。今日はイエス様に従った人々から、どのように人々に福音が広がってゆくのかを見てゆきます。
イエス様に従った人々は、傷つき、弱さを抱えた人々でした。イエス様はその人々と共に過ごすことで、励ましと希望を与えていました。そこにヨハネの弟子たちが来て「来るべき方は、あなたですか?」と聞きました。それに対してイエス様は「見聞きしていることを伝えなさい」と返事をしました。イエス様は言葉であれこれ説明をしようとしませんでした。「あなたの見たままが答えですよ」と言ったのです。それは自分でその人と出会って確かめるようにという意味です。
果たしてイエス様は弟子たちの何を見せようとしたのでしょうか。きっとイエス様は癒された人々のその後の姿、生き方、背中を見るようにと言ったのだと思います。人々はイエス様に愛され、受け入れられてゆきました。やがて癒された人々は今度はイエス様の様に他者を愛し、受け入れ合おうとしたはずです。イエス様の群れは仲間を愛し合う共同体となってゆきました。イエス様はヨハネの弟子たちに、それを「見よ」言ったのではないでしょうか。イエス様はヨハネの弟子たちに対して、自分が救い主かどうかは、このように人々が互いに愛し合っている様子を見ればわかると言ったのです。これは面白い答えです。
今の私たちに重ねたらどうなるでしょうか?イエス様はキリストが本物かは、出会ったクリスチャンの生き様で示されると言うでしょう。私たちはイエス様に癒され、励まされて終わりではないのです。人々と出会い、愛し合う姿を見せる、それがイエス様を本物だと証しすることになるのです。行動で示し、背中で語る、それが福音を伝えることになるのです。
私たちはどう生きるかを考えます。私たちは神様を信じない人と同じ様に苦しみを生きています。でも私たちは、互いを愛し合うこと、大切にしあうことにおいて他の人と少しだけ違う生き方をします。神様はそのように私たちが葛藤する姿、愛し合う姿を通じて、福音を広げるお方です。
クリスマスは多くの人がキリスト教への関心、クリスチャンへの関心を向ける時期です。私たちはただ愛し合うという姿によって、キリストが救い主であることをそれぞれの場所で証ししてゆきましょう。お祈りします。
この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
マタイによる福音書13章55節
今日も共に礼拝できること主に感謝します。クリスマスまでの日付を数えています。ここ平塚市豊原町の人口は約1000人ほどだそうです。豊原町内会は小さな町内会ですが、まだ地域の触れ合いが残る良い町です。このくらいの人数がなんとなく顔が分かってちょうどよいものです。小さい頃から平塚・豊原町で育った人々は、驚くほど地域の人ことをよく知っています。それは長年の交流が積み重ねなのでしょう。この町は人と人との距離感がとても近く、温かい場所です。
なんでも聖書の時代と重ね合わせてしまいます。考古学的な発掘によればナザレは500人以下の村だったと推測されています。ナザレは町内会ほどの小さな村だったのです。村の家は集合住宅で、数家族が住む長屋が多くあったそうです。イエス様はこのナザレで育ちました。ナザレの人は神秘的なクリスマス物語について、何も知らないようです。イエス様は普通の男の子、小さい村の近所のこどものひとりだったのです。長屋の子どもでした。
ナザレの人々は、自分たちの村、まるで小さな町内会のようなコミュニティから、世界を救う宗教指導者が生まれることを想像できなかったのでしょう。ナザレの住民の反応は容易に想像できます。イエス様が駆け回っていたナザレ村の広場に、大人になったイエス様の姿があります。イエス様はそのような距離感で一緒に暮らした人々に現れました。だから57節にもあるように「人々はイエスにつまずいた」のです。受け入れられなかったのです。なぜなら距離感が近すぎるからです。
これはナザレだけでおきた反応ではありません。この反応は他の地域での先取りとして起きています。もしかして私たちがそこに居たら「あなたが救い主のはずがない」と他の人々と共に怒ったかもしれません。そんなうそつきは十字架に掛けろと一緒に叫んだかもしれません。さらに復活のその後まで見通すと、イエス様は復活の後、ガリラヤに行くと言います。やはりまたガリラヤなのです。
この物語は、私たちにとって神様とはどのような方なのかを示唆しています。それはつまり、神様とは私たちにとって近すぎるくらい、近いお方であるということです。まだ私には神様なんて来ない、こんな私に神様なんて来ない、そう思っている方は注意が必要です。そう思う人の心に神様はもうすでに近すぎるほどに来ているのです。神様は私たちのイメージを超える場所と、時間に現れるお方です。
その距離感も私たちの心に近すぎるくらい近くにすでにいるのです。ここではない、今ではない、私ではないと思う場所にこそ、神様は現れるのです。
クリスマスをそのことを感じながら迎えてゆきましょう。私たちのすぐ近くに神様がいます。それを私たちの普段の生活の中で感じ取ることができるでしょうか。私たちが見過ごしてしまいそうな場所に神様がいいます。私たちはきっとその存在を見つけることができるはずです。お祈りをいたします。
だから、あなたがたも用意していなさい。
人の子は思いがけない時に来るからである。マタイ24章36~44節
今年も毎日のように「いつまでに」という何かの日付に追われた一年でした。一方、こどもの誕生の日付は人間の手で決めることができません。私たちにはその奇跡を静かに、祈って待ちます。私たちのクリスマスには、日付がついています。でも違う希望もあります。それは日付の無い希望です。いつだかわからないけど、必ず起こるという約束のある希望が私たちを前に進ませてゆくのです。そしてその希望にはきっともうすでに始まっている部分があるのではないでしょうか。
当時のユダヤの人々は救い主の誕生を何百年も待っていました。同じクリスマスを待つということでも、日付を知っている私たちと違い、当時の人はまるで泥棒のように、あるいは突然帰って来る主人のように、いつ起こるのかわからないものだったのです。いつ来るかわからないものを待つというのは、どれだけたいくつで、どれだけ長く感じたでしょうか。日付の無い約束は、口先だけの約束に感じるかもしれません。苦しい時、せめてそれがいつ終わるのか、その日付さえ分かれば、先が見えさえすれば、それまで我慢することができるものです。日付こそ希望のように思います。それでも人々はいつ起こるかわからないことを、希望にしていました。
そしてそれは何百年も続く、息の長い希望となりました。救い主の誕生をずっと待ち続けることが、彼らの信仰だったのです。息の長い希望を持つことの大切さを思います。何月何日という日付はないけれども、でも確実に訪れる希望を信じます。息の長い希望を持った人は日々の歩みの根底に希望を持つ者となります。毎日が一日一日が神様の希望に近づいてゆく、感謝の一日になるのです。私たちはこの先に神様が私たちに約束している希望があることを信じ、待ちましょう。
弟子たちもまた救い主を待っていました。しかしずっと待ち続けていた人はすでに目の前にいたのです。いつか必ず来ると何百年も待っていた希望は、実はすでに自分たちの目の前にあったのです。私たちはこのような希望のあり方にも心にとめておきましょう。すでに私たちには神様の希望が実現し始めているのです。もう実現しかかっている小さな希望が私たちの日々の中にも見いだせるでしょう
この個所から待つということについても考えます。イエス様は希望を寝て待てと言っているのではありません。イエス様はその希望を祈って待ちなさいと教えられているのです。私たちは祈って、希望がくることを待ちたいのです。そのようにして目を覚ましていたいのです。
私たちはこの後、主の晩餐という儀式を持ちます。これはイエス様が私たちに来るという約束を思い出すために、すでに来ているということを知るために行われます。その約束を忘れないために行われます。希望がやがて来ること、希望がすでに来ていることを覚えてこのパンを食べましょう。そして新しい希望の約束を信じ続けてゆきましょう。お祈りします。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
マタイ6章3節
こども食堂から見えてくる福音について考えています。ボランティアの方への趣旨説明では、私たちの食堂は貧しい人が集まっているという雰囲気にしたくないと説明をしています。誰でも貧しい人の集まる場所に行くということは自分の尊厳が打ち砕かれるような気がするものです。それは「私はそんな場所には絶対に行きたくない」という気持ちにさせ、かえって食事を必要としている人に届きません。だから食堂を貧しい人専用にしないことを大事にします。明るく、楽しく、誰でも利用できる雰囲気だからこそ、困っている人が利用できるのです。
そのようにして教会はみんなの心の穴、お財布の穴を埋めています。利用者自身は何を埋められているのか気付かないかもしれません。でもそれでいいのです。この考え方は聖書の教えとも重なると思っています。今日は、イエス様が困っている人と出会う時、どうすればよいかを教えている箇所を読みます。
イエス様の時代にも、多くの生活困窮者がいました。ユダヤの人々には助け合いの知恵がありました。今日イエス様は助け合いにおいて一番してはいけないことと知恵を教えています。イエス様は貧しい人に対して、人前で支援を行う事を禁止しました。それは貧しい人を利用した、自己顕示であり、お金で周囲から良い評価を買おうとする、偽善の行為です。
今日はもう一歩踏み込んで、こども食堂の経験から、貧しい人の立場、善行を施される側の立場に立って読みたいと思います。この個所でイエス様は手助けをする際は他の人に悟られることなく、手助けをするようにと言っているのです。イエス様の教えには手助けをする前提に、相手の尊厳に対する配慮があります。この話はただ、自己満足な支援をするなという教えにとどまっていません。イエス様は相手の尊厳への配慮があって、初めて手助けにつながるのではないかということを、ここで投げかけています。それは誰かに手助けをするときは、相手への配慮と相手の尊厳を何よりも大切にすべきであるという教えです。
この教えを私たちの内面にもっと広げて考えてみましょう。神様は私たちに何か良い物を下さる時、人々の目の前で、私たちに渡すようなお方ではありません。神様は良い物を下さる時、密かにそれを下さるのです。神様は右手が左手のすることを知らないように、私たちにはひそかに良い物を下さるお方です。私たちが誰にも知られたくない心の中に、神様はそっと贈り物を下さるお方なのです。
本当に良い物は、私たちの心の誰にも知られたくない場所に、そっと神様から与えられてゆくのです。それが神様の配慮です。神様は、私たち一人ひとりの心にそっと寄り添い、密かな恵みを授けてくださいます。その配慮に倣い、私たちもまた、誰かの心にそっと寄り添う活動を続けたいと願っています。こひつじ食堂も神様の配慮を地上で実現する活動をとして続いてゆくことを願っています。お祈りします。
稲垣久和の『閉鎖日本を変えるキリスト教 公共神学の提唱」という本を読みました。この本では社会全体を『個人と集団』『自己と他者』という2つの軸で4つに分類しています。教会は人の内面に関わることを専門としています。最近、教会以外の3つのグループは垣根を超えて協力し、自分たちの専門分野をより発展させています。一方、教会は自己・個人という枠組みの中に居続けようとしています。この本では、教会ももっと垣根を超えて他の領域に進出し出会ってゆくことで発展することができるはずだと言っています。私はこひつじ食堂がまさに他の領域に進出する取り組みに位置づけられると思いました。
今日はマタイ6章38~48節をお読みいただきました。今まで私たちはこの世のことを教会とは別のことととして、敵視してきたかもしれません。でも今日イエス様は、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。私たちとは異なる社会の領域の人々に対しても愛をもって接するよう導いているのです。反対に私たちの領域以外からは、私たちのことが敵に思えることもあるかもしれません。さまざまな宗教が、人の気持ちに付け込んで、お金を巻き上げています。平塚バプテスト教会も誤解され、敵視されているかもしれません。私たちが自分たちの領域から一歩踏み出さなければ、教会がその人と接点を持つことはまず無いでしょう。私たちは私たちの方からその人が暮らす領域に出てゆきます。そのようにして出会う時、はじめて教会への誤解が解けたり、私たちの信仰を知ったりするようになるのです。
イエス様の活動はまさにそのような活動でした。イエス様は旅をしながら福音と愛を広げました。自分から相手を訪ねて歩きました。そしてイエス様は、誰にでも太陽が登るように、誰にでも雨が降るように、神様の愛はすべてのひとにあまねく注がれると教えたのです。それが神様の愛です。イエス様はそのように自分たちと違う人に福音を、愛を伝えたのです。
教会の人同士が愛し合うことは当然です。私たちに教えられていることは、教会の仲間だけでなく、他の領域に出て行って、そこでも他者を愛しなさいということです。私たちの地域への活動は教会にとって二次的な「おまけ」ではありません。私たちの中心である信仰をより広げてゆくために、私たちの自身の信仰をより豊かなものにするために、愛を広げるために必要な活動です。
私たちは教会の中で互いに愛し合いましょう。そしてこの愛を教会の外にも、違う領域にも広げてゆきましょう。その時、出会いがありイエス様の愛を伝えてゆくことになるのでしょう。お祈りをいたします。
悔い改めにふさわしい実を結べ。 マタイによる福音書3章8節
地域活動と福音というテーマで聖書を読んでいます。私たちの教会のこども食堂はこれまで看板に「アレルギー対応はしていません」と記載していました。でも保管できるアレルギー対応食品を準備しておくという方法で表記の方法や利用できる人が増えることを教えてもらいました。
地域の方に平塚バプテスト教会は素晴らしい活動をしているとほめていただく機会が増え、誇らしく思います。でもまだまだ配慮していないことに気付かされ、そのことを悔い改めます。食堂にたくさんの人が来ているからこそ、少数への対応は無理と言ってしまうのです。もう一歩少数者への配慮をしてゆきたいと思っています。
もちろん少数者への配慮は食堂だけではなく教会全体のこととしても、私たちそれぞれの日常生活の中でも目を向けてゆきたい事柄です。今日はこのことをきっかけにして、聖書を読みます。
バプテスマのヨハネという人がいました。彼の元には大勢の人が集まっていました。ファリサイ派やサドカイ派の人々には誇りがありました。9節「我々の父はアブラハムだ」という誇りです。自分たちは選ばれた者であり、尊敬され、正しい事をしている、すばらしいことをしているという自覚があった人々でした。
そのような中でヨハネのバプテスマは、自分が正しい、自分が誇らしいという思いを捨てるという意味を持ちました。彼のバプテスマは人や世界を、これまでの正しさや誇りといった高みから見るのではなく、悔い改めや信仰の始まりといった低みから見直そうという運動でした。彼らは人々を見下してきた罪を告白し、バプテスマを受けて、新しい人生を歩もうとしたのです。
13節以降はイエス様がバプテスマを受けます。イエス様こそ自分を誇るべき神の子だったはずです。しかし神の子イエスが、誇ることを捨て、地上での活動をスタートしました。この後のイエス様の活動もこのバプテスマの延長線上にあります。イエス様は多数派になったのではありませんでした。ただ貧しい人、罪人と言われ差別された人、病に苦しむ人を訪ね、目を向け続けてゆきました。その人たちと食事をし、同じ場所で時を過ごしたのです。そしてイエス様はその後、十字架に掛かられてゆきます。バプテスマよりさらに低い場所へと向かわれていったのです。
しかし、その十字架は人々の絶望ではなく希望となりました。イエス様は人々の絶望の中に、共にいるという希望となったのです。イエス様は高みから私たちを見下ろして、善悪を判断し、審判を下そうとしているのではありません。イエス様は今も誇るのではなく、低みから、十字架から私たちを見ているのです。
私たちの地域活動は人々に支持されています。そしてみなさん自身にも誇るべきすばらしいものがあります。しかし私たちは誇らずに共に生きましょう。いつも私たちが置かれた場所で、見過ごされている人に目を向けてゆきましょう。イエス様のように、その人と共に過ごし、食べ、歩んでゆきましょう。お祈りをいたします。
『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタイによる福音書25章40節
今日は召天者記念礼拝です。私はキリスト教を良いことをした人は死んだ後に天国へ行く、悪いことをした人は死んだ後に地獄へ行くという宗教ではないと思っています。では人は死後どうなるのでしょうか。私は、人は死後、すべての魂が神様にのもとに迎えられ、安らぎを与えられると信じています。ですから、故人が苦しんでいるのではないかと心配する必要はありません。
キリスト教では死のさらに先に、復活するという信仰も持っています。復活とは神様がこの世界を完全なものにされる時、すべての人が新しい命を受けるということです。天に召された方々も、まだ復という次の希望も持っています。
そしてやがて私たち自身も死を迎える時が来るでしょう。私たちは最期の日まで精一杯生きてゆきましょう。
今日も聖書箇所は死んだ後の話をしているのではありません。この話は生きている者に語り掛けている話です。私たちはこの話から、天に見送った方が神様の元に安らかにいることを信頼し、そして残された私たちが、この地上でどのように生きるべきなのかを考えたいと思います。
聖書の物語を見ます。右側の人も左側の人も王様になら仕えて当然です。誰もが一生懸命、王様のお世話をしたのでしょう。しかし右側の人と、左側の人で大きく違ったことがありました。それは王様以外の人々への態度でした。王様は人々がもっとも小さい者へどのように接しているのかを厳しく見ていました。
「もっとも小さい者」とはどんな人のことでしょうか。それは小さいこども、助けを必要としている人、社会的に弱い立場に置かれた人、社会構造の中で自分らしく生きることが出来ない人ともいえるでしょう。私たちは本当に様々な場所で、小さくされている人と出会うはずです。私たちはそのような人々への接し方で、死後に天国に行くか、地獄に行くかが決まるわけではありません。しかし神様は、私たちがそのような小さくされた人とどのように接しているのかを、厳しく見ておられます。
これは地上に残された私たちへのメッセージです。神様は、あなたたちはこの地上の残された人生で、小さい者・小さくされた者に目を向けてゆきなさいとおっしゃっています。私たちが良い事をするのは、決して私たちが天国に行くため、自分の死後のためではありません。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 ヨハネ20章19~29節
私たちは、ある時は他者に傷つけられ、またある時は他者を傷つけながら生きています。一度生まれてしまった対立関係、そして、心の中に沈潜した敵意や憎しみから癒されること、すなわち、他者と和解することは、とても困難な、しかし、大切な課題です。私たちは30年前に大虐殺が起きたルワンダで平和と和解の働きに仕えながら、その課題の困難さをひしひしと感じながら生きてきました。
ヨハネによる福音書の20章では、復活されたイエスが自分を見捨てた弟子たちと再び出会っていく物語りが描かれています。そこでイエスは驚くべき言葉を弟子たちに語られました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」(21節)。そしてその後、弟子たちに息を吹きかけられました。その息とはイエスご自身の霊、聖霊です。それは、イエスの命、愛と赦しの霊です。そして、弟子たちに赦し合って生きる共同体を築き、赦しと和解のために人々を執成していくようにとの任務を授けられたのでした。
23節には、イエスの謎めいた言葉が記されています。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」時としてこの言葉は、聖霊を与えられた弟子たちが、罪を犯した人々を赦したり赦さなかったりする権限を与えられたという解釈がなされるようです。しかし私は、むしろこのみことばの中に、イエスが私たちに「赦しと和解という希望をゆだねられた」という福音を見るのです。神による罪の赦し、そして、神と人間との和解は、主イエスの十字架を通して成し遂げられました(エフェソ2:11-22)。しかし、人間同士の赦しと和解は、私たち人間にゆだねられているのです。
私は主イエスが、傷つけられ「赦せない」と思っている人々に対して、赦しを義務として負わされるような方ではないと信じています。赦しは神から来る恵みなのです。心と身体に深い傷を負わされながらも生き残った者、サバイバーによる赦しは、イエスですら要求されるようなものではありません。人間の努力によって出来るようになるものではない。それはただ、神ご自身が癒しと共に、恵みとして与えてくださるものなのです。
罪ある私たち人間が、神によって赦されたことも恵みです。その赦された私たちが赦すことの出来る者へと変えられていくことも恵みです。赦しが恵みとして神から与えられることによってのみ、私たちは赦すことのできる者になるからです。そして、私たちが何者かを傷つけたにも関わらず、その被害者の方に赦していただけるとするならば、私たちはその方を通して神の「恵みとしての赦し」を受け取るのです。しかし、この赦しの恵みを、それぞれの立場にある私たちが受け取るかどうかは、私たち一人一人にゆだねられているのです。赦しと和解、それは、十字架にかかられ、三日目に、傷を負ったままの姿で復活された主イエスが、私たちにゆだねられた希望なのです。
#佐々木和之
わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ
コリントの信徒への手紙二12章9節
私たちはいま世界で起きている惨状を前にして戸惑い苦しみながら「なぜ戦争を止められないのか」と嘆く。しかし力で解決しようとして強さを求める姿勢が問題であり、それは信仰の強さを求める姿勢も無関係ではない。そこで「弱さを誇る」という言葉に込められたパウロの思い、信仰に注目したい。
パウロの働きによって地中海沿岸の都市に多くの教会ができ、多くのギリシア人キリスト者が生まれた。しかし教会の中に現れた熱狂的な人々が自分たちはもう救われて「完全な者」になったと誇り、エルサレムから来た人々が割礼を受けてユダヤ人になり、律法に従わなければならないと説いた。霊において完全になったと誇る人々はその霊的な強さを誇り、ユダヤ主義者は律法を守る強い信仰で得られる強い力を誇った。そんな力を誇る人々に対してパウロはこれまでの自分の苦労を語った上で「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」と断言する。また「キリストは弱さのゆえに十字架につけられました」と語るようにパウロにとって十字架は弱さの象徴。律法では木にかけられた者は呪われた者。十字架刑で処刑されたイエスは神から呪われた者であり、神から見捨てられた者となる。そのイエスを神は引き上げられた。9-10節の「力」「強い」と訳されている言葉は、動詞になると「〜できる」という意味になる。何ができるのか、それは「人の心を動かすこと」すなわち「福音を伝えること」。つまりパウロが言おうとしているのは、自分自身が弱いときこそ、あの十字架につけられたキリストが自分の中に働いて、自分もまた福音を伝えることができるということ。
私たちは「クリスチャンはこうあるべきだ」という無意識のイメージを持っていないか。できているときは誇らしく感じ、できないと「信仰が弱くなった」と落ち込む。しかしイエスが十字架に磔にされている姿は、何もできない姿。神から見捨てられた呪われた姿。しかしそのイエスをこそ神は引き上げた。つまりこれができるから、これをしているから神が人を認めるのではない。まず神がこの私たちを愛している。パウロもまた弱さの中でその神の愛を伝えようとした。私たちは教えを守り、義しく過ごす事が信仰で、その姿が証しだと考える。しかしこのできない、惨めな私だからこそ、その私を愛される神のすばらしさを伝えることができる。そしてその愛に応えたいから神に従いたい。従うアピールをしたから神が私たちを愛されるのではなく、まず赦されている、その愛に応えたいのだ。自分の義しさを貫こうとするのではなく神の前で頭を垂れ、神の言葉を聞くように相手の言葉を聞き、自分の信仰を誇るのではなく神の愛を誇り、その愛が自分に注がれていると同じように相手にも注がれていると、分かち合っていきたい。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
マタイによる福音書15章35~36節
今日は10月16日の世界食糧デーに合わせてこの礼拝を、収穫感謝礼拝としています。私たちの教会で運営している「こひつじ食堂」に多くの食品が寄付されることに感謝しています。頂いた食べ物が、どこでどのように収穫されたのかを聞くと、食べ物の命を強く感じます。そして食べ物に命を感じると、感謝の気持ちが深くわいてきます。こども食堂はそのように食べ物と命に特別に感謝する場所です。
クリスチャンは食前に感謝の祈りをする習慣を持っています。私たちは食前の祈りで生産者の人に感謝すると同時に、それだけではなく、食べ物を神様が与えて下さったものとして感謝の祈りをします。キリスト教ではすべての命は神様が創造したものだと考えます。そして神様が創造した命を食べることを感謝して祈ります。食前の祈りは神様が私たちに命を与えて下さったことへの感謝の表現です。私たちはこの感謝と祈りを大切にしましょう。今日は聖書からイエス様が感謝している場面を見ます。その物語から、神様に収穫を感謝するということを考えましょう。
今日は特にイエス様の食前の感謝の祈りに注目します。この食前の感謝の祈りはどのような祈りだったのでしょうか。イエス様が感謝したのは、まずこの食べ物を寄付してくれた人に対してでしょう。そしてそれ以上に神様に対しての感謝を祈ったのです。それはすべての恵みは神様からのものだからです。
そしてこの食べ物をよく見ます。それらの多くはもともと命でした。穀物も魚もすべては命でした。神様に創造された大切な命でした。イエス様はここで、神様がこの命を創造し、この命を私たちがいただくということに感謝をしたのです。
イエス様は地上に人間として生まれました。そしてイエス様は神様の創造した命を食べて生きたのです。イエス様は食べる前にその命に感謝して祈りました。イエス様はこのように神様に向けて、その命を食べることに深く感謝をしたお方でした。
驚くべきことに私たちは神様が創造した命を食べて生きています。普段それを感じることはできないかもしれません。でも私たちが食前に祈るとき、それを思い出すことができます。私たちが誰かから食べ物をもらったとき、それを分かち合ったとき、私たちが命を食べていることを深く感じることができます。私たちは命に感謝して、神様に感謝して、それを頂きましょう。そのようにして私たちの命はつながっているのです。
私たちはただ収穫物に感謝するだけでなく、その背後にある生産者の努力に感謝をしましょう。そして神様からの豊かな恵み、私たちが神様の創造した命を食べていることに感謝しましょう。私たち自身の命に心から感謝しましょう。神様の愛が私たちのすべてを満たしてくださいます。私たちは収穫と命に感謝しましょう。私たちは食前の祈るたびに神様の愛を深く感じましょう。お祈りをいたします。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。
マタイによる福音書7章12節
2か月間、地域活動と福音というテーマで宣教をします。こどもには、できるだけいろいろな体験させたいと思います。大人とこどもが共に礼拝することは双方にとって素晴らしい体験です。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもと共にする礼拝をしましょう。また地域のこどもたちにも良い物をたくさん残したいと思います。多くのこどもたちが教会を訪れるようになり、きっとそのうち何人かは大人になって教会に訪ねてくるはずです。地域のこどもの声が響く教会してゆきましょう。そしてこの教会を次の世代も安心して集い、礼拝し、運営できる場所として引き継いでゆきましょう。できるだけ良い物をこどもたちに残しましょう。
これからの平塚教会は、こどもたちに関わり、未来に良い物を渡そうとする活動の中で、新たな道が示されてゆくでしょう。このような思いで私たちは2024年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。
私たちはこどもに少しでもよいものを与えたいという強い熱意がありますが、今日の聖書の言葉によれば、神様は私たちの熱意を上回る熱意をもっています。
今日は私たちの年間主題聖句マタイ7章9~12節を読みます。今は私たちには必要な物が不足しています。でも神様は良い物を下さると約束をしています。私たちはそれを信じましょう。
12節からは神様からの恵みを受ける話から、他者への実践を求める命令へと展開しています。私たちはただ良い物を受け取るだけの存在ではありません。恵まれている、だからこそ良い物を他者に手渡してゆけと言われているのです。私たちはこの命令を実践しましょう。例えば私たちはこどもたちに一番良い物を、一番良い状態で渡してゆきましょう。「人にされて嫌なことは、自分もしない」よりもう一歩踏み出して、良いものを渡してゆきましょう。
イエス様の律法理解は一貫しています。同じマタイ22章でも第一に神を愛し、第二に、隣人を自分と同じように愛することを勧めています。ほかならぬ他者に良い物を渡すことが、律法の実践なのです。
私たちはこの主題聖句と「こどもの声がする教会」という標語をもって歩んでいます。私たちは礼拝をするとき、神様が私たちに良い物を準備していることを思い出すことができるでしょう。そして特にこどもと共に礼拝をするとき、私たちもこどもに精一杯の良い物を渡してゆこうという気持ちになるでしょう。だから私たちはこどもの声を聞きながら礼拝をしましょう。教会の仲間の必要が満たされるように祈りましょう。地域のこどものために祈りましょう。教会を未来に残していけるように祈りましょう。お祈りします。
シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。イザヤ書62章1節
8月9月は平和について考えています。イスラエルとパレスチナの戦争について、世界のキリスト教信者の中には、イスラエル側に立つという立場をはっきりと表明し、積極的に応援する人々が多くいます。背景には聖書に書いてあることを、その文字通りに受け取っていくという信仰があります。たとえば聖書の中に、神はイスラエルにこの土地を与えると約束しているという記述があれば、それをそのまま理解します。いわゆるシオニズムはアメリカで非常に大きな勢力です。
私たちの聖書理解では、神様は暴力で物事を決めようとするどちらのグループも誤りとし、そのような暴力を最も嫌われるお方です。私たちはイスラエルとパレスチナの双方が間違っていると考えます。私たちには聖書を文字通りではなく、歴史や文脈に応じて解釈することが求められます。そして、強い者ではなく、傷ついた人々や虐げられている人々に目を向けて聖書を読むことが重要です。
聖書を読みましょう。この個所を文字通り、現代のイスラエル国に結び付けて読むのではなく、私たち人間全体に向けて語られている言葉として受け止め、戦争に疲れ果てた人々の視点から理解しましょう。
1節にある「わたし」とは神様の事です。神様はすべての人間が松明のように、明るく光り輝くことを願っておられます。神様はそれが叶うまで、黙っていないお方です。人間から徹底的に光を奪うのは戦争です。人間同士の戦争で傷ついた人にとって、最も強い心の支えになるのは、神様の言葉です。神様の言葉と光はいつも私たち全員に注ぎます。その神様の言葉は、止まることのない、平和の言葉です。
2節、人間の決める正しさと平和はいつも不完全です。しかし完全である神様の正しさと平和の実現はやがて必ず全員に来ます。神様が全員に正しさと平和を起こしてくださる時を「終末」と呼びます。終末は平和の約束です。必ず平和がくるということ。私たちはその終末の時に希望を持っています。
3節は傷ついた人々が回復される約束です。これは戦争で傷ついた人々によって王が立てられるということです。傷ついた人が王を指名してゆくのです。それこそが平和の王の在り方です。平和の王を建てるのは戦争で傷ついた庶民なのです。
4節と5節、人は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。
私たちは聖書から平和に生きる方法を聞いてきました。神様は平和について、黙っていないお方です。神様は口を閉ざさず、平和を語り続けて下さるお方です。私たちは神様の正しさと平和を追い求め続けてゆきましょう。私たちも平和の大切さを語ることを止めないでいましょう。私たちは戦争を見る時、傷ついた人に目を向けましょう。傷ついた人が平和の王を選ぶ世界にしてゆきましょう。これからも諦めずに平和を祈ってゆきましょう。お祈りします。
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
ルカによる福音書10章27節
私はバブル期に証券会社で働き、この世ですべてを失った経験から神様に出会い、今は東京バプテスト神学校神学専攻科で学んでおります。また同時に、これからの教会牧会には心理学が大変重要になると感じ、並行して通信制大学で心理学を学んでいます。心理学を学んでいると、聖書と結びつく箇所がたくさんあります。今日の聖書の箇所である「善いサマリア人のたとえ話」もそのような箇所の一つです。宣教題にしました「傍観」とは「岩波国語辞典」によると、「(手出し・口出しをせず)その場でながめること。当事者でないという立場・態度で見ること。」とあります。追いはぎに襲われた人を助けなかった祭司やレビ人は正に「傍観者」でした。この話はたとえ話ですが、今日は1964年に実際にアメリカで起こった「キティ・ジェノヴィーズ事件」という多くの人の見ている前で起こった凶悪犯罪を参照し、なぜそのようなことが起こるのか、ということを聖書の視点と心理学の視点から見てまいりたいと思います。
私たちも、日常生活の中で誰かの助けを必要としている人に遭遇することがあります。しかし、多くの人はサマリア人のように行動できるでしょうか?「他にも人がいるから大丈夫だろう」「急がなければ大切な用件に遅刻しそうだ」などの理由で見過ごしてしまうことはないでしょうか?
このような心理学における「傍観者効果」という現象は、多くの人が見ている状況で誰も行動を起こさない心理状態を言います。これは責任が分散されることや、誰かが助けるだろうという思いから、行動を躊躇してしまう等の原因で起こります。
このサマリア人の行動は、単なる親切心に留まらない愛の実践です。元々、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪かったのですが、イエス様の時代は特にひどかったようです。しかしこのサマリア人はその様な自分の感情や立場を度外視して「その人を憐れに思い」助けるという、まさにキリストの愛の姿を示しました。
イエス様は、このたとえ話を通して「隣人」とは元々備えられているものではなく、自分から作るものであると、そしてそのためにはどのように行動すれば良いかを教えてくださいます。律法学者たちは「隣人」を同族や同胞と限定的に考えていましたが、イエス様は民族や宗教を超えてすべての人が「隣人」と成り得るのだ、と教えてくださいました。
私ももう「傍観者」にはなりたくありません。心理学は、このような聖書の中にある人間の心の奥底を捉えた深い真理を科学で証明しようとする学問である、ということを改めて実感しています。
また教会は、愛の実践を促し、互いに支え合う共同体です。教会で経験した愛を通して、私は自分自身が「新しい命」を得るという経験をしました。それは、教会の人々が私の「傍観者」とならず、愛を示してくださり、私を「隣人」として、具体的に行動してくださったおかげなのです。(堀端洋一)
わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。
イザヤ書46章4節
礼拝の中で高齢者祝福祈祷の時を持ちます。今日は神様が私たちの人生を導いてゆくということについて考えます。「あしあと」という有名な物語があります。この話は聖書の話ではありませんが、神様の愛と支え、導きを良く表している美しいたとえ話です。私たちはつらく悲しい時、神様が助けてくれないで、一人で人生を歩んでいるように思うかもしれません。でも神様は私たちを背負って歩いてくれているのです。聖書にはいくつか、この話のモチーフになる箇所があります。
イザヤ書46章1~4節の時代、イスラエルの人々はバビロニア帝国との戦争に負け強制移住させられました。移り住んだ先にはバビロニアの神々が石や木で掘られ、街中に飾ってありました。
聖書は神の姿を石や木で掘って拝むこと(偶像礼拝)を禁止しています。一つの理由は、神様の願い・御心を、自分の欲望と混同しないようにするためです。人間が神様の形を掘り出せば、神様を人間の理想を詰め込んだ姿にします。どこにでも好きな場所に持ち出します。しかし注意していないと、神様を人間の思い通り、意のままの存在にしてしまいます。神様はそのように私たちの思い通りに、願いをかなえてくれる存在ではありません。だから聖書は偶像礼拝を禁止しています。
聖書によれば神様は私たちが見えていなくても、いつも一緒にいる存在です。見えないけれど確かに共にいて下さるのが神様です。姿・形に彫り出され動物にひいてゆかれる神は、聖書の神の特徴と反対です。聖書では神様が人間を背負うのです。
神様が私たちの人生を背負っています。私たちは神様の背中に乗って、運ばれている存在なのです。3節にはそれは生まれる前から死ぬ時までだとあります。そしてきっと死んだ後も私たちを背負ってくださるのです。それが聖書の神様です。
神様が私たちを背負うとは私たちだけでは前に進めない時、神様が私たちを支え導いてくれるということです。それは先ほど紹介した「あしあと」の話のようです。
私たちの人生はひとりでは生きていけないものです。私たちの神様はつらい時、確かに私たちを支えてくださるお方です。私たちはその神様を支えにして生きます。心の支え、魂の支え、生活の支えとして生きます。神様によって人生が願ったとおりになるわけではありません。でも私たちは神様が支え導いてくれると信じながら歩むのです。
このことをこどもたちにも伝えたいと思っています。これからずっと神様が一緒に歩き、つらい時あなたを背負ってくれるのだと。そして高齢者のみなさんと分かち合いたいとも思っています。みなさんの人生もきっとそうだったはずです。私たちにはこのように神様が共にいて下さいます。だから安心してこれからも歩んでゆきましょう。お祈りします。
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 イザヤ書40章4節
沖縄の伊江島という小さな島から、平和とは単に戦争がないことに加えて、もっと人々が自由で、平等な様子を言うのだということを考えます。
1945年伊江島の人々は日本軍から人間扱いされず、特攻のための箱型爆弾を背負わされました。戦後はアメリカ軍から人間扱いされず土地を奪われました。伊江島は戦争が終わっても平和は訪れていません。真の平和とは人々の権利が守られ、自由に平等に生きてゆける状態のことです。平和を実現する行動とは、伊江島の人々のように、戦争に反対し自由と平等に向けて働いてゆくことです。抗議運動を率いた一人に阿波根昌鴻という人がいました。彼はクリスチャンで、沖縄のガンジーと呼ばれる人です。彼は非暴力でアメリカ軍と対峙することにしました。さまざまな活動のひとつに「あいさつさびら(あいさつしようね)」があります。お互いが同じ人間同士だと伝えるための平和的な抗議運動として行われました。
その働きは聖書の平和と共通しています。イザヤ書40章はイスラエルが戦争に負けた後、戦争が起こした苦痛に苦しむ人々に向けられた神様の言葉です。「谷はすべて身を起こし、山と丘は低くなる」これが聖書の平和が実現してゆく様子です。
それはゆがんだ丸から説明することができます。現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとして高ぶる者が居ます。聖書の平和とは押し込められていた人が元に戻り、高みにいた人が元に戻される、みんなが対等に、等しく満たされている状態です。ゆがんだ丸が平らになっていくことが平和です。
5節、私たちすべての人間は、共に神を見る者として存在をしています。人間の中にだれ一人、鬼畜はいません。すべての者が共に神の栄光を見る、尊い存在です。同じ人間として他者がいることを忘れずにいましょう。共に神を見る者として互いを思いあうことは私たちが平和を実現するための第一歩です。7節には「この民は草に等しい」とあります。私たち人間は葦のように弱い存在です。でも私たちはただの草ではありません。私たちには神様の言葉があります。私たちは同じ人間であるという神様の言葉、神が私たちに平和を与えるという言葉が、弱い私たちにはあります。弱くても共に神のことを求め、平和のために働くことができるのです。
私たちの世界は平和ではありません。まだ様々な場所に、低くされ、抑えつけられ、人間扱いされていない人がいます。私たちは特に痛みを覚える人に目を向けましょう。そしてそれが元に戻されるために働きましょう。互いを対等な人間として、共に神の栄光を見上げる存在として大切にしましょう。挨拶をしてゆきましょう。そして神様の平和の約束を信じましょう。お祈りします。
まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 イザヤ書25章4節
8月と9月は平和について考えています。私の心を特に締め付けるのは戦争で泣いているこどもたちや、血だらけになって泣いているこどもたちです。世界中でその光景が繰り返されるたびに「神様はどこにいるのか」「神様はなぜ戦争を止めないのか」と疑問に思います。そしてこどもたちの笑い声が響きわたるのがどれだけ平和を象徴しているかを想像します。神様は一体どこでこの世界の様子を見ているのでしょうか。今日は戦争の中で神様はどこにいるのかを考えたいと思います。
4節は、神様は戦争において弱い者の砦であり、弱い者を守る側にいるということを示しています。誰が神に戦争の勝利を祈ろうとも、神はその力でどちらかに勝敗を下すことはありません。神様は弱い者の砦です。神様が関わるのは、弱さと貧しさです。神様は弱くて小さな者を見つけ、それを自分の元に集め、守ろうとします。弱い者、貧しい者の希望となるのが、神様なのです。戦争の報道は、どちらがどのような兵器で、どちらが優勢かという点に目を向けがちです。でも私たちも戦争に触れる時、傷つき、犠牲にされ、人生を壊された人を想像し、目を向けてゆきましょう。その時神様が戦争の中でどこにいるのかを見つけることが出来るはずです。
6節には神様が山で祝宴を開くとあります。山とは神様を礼拝する場所という意味です。祝宴・礼拝は神様の側からの招待です。この個所には「すべて」という言葉が3回出てきます。すべての民が、神様に招かれて、山に集まった者全員が祝宴に参加します。それが神様の礼拝の在り方です。この祝宴・礼拝に出て楽しみ、食べて、力をもらうのです。私たちにとってこの食べ物は、聖書の言葉です。聖書の言葉から命、愛、祈り、平和をいただきます。あるいは今日いただく主の晩餐も、この食べ物をよく象徴しているでしょう。神様に招かれて、私たちは聖書の言葉と、主の晩餐をいただいて、生きる活力、希望をいただくのです。
8節には主なる神はすべての顔から涙をぬぐうお方だとあります。戦争の光景にはいつも涙があります。神様はただひたすら泣く人間の涙を、ぬぐってくださるお方です。神様は敵味方関係なく、涙が流される場所、弱さと貧しさのある場所、安全な場所を求めて逃げまどう人と共にいるのです。神様はそのようにして戦争のただなかに、戦争の一番の悲しみの中にいるのです。
そして神様はすべての人を平和、礼拝へと招いています。世界では戦争によってたくさんの涙が流されています。そのような世界で、私たちは山の上の礼拝に招かれています。私たちはこの礼拝で平和を祈りましょう。
私たちは世界の平和を求めて礼拝をしましょう。壊れたがれきと涙するこどもを見て、神様は必ずそこにいる、涙をぬぐってくださると信じましょう。そしてその戦争が早く終わるように祈りましょう。一人一人が平和のためにできることをしましょう。そしてこれから主の晩餐を持ちます。このパンと杯を受けて、平和を実現させるための力と知恵と励ましをいただきましょう。お祈りいたします。
地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
イザヤ書9章4節
今日は平和祈念礼拝です。平良修という牧師を紹介します。戦後沖縄はアメリカ軍に占領され植民地とされました。植民地のトップには帝王と呼ばれる「高等弁務官」がおり、沖縄の政治・行政・司法を掌握していました。その就任式に招かれたのが平良修牧師でした。平良牧師はその就任式で「新高等弁務官が最後の高等弁務官となりますように」と祈りました。戦争に負け、暴力的に支配されている側の人間が、絶対権力者を前に、あなたが最後になりますようにと神様に祈ったのです。この祈りは大きな驚きと反響を呼びましたが、沖縄の人々を大きく励ましました。私たちもこのような祈りを持ちたいと思います。戦争をするリーダーが最後になりますようにという祈りです。今日の個所も就任式での平和の祈りです。
当時のイスラエルは戦争直前の状態でした。多くの人は軍備を拡張し、戦争に勝つことでしかこの状況を変えることはできないと考えました。そんな時に王様の交代がありました。
1節の「闇の中を歩む民」とは、おそらくすでに戦争に負けた、北側の住民たちのことです。望まない戦争を戦わされ、人権が蹂躙された人々のことです。彼らは、暗い闇を生きるように、死を身近に感じたでしょう。しかし神様は戦争の起こる世界の中でも絶望せず、光・希望があることを伝えています。2節、私たちには深い喜びが準備されているのです。4節は軍事力の放棄が語られています。神様は軍隊の装備、武器をすべて焼き尽くすお方なのです。平和には武器も装備も必要ないのです。私たちには平和と武器と基地の無い世界が神様から約束されているのです。それを信じましょう。5節の王とは「私たちみんな」に与えられた王です。王は私たちのみんなの命と生活を守る、神の僕です。そのような王が平和を実現するリーダーになるのです。6節正義とは正しいことです。そして恵みの業とは、偏りがなく公平に与えられる様子です。平和とは戦争がないだけではありません。平和とは正しさと公平さが行き渡る場所で起るのです。神様はそのような正義と公正から、平和を成し遂げてくださるお方です。神様はこのように平和を私たちに成し遂げると約束してくださっています。イザヤの祈りは平良修牧師の祈りとも重なるように思います。
私たちは平和を大事にするリーダーを選びましょう。武器を捨て、正義と、公平さを持ったリーダーを選びましょう。そして私たちが選んだリーダーが平和を選ぶように祈り続けてゆきましょう。
そして私たち自身も1週間、平和のリーダーとなってゆきましょう。私たちは自分の強さと勝利を求めるのではありません。私たちは暴力と力を焼き払い、正義と公正さ持ちましょう。そして平和の実現のためにそれぞれの場所で働きましょう。神様は必ず地上に、私たちに平和を与えて下さいます。今日はそのための平和祈念礼拝です。お祈りをします。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。イザヤ2章4節
8月と9月は平和をテーマに宣教します。ある平和学の教授が、人間同士の対立を理解するために「誰がお皿を洗うか」というたとえを使っています。教授は誰がお皿を洗うのかを決めただけでは、対立は解決しないと言います。その対立の中には実は互いへの期待や、思いやり、関係性、意思決定の方法など多くの要素が含まれています。お皿洗いはどちらがするのかという問題の中には、どのような関係性でありたいかという問題が隠れているのです。今日どちらがお皿を洗うかをとりあえず決めるだけでは、本当の問題は解決しません。常にその問題の中にある関係性、互いへの期待に目を向けてゆくことが大事です。
教授は、まず山積みの食器に目を向けるのではなく、その向こう側に目を向けて、問題となっている人間関係や構造を理解しようと勧めています。その後から、食器をどのように洗うかを考えようと勧めています。その場しのぎの答えではなく、問題の中の人間関係、構造に目を向けようと言っています。このたとえ話は平和を考える上で、とても重要な視点を教えてくれます。今日は聖書からも平和と、その実現のために必要な、私たちの転換について考えたいと思います。
当時イスラエルは近隣諸国から軍事的な圧力に直面していました。他国からの脅威があるとき、戦争しかないと訴える人はどの時代にもいます。このような緊張関係の中、神様はイザヤという人を通じて4節の言葉を人々に伝えました。この言葉は武器を捨てて平和を求めようということを意味しています。
そして今回、私はもう一つの意味を見出します。それは対立の原因となっている関係や構造に目を向けることが重要だということです。「剣を打ち直して、鋤とする」は、対立するのをやめて我慢する様に言っているのではありません。4節には打ち直せという言葉があります。私たちにその場しのぎの解決ではなく、問題の見方を転換し、背景にある人間の関係を深く考えるようにと促しています。「剣を打ち直して鋤とする」とは私たちに新しい方法で、対立を解決するように促しているのです。
これは対立について、内容ではなく関係に重点を置いた受け止め方です。対立をこのように関係に重点を置いて受け止める時、私たちはその対立をもっと積極的に受け止めることができるようになります。他者の理解を深める機会とすることができます。それは人間同士の対立にも、国と国との対立にも当てはまることです。
私たちの周りにはたくさんの対立があります。でもその対立について、根本的な人間関係に目を向けたいと思います。それが対立を平和へと転換する努力、打ち直すなのだと思います。剣を鋤に打ち直すとは問題を関係性の視点でとらえ、暴力以外の方法で解決しようとする姿勢です。私たちは今週それぞれの場所で対立に出会うでしょう。そのような時、私たちは剣を鋤に打ち直してゆきましょう。平和を実現するものとして歩んでゆきましょう。お祈りします。
そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。
マタイによる福音書15章35~37節
私たちの教会は正面の道路から礼拝堂の椅子に座るまで、大小9個の段差があります。教会もまだまだ配慮がたりないところがあります。教会は体に不自由がある人も健康な人も、こどももお年寄りも、だれでも歓迎します。私たちはそれを心と言葉だけではなく、教会の設備でも実現できたらいいと思っています。私たちがイエス様から愛をいただいたように、その愛を私たちが多くの人に手渡したいと思っています。今日は聖書の中に出て来る、体の不自由な人の物語から主の晩餐と私たちの愛のある生き方について考えたいと思います。
聖書の時代、病や障がいは罪の結果とされました。障がいをもった人々は、行いが悪いから病気になったと差別されました。それは当事者の心に、体の不自由よりももっと深く傷を負わせるものでした。イエス様は障がい者に無関心で差別的な社会にあって、障がいをもった人々を罪人と決めつけるのではなく、人々をいたわり、励まし、手を置いて祈り、癒しました。その愛が人々を回復へと導いたのです。
イエス様はそのあと全員で食事をしょうとしました。当初パンと魚は全く足りませんでした。それはまるで愛と配慮が不足した社会の様です。でもイエス様はそのような中で祈りました。すべての人にパンと魚が行き渡るように祈りました。障がいをもった人への差別がなくなり、愛され、合理的な配慮がなされるように祈ったのです。イエス様が祈ると不思議とパンと魚はすべての人にゆきわたり、余るほどになりました。イエス様の愛と配慮はすべての人に届き、有り余るほどなのです。この食事は主の晩餐でした。主の晩餐は差別と無関心のただなかで行なれ、そこからの解放と、愛と配慮がゆきわたることを求めるものだったのです。
パンと魚を弟子が群衆に配ったことにも注目します。弟子たちはイエス様からそのパンを一度預かって、配る役割を担ったのです。イエス様が愛し、配慮する姿を、弟子たちは同じ様に実践する使命を与えられたのです。
イエス様は差別され、排除されている人を励ますためにこの食事を持ちました。愛と配慮を伝えるために主の晩餐をしたのです。そのようにして社会的なバリアを取り除いてゆこうとしました。きっと私たちの教会が障がいをもった人、弱さをもった人を歓迎するのは、このイエス様の態度、イエスの食事に起源があるのでしょう。イエス様はそのような包容力のある社会、共同体を目指していたはずです。そして食事によってそれを実現しようとしたお方です。私たちもこのような包容力のある人間、包容力のある共同体でありたいと願います。そして私たち自身が、イエス様から受け取ったパン・愛を多くの人に配る使命をいただいています。来週の主の晩餐、このことを覚えてパンを食べましょう。お祈りいたします。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。ルカによる福音書24章13~35節
今月は主の晩餐について考えています。今日は信仰とは体験しないとわからない一面がある、信仰とは体験してこそわかるものだということについて考えます。
ソムリエのためのワインのテキストには様々ことが書かれています。しかし一番大事なのはワインを実際に飲んでみる事です。これに勝ることはありません。どんなに説明をされても味や香りは体験しないとわかりません。それはスポーツや音楽、料理にも共通します。今日の聖書の個所もどんなに知識として持っていても体験をしなければわからないことがあると教えています。
聖書の二人はイエス様を直接確かめようとしてエルサレムに向いました。しかし二人が見たものは、イエス様の十字架でした。そして彼らはイエス様が復活をしたという不思議な話も聞きました。二人は一体に何が起きたのか十分に理解できないまま、帰ることになったのです。そんな彼らに復活したイエス様がそっと現れます。
覚えておきましょう。私たちの神様は私たちが良い行いをした時に登場するのではありません。願いが叶わず、出来事の意味が十分に理解できず、うつむき歩いて帰る時、神様はそっと近づき、寄り添うように現れるのです。そのようにして神様は私たちに伴ってくださるお方です。この物語の大切なポイントです。
今日はこの物語から主の晩餐について考えます。二人がエルサレムの出来事を説明する様子はまるでキリスト教全体の説明のようです。彼らは事前に十分に学び、イエス様から直接、熱心に教えを受けていました。しかし彼らの目が開かれたのは、主の晩餐を受けた時でした。二人はこの特別な食事を体験して、初めてイエス様が復活をして共にいるということに気付きました。二人はこの食事・主の晩餐を通じて、それがわかったのです。
この物語は私たちの主の晩餐とどんな関係があるでしょうか。私たちは信じてから食べているのでしょうか。それとも食べることによって信じるようになるのでしょうか。私はあいまいかもしれません。信じるために食べているような気がしています。私たちは主の晩餐について食べてみなければわからないこと、食べればわかることがあります。私たち自身もこの二人のような存在です。いろいろ知っているけれど、食べてわかるようになる存在なのです。私は信じてからパンを食べるのか、パンを食べてから信じるのか、聖書はどちらの可能性にも開かれていると思います。
私たちはどのようにパンを食べるでしょうか。きっと信仰とは体験しないとわからない一面があるのでしょう。そのことに思いを巡らせながらまた主の晩餐をしてゆきたいと思います。イエス様はきっとそのような迷いや混乱に伴ってくださる方です。論じ合うそのそばにそっと近づき、導いてくださるお方です。お祈りします。
だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章28節
こひつじ食堂で一番混乱するのは、ご飯がなくなったときです。計算して準備しても時々ご飯が足りなくなってしまう時があります。全員が楽しく食べるためには、きめ細かい確認と、配慮が必要です。それをみんなで確認します。それぞれ自分の分があるかを確かめているのではありません、全員分、足りるかどうかをみんなで確かめながら食堂をしています。それはとても大切な配慮だと思います。今日は聖書の食事の中にどんな配慮があったのかを見てゆきます。
コリント教会では礼拝の後、みんなで持ち寄りの食事会を行っていました。当初はこれを主の晩餐と呼んでいました。しかし食事の時に先に食べて、先に飲んでしまう人がいました。後から空腹の人がやって来る時には、食べ散らかした残り物しかないという状態でした。コリント教会では食事の際に、全員分が足りるかという配慮が全くなく、自分の事だけを考えて食事をしていたのです。パウロは食事会をするならば全員が食べることが出来るように、食事の量や内容や、持ち方を良く確かめて、配慮しなさいと言っています。
自分だけ食べてしまう、その根底にはどんな考えがあったのでしょうか。他者への無関心や無理解があったでしょう。食事の事だけではなく忘れられている人、一人になっている人、見下されている人、後回しにされた人がたくさんいたはずです。
パウロはそのような共同体になっていないかよく確かめるように言っています。パウロがここで伝えようとしていることは主の晩餐を自分の内面や罪深さと深く向き合って、よく確かめてこのパンを食べる様にと言っているのではありません。
ここでよく確かめるべきことは、他の人との関係性です。自分の食べ物、自分の事、自分の罪を考えて食べるだけではなく、他者の食べもの、他者の事、他者への配慮をよく確かめて食べる様にと言っているのです。
パウロはふさわしくないままで食べてはいけないとあります。わたしたちはどこまで、その食事にふさわしい者でしょうか。私は自分自身をふさわしくないと思っています。周りの人を良く確かめて配慮することがまだまだ足りないと思っています。そのような中でも、主の晩餐を食べるのですけれども、のども通らないような気持ちで食べています。
私たちは食事の時だけではなく様々な場面で、忘れられている人、一人になっている人、後回しにされている人がいないかに目を配り、よく確かめたいと思います。それが今日の聖書箇所が指し示している生き方ではでしょうか。
ひとりも取り残されず、ひとりも忘れられない、そのようによく確かめられ、配慮された共同体が神の国と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは今週1週間、それぞれの場所でそれをよく確かめて生きてゆきましょう。神様はそのようにして私たちのいる場所に働き、導いてくださっています。お祈りします。
夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
マタイによる福音書26章20節
7月から主の晩餐について考えます。主の晩餐とはパンを食べ、ブドウジュースを飲む儀式です。私たちの教会では洗礼を受けたクリスチャンが食べるとしています。私たちの教会で主の晩餐を考える時、こひつじ食堂のことも考える必要があるでしょう。同じ場所でパンが分かち合われていることは互いに影響しあいます。
こひつじ食堂のことを共生文明学の観点から論文としてまとめてくれた方が私に「縁食」という言葉を教えてくれました。どの文明でも共通して、共に食事をすることは仲間であることを確認する意味があるそうです。どのように食べるかは、どのような共同体を作るかにつながっています。その中で彼が教えてくれた「縁食」とは誰と一緒に食事をしているのかあいまいな食事を指します。「縁食」はこひつじ食堂でもよく見かける光景です。例えば一人で来たけれど、ボランティアと顔見知りで何か話しながら食べています。それは「共食」でも孤食でもない「縁食」です。
私たちの教会の主の晩餐はどうでしょうか。私たちの教会の主の晩餐は限られた人だけでする食事です。この食事は誰がこの共同体に属しているか、誰が共同体に属していないのかを明確にします。一緒に食べた人は結束します。一方、一緒に食べていない人は何を感じているのでしょうか?どう食べるかは、どんな共同体を作るかを決めています。私たちの主の晩餐においても縁側が必要でしょうか?今日は聖書から私たちの主の晩餐にどんな可能性があるのかを考えてゆきたいと思います。
マタイによる福音書26章の食事は最後の晩餐と呼ばれます。12人の弟子に限定されていた食事が私たちの主の晩餐のルーツです。しかし12人の中に洗礼を受けた弟子は一人もいませんでした。彼らは洗礼を条件とせず、ただ主イエスに招かれて、パンを与えられたのです。この食事会は参加者の中に信じる人も、信じない人もいた非常に幅のある集まりだったのです。
そしてさらにイエス様の血と十字架は、信じていない人、裏切り者、不特定多数の多くの人々、多様な人々、まだ出会ったことすらない人々のためにも流されるものでした。この食事も多くの人々との出会いに向けられた食事だったのです。
私はこのように最後の晩餐を見る時、そこに「縁食」の要素があると思います。もともとは共同体性の強い食事でしたが、でもそれを越える大きな可能性を持った食事でした。それが私たちの主の晩餐のルーツなのです。どんな食事をするか、それはどんな共同体を作るかに直結しています。どんな主の晩餐をしてゆくのかは、どんな教会を作るかに直結してゆくでしょう。私たちはどんな主の晩餐をしてゆくのでしょうか?マタイ26章の主の晩餐には限定されている様に見えて、実は開かれている部分があります。そこに縁側のような部分があるのではないでしょうか。
この後、私たちは主の晩餐を持ちます。共に主イエス・キリストとの食事を思い出しましょう。そしてそこにいた様々な人々を思いめぐらせましょう。お祈りします。
しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。 使徒言行録27章22節
使徒言行録には、イエス様の弟子たちがどのように生き、信仰を実践したかが記されています。今日もこの使徒言行録から、困難の中でも希望を持ち、他者を励ます生き方について学んでゆきましょう。パウロは船でローマに向かう途中、激しい嵐に遭遇しました。人々は積み荷を捨てて、船を軽くしようとしました。しかしそれでも状況は改善しませんでした。彼等は希望を失っていました。
しかしそんな時、一人だけ希望を失わなかった人物がいました。それがイエス・キリストの弟子パウロです。パウロは希望をもって人々を励まし続けました。そしてこのような希望を持った人物が船の中に一人でも存在すると全体の雰囲気は大きく変わります。このように希望を持ち続け、他者を励まし続けることは、キリストの弟子の大事な役割です。希望を持っているのは一人でよいのです。私たちはそのような一人になっているでしょうか。私たちはたった一人になっても、まだ希望があると言える存在になりたいと思います。それがキリストの弟子になるということです。
希望をもってあきらめない人がいる中で、逃げ出した船員がいたとあります。それはとても悲しい光景です。彼らは自分たちだけ助かろうとしました。これは他者を犠牲にし、見捨てるという罪です。キリストの弟子パウロはこのような行動を見逃しません。それは全員が助かる道ではないと引き留めます。全員で助かろうとみなを励ましたのです。全員が生きる道を求める、それがイエス・キリストの教えでした。誰かが十字架に掛かって犠牲になって、みんなが助かればいいのではありません。神様は一人も漏れることなく、命を守ろうとするお方です。
36節、この後船に乗っていた人びとは食事をしたとあります。それはまるで主の晩餐のようです。その食事をすると一同に元気が湧いてきました。全員が励まされて、全員で助かろうと思う様になったのです。船の人々は大きく変えられてゆきました。一人のキリストの弟子から、主の晩餐のような食事から全体が変えられてゆきました。全員が助かるために、すべての食べ物を捨てる決断をしたのです。自分の命だけではなく、みんなが助かるために、大切な荷物を捨てました。そして全員が無事に上陸することができたのです。
今日の物語、船は様々なものに置き換えて考えることができます。教会も一つの船です。家族も一つの船かもしれません。職場や地域も一つの船でしょう。それぞれ困難に直面します。でも一人の弟子の存在が全体の雰囲気を変えるのです。
その船にキリストの弟子が一人いればいいのです。人を励まし、共に命をつないでいこうとする希望を示す人が一人いると、全体の雰囲気は大きく変わります。全員の命をつなぐ選択へと導かれてゆくのです。私たちはそれぞれの置かれた場所で、その一人になってゆきましょう。神様の言葉に聞きながら、他者を励まし、希望を持つその一人になりましょう。お祈りします。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。 使徒言行録16章25節
今日6月23日は79年前、沖縄で組織的な戦闘が終わった日です。私たちはこの日を「命どぅ宝の日」と呼び、平和を考える時として大切にしています。沖縄の人々は激しい地上戦の中で、洞窟に逃げ込みました。そしてそこで、どう死ぬか、どう殺すかでなく、どうやって命をつなぐかを考えました。彼らは洞窟の中で「命どぅ宝」命こそ宝だと互いに励ましあい、何とかして生きようとしました。
沖縄にはあの時から今も大きな基地がいくつも存在します。私たちは普天間、辺野古を含めて沖縄、日本、世界のすべての基地がなくなることを祈り願っています。沖縄の普天間基地の前で毎週、戸塚駅の駅前で月1回、基地に反対して讃美歌が歌われています。世界に平和に目覚めて欲しいと願って、世界の人々に暴力ではなく、愛と平和を選んで欲しいと願って歌っています。小さな行動でも私たちは軍事力に反対をし、暴力の無い平和を求めてゆきたいと思っています。今日は神様の示す平和と、平和を目指す生き方について考えたいと思います。
世界が隣人を愛し、敵を憎めと教えている中で、イエス様は敵を愛しなさいと教えました。その平和の教えを世界に広めていた弟子がパウロとシラスでした。しかしパウロは牢獄に入れられることになりました。パウロは何度も鞭に打たれ、牢に投げ込まれました。足には足かせをはめられ、自由を奪われました。そして暴力の象徴である武器・剣もった看守がそれを見張っていました。暴力が支配する牢獄の中で、彼らはなんと歌いました。きっと平和を願う歌、自由を願う歌、神様への感謝の歌だったでしょう。圧倒的な暴力に対して歌を歌って何になるでしょうか。でも彼らは歌いました。その歌から、賛美から奇跡が起こされてゆきます。
地震は神様が起こす奇跡の象徴です。彼らは逃げることができるようになりました。看守は自死を選ぼうとします。しかしパウロはそれを止めます。死んではいけない、どんな命にも暴力を向けてはいけないと教えたのです。私にはこのパウロの言葉が「命どぅ宝(命こそ宝)」という言葉に聞こえます。それは平和を望む言葉です。そして看守はそのイエスの平和の福音に救われ平和へと方向転換します。
彼はパウロの傷を洗いました。他者の傷の痛みを知り、共感をするものとなったのです。それは暴力から愛への転換でした。敵を愛しなさいという教えの実践でした。彼はバプテスマを受け、そして食事を共にしました。暴力で支配してきた者と同じテーブルで食事をしたのです。これは神様によって起こされた出来事です。
私たちもこの看守のような、暴力から愛への転換をしたいと願います。世界が暴力を辞めて、愛に目覚める様に神様に求めましょう。私たちにできることは賛美歌を歌うことです。神と人に向けて平和の賛美歌を歌いましょう。沖縄からまずその歌が聞こえます。私たちの賛美から世界に平和が広がるように祈ります。平和こそ宝、命こそ宝であることが伝わるように祈ります。お祈りします。
それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
使徒言行録15章19節
私たち平塚バプテスト教会は今日、創立74周年を迎えることができました。本当に神様のおかげです。74年間多くの課題がありました。バプテストは民主的に話し合って決めることを大切にしています。話し合いは疲れるものですが、私たちは多くの困難を話し合うこと、互いの理解を深めることで乗り越えてきました。そしてこれからの私たちも大きな決断のための議論を控えています。もし神様のご計画ならば、今後の計画が成し遂げられてゆくはずです。
物事を決めてゆく時、大事なことは、時に妥協し、調和し、折衷案を持つことです。建築はどうしても、全員の要望を盛り込むことは難しいものです。私たちも大きな議論をするとき、互いに妥協し、調和し、折衷案を持ち前に進んでゆくことを覚えておきましょう。今日は聖書に記録される会議もそのような出来事です。
今日は使徒言行録のエルサレム会議をみてゆきます。初期のキリスト教には二つのグループがありました。ユダヤ教の律法を重視するグループと、そうでないグループです。この二つのグループは決して対立をしていたわけではありません。人や献金を送ったりする良好な関係でした。ただどこまで律法の実践を求めるべきか、二つのグループは意見が分かれていました。その妥協点を探るために、エルサレムで会議をすることになりました。このエルサレム会議はどちらが正しいか決着をつける会議ではありません。どうすればキリストの弟子として一致し、仲間であり続けられのるかを話し合うために持たれたのです。
決定の内容は伝統的にユダヤの律法を重視する人が守ってきたことの一部でした。そしてこの4項目以上の事は求めないという寛容な決定でした。大部分は食べ物に関する取り決めです。そしておそらくこれは律法を守る人とそうでない人が一緒に食事をする時の決まり事でした。律法を重視する人と一緒に食事をするときにおいては、ユダヤの習慣を尊重、配慮をするようにと決められたのです。うまい妥協点だと思います。この調和重視の案によって温かい一致が生まれました。両方が喜ぶことのできる決定でした。よい決め方だったと思います。
その会議には神様の力が働いたのでしょう。神様はこのようにして共同体を導いてくださるお方です。互いに話し合い、折り合いをつけ、私たちを結び付けて下さるのが、神様の働きなのです。私たちの歩んだ74年間もそれが起り続けて、私たちは今に至るのでしょう。創立記念の時、これから起きる様々な議論に心を準備したいと思います。その時このエルサレム会議を覚えておきましょう。
私たちはいろいろな違いがあります。でも神様が導いてくださって妥協し、調和し、折衷となる選びが示されてゆくはずです。エルサレム教会では互いを尊重し、互いに苦しまない決定が選ばれました。それは誰かの喜びと励ましになる決定でした。私たちもこれからそのような選びへと導かれてゆくはずです。お祈りします。
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。 使徒言行録9章18~19節
今日から聖書の使徒言行録を1ヶ月間読んでゆきます。みなさんは価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?キリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変えるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。聖書の教えを価値観の中心にするスタートが洗礼(バプテスマ)です。
洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。今日は聖書のサウロという人物から、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。
十字架の後、イエス様の教えた愛の輪が広がっていました。そしてもともとの枠組みであるユダヤ教から大きくはずれる様になりました。サウロはユダヤ教を信仰していましたがそのキリスト教を激しく否定していました。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。
そんなサウロにある日突然、運命を変える出来事が起こりました。それによって彼は自分が否定し、殺そうとしていた人の助けを必要としました。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。
ここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロの価値観の転換です。これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。彼の変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化でした。彼は弱さと無力の中で、その価値観が、生きる態度、他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人に敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた変化でした。
神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。
本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。
すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。
使徒言行録9章18~19節
今日から聖書の使徒言行録を1ヶ月間読んでゆきます。みなさんは価値観が大きく変わるという体験をしたことがあるでしょうか?キリスト教の洗礼(バプテスマ)が人生の価値観を大きく変えるきっかけになったという人が多くいます。私もその一人です。聖書の教えを価値観の中心にするスタートが洗礼(バプテスマ)です。
洗礼(バプテスマ)に際してキリスト教以外の価値観を劣ったものとは考えないことも大事なことです。異なる価値観や宗教の人と共に生きてゆこうとすること、それがキリスト教の愛なのでしょう。今日は聖書のサウロという人物から、他者を尊重するという方向に生き方を転換した物語を見てゆきたいと思います。
十字架の後、イエス様の教えた愛の輪が広がっていました。そしてもともとの枠組みであるユダヤ教から大きくはずれる様になりました。サウロはユダヤ教を信仰していましたがそのキリスト教を激しく否定していました。それぞれの信仰にはそれぞれの価値観と教えがあり、どの宗教も尊重すべき教えがあります。ただしサウロはこの点で、かなり強引な態度でした。価値観、宗教観の違うものを見つけ出し、縛り上げ、連行し、脅迫し、殺していたのです。
そんなサウロにある日突然、運命を変える出来事が起こりました。それによって彼は自分が否定し、殺そうとしていた人の助けを必要としました。自分がいままで否定してきた人に手を引かれ、手を置いて祈ってもらわなければならなくなりました。それまで敵視していた人々に助けられたことで、彼の心は大きく変わりました。
ここでサウロがどんな奇跡的な体験をしたかは重要ではありません。重要なのはサウロの価値観の転換です。これは単に奇跡が起きて、ユダヤ教からキリスト教へ変わったという、宗教の変更以上のものです。彼の変化とは他者の価値観を暴力的に否定する姿勢から、尊重と平和的な態度への変化でした。彼は弱さと無力の中で、その価値観が、生きる態度、他者に対する態度が変わりました。異なる価値観の人に敬意を持って接するようになったのです。それが彼に起きた変化でした。
神様は私たちにもそのような変化を与えるでしょうか。自分だけでは立ち上がれない時、誰かに頼って生きようとする時に、人生の価値観が大きく変わるのかもしれません。その時、私たちは自分が唯一正しいという態度から、他者を尊重する態度に変わってゆきます。それはきっと私たちにも起こります。神様はきっと私たちにもそのような大きな転換を、新しい道を準備していてくださるはずです。
本日はこの後、主の晩餐を共に分かち合います。サウロはこの主の晩餐を受けて、新しく他者を愛し、敬う生き方を始めました。私達もこのパンを食べ、他者を尊重し、共に生きることを選びましょう。私たちもその第一歩を踏み出してゆきましょう。お祈りします。
「つながっていようよ」
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 ヨハネによる福音書15章5節
毎週水曜日の「祈祷会(きとうかい)」という集会では聖書から感じた自由な感想を話し合います。互いの感想を聞いていると、神様の事、生き方のことたくさんの気づきを得ます。祈祷会では祈りの時も持っています。互いのこと、みんなで祈りたいことのリストをもとに黙祷し、心の中で神様に祈ります。私はこの「祈祷会」をとても大事だと感じています。祈祷会が神様とのつながりだけではなく、他者とのつながりをも感じる場所だからです。今日はつながりをテーマに宣教します。ヨハネ福音書15章1~10節から3つ大事なつながりを紹介します。
まず一つ目は、神様は私たちにあなたたちは私としっかり「つながっていなさい」と言っています。あなたたち人間は、神様をつかんでいるその手を絶対に放してはダメだと言っています。私たちは忙しい時でも神様につながっていましょう。たとえばなるべく礼拝や祈祷会に集ったり、祈ったりすることを頑張ってゆきましょう。
2つ目に神様は私はあなたがたに「つながっています」と言っています。私が手を離したら、神様が離れてしまうのではありません。私が忙しくて、つかまっていられない時も、どんなにつらい時も、神様の方からつながってくださるのです。だから神様を信じる人は安心して生きることができます。うまく自分から神様につながれなくても、神様はあなたにもうつながっています。これが大事なこと2つ目です。
大事なことの3つ目は「あなたがた」という言葉に隠れています。この「あなたがた」は私個人を指す言葉ではなく「みんな」を指す言葉です。みんなで神様につながりなさい、神様はみんなにつながっていますと言っているのです。
みんなで神様につながる時、私たちの間には神様とのつながりだけではなく、私たち同士、人間同士のつながりも生まれるはずです。神様は人と神がつながっていると伝えると同時に、私たちに人間同士も、神様によってつながっているというのです。そのような人間のつながりも、神様がおこしてくださるのです。
自分はどうやって神様につながればよいのか、仲間をよく見るとわかります。神様はそのように私たちも互いにつながっていることを感じるように言っています。礼拝・祈祷会は毎週この3つのながりを確認する場所だと言えるでしょう。
初めて来た方、これからもどうぞ神様につながってゆきましょう。神様もあなたにしっかりとつながっています。そして私たちはみんなで神様につながりましょう。毎週教会ではこの礼拝・祈祷会という集会を持っています。私たちはみんなで神様につながろうね、わたしたちもつながっていようねと言い合います。それは私たちみんなの人生にとって大きな励ましになっています。私たちはそこから前に進むことができるのです。そんな風に教会で、神様とのつながり、人とのつながりを感じながら生きてゆく生き方をお勧めします。お祈りします。
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
使徒言行録2章2節
先月と今月は初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。聖書の話を毎週の礼拝でするのが大変ですが、準備に行き詰まった時は、風に吹かれながら思いを巡らせます。風に吹かれていると、時々新しい言葉がひらめいたり、やり直そうと思えたりします。風に吹かれながら、神様の導きを求めています。
今日は新しい仲間の信仰の言葉を聞きましたが、きっとこの言葉を紡ぐのも大変だったでしょう。この告白ではっきりしていることは、神様は不思議な力で、私たちを教会へと呼び集めるのだということです。神様が私たちを導くとは、神様の吹かす風に押し出されて進むようなことです。私の宣教の言葉も、今日の信仰の言葉も、神様からの風に、押し出され、発せられたものです。
聖書・創世記によれば、神様が土で人間の形を作り、息・風を送り込むと人間は生きるものとなったと書かれています。神様の風とは私たちに生命を吹き込む風です。私たちは神様の風に吹かれると生きるようになるのです。私たちの人生には、どうすればいいかわからないことがあります。そんな時、風に吹かれてみてはどうでしょうか?体で風を感じれば、きっと心にも神様の風を感じることができるはずです。風に吹かれ、神様からもう一度命を、新しい生き方を頂きましょう。今日は聖書から風に吹かれた弟子たちの話をします。
キリスト教はイエス様が死んでしまった後も続いてゆきました。それは弟子たちが一生懸命に頑張ったから続いたのではありません。神様からの不思議な力、不思議な風を受けることで続けることが出来ました。弟子たちがみんなで集まっている時、突然強い風が吹きました。風は神様の一方的な決断で吹きました。神様の風は神様の決めたタイミングで吹きます。そしてそこにいた全員に吹きました。神様の風に吹かれると不思議なことが起こりました。自分にはできないことでも、神様が力を与えて下さって、できるようになったのです。様々な国の言葉で語られたのは、みんなにわかる言葉で神様の希望を示すためでした。そのようにして神様の風は全員に命と活力と言葉を吹き込みました。
私たちもそんな神様からの風を受けて歩んでいるのです。私たちが毎週集まれるのは熱心さや一生懸命さではなく、神様の風に吹かれているからです。私たちが神様の風に身をゆだねているから集うことができるのです。神様の風はきっと私たちをどこかへと運ぼうと導いています。だから私たちは自分の願いだけではなく、神様からの風がどう吹いているのかを感じて生きゆきたいです。
神様が私たちに風を送っていす。私たちはその風に吹かれながら生きましょう。私たちには何もできなくても、神様が風を吹かせ、導いてくださいます。神様の風が私たちに必要な言葉と力、新しい生き方を与えてくださるはずです。お祈りします。
初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。2000年前舗装されていない道をサンダルで歩けば、足は泥だらけになりました。汗と汚れが混ざって臭いもしたでしょう。シャワーを浴びることもできません。足を洗うのは、自分をいたわるホッとするひとときでした。裕福な家では足を洗うのは召使いの仕事でした。
しかし今日の聖書にはイエス様が弟子の足を洗ったと書いてあります。これは他者のために働き、他者を尊重するという模範的、象徴的な行為でした。今も昔もリーダーは威張り腐っています。しかしイエス様は他のリーダーと大きく違いました。弟子たちの汚れた足を洗おうとします。これがキリスト教の神と等しいとされた人の姿です。他者のために働き、他者を尊重する生き方を体現しています。神様は徹底的に低みに立つ方なのです。
そして、この物語はもう一つ重要なことを伝えています。もしかすると誰かの足を洗うよりも、誰かに足を洗われる方が嫌かもしれません。自分の悪い部分、汚い部分は隠したいものです。弟子も「決して洗わないでください」と言っています。しかしイエス様は14節「互いに洗い合わなければならない」と言っています。疲れて、汚れた、お互いの足を隠しあったら、我々の関係は成り立たないというのです。
ここから示されることは、私たちの人生にはそれぞれに疲れや困難があり、そのときは恥ずかしいけれど、誰からの支えを必要とするということです。私たちは神様と仲間の支えなしに生きてゆくことはできないのです。私たちは足を洗ってもらう様な、励ましや祈りが必要なのです。
教会では互いを尊重し、励ましあう言葉を交わしています。それはまるで毎週教会で互いに足を洗い合っている様です。神様から、仲間から足を洗ってもらっている様です。誰かが疲れて汚れた私に、温かい言葉を掛けてくれます。それは私にとって足を洗われるということです。同時に誰かに温かい声を掛けます。それが誰かの足を洗うことです。互いに足を洗い合うからこそ1週間が頑張れるのです。
私たちは洗う側と洗われる側に分かれているのではありません。みんな洗われるべき汚い足をしており、みんながやさしく互いの足を洗います。そのような教会に来ると、心洗われたような気持ちになります。ほっとする気持ちになるのです。
イエス様はこのように私たちに互いに足を洗い合いなさいと伝えました。足を洗うことによって、他者のために働き、他者を尊重する生き方がキリスト者の生き方だと示しました。そして互いにいたわり合い、励まし合う関係の大事さを私たちに教えてくれたのです。教会にはそのことを信じる信仰を持つ人が毎週集っています。私はたくさんの人がこの生き方・信仰に加わること、増えることを願っています。お祈りします。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」ヨハネによる福音書9章9節
今月と来月は初めて教会に来た方に向けてお話をしています。私たちの教会では、月2回会堂でこども食堂を開催しています。最近4名の小学生がボランティアに加わってくれました。このことによって様々なよい変化が起きています。教会員のある方は「こどものボランティアを見て、ヨハネの5000人の食事(今日の個所)の意味がようやくわかった」とおっしゃっていました。私たちは今年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。こどもたちの声が私たちの礼拝や食堂の雰囲気と方向性を決定づけています。同じことが聖書にも書いてあります。
2000年前、イエス様は様々な背景や事情を持った人たちと全員で食事をしようとしました。一緒に食事をすることは私たちのこども食堂と同様に友好関係にあることを示す行動です。でも準備が大変です。弟子たちは無理だと思いました。
そこにひとりの少年が声をあげ、少ない食事を差し出しました。それは「僕にできることがあればします」という姿勢でした。この少年ができる精一杯の小さなボランティアでした。弟子たちはそれを笑いました。「どうせ役に立たない」と思ったのです。小さなもので全体は変わらないと思ったのです。
しかしイエス様は小さくて役に立たないと思われているボランティアに目をとめて、いったん座って、何が起きているのか全員でよく考えるように促しました。そしてイエス様は感謝の祈りを唱えました。イエス様はそれが小さくてもどれだけ重要であるかを知り、感謝して祈ったのです。物語全体の雰囲気がここで変わります。イエス様はパンと魚を分けはじめました。そうすると不思議にも全員が満腹になる食べ物が現れたのです。普通は決して起きない奇跡的なことが起きたのです。
私たちは今日の物語からどんなことを考えるでしょうか。私はパンを増やすおまじないには興味がありません。今日の個所で小さな者の声に立ち止まるという生き方を学びます。私たちの社会では強い者の意見が通ります。私はそのような社会だからこそ小さな者の声、少数意見に耳を傾ける必要があると思います。
小さな働きの力を信じるということも、この物語から学びます。私たちそれぞれの前にある課題は大きすぎて、自分はたいして役に立たないと感じることばかりです。でも今日の物語によれば小さなボランティアが全体の雰囲気と方向性を変えたのです。小さなこどもたちのボランティアが私たちの礼拝とこども食堂の雰囲気を決定づけてゆくように、小さな働きが世界の方向を変えるのです。今日の物語から私たちはそれを信じましょう。
このあと私たちは主の晩餐という儀式を持ちます。これは小さなパンと、小さな杯にいれたブドウジュースを飲む儀式です。イエス様がこのような食事をしたことを再現する儀式です。こんな小さなパンですが私たちは大きな変化が起こると信じています。お祈りします。
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
ヨハネによる福音書5章8節
今月と来月は、キリスト教が初めてという人に向けて話をしています。2000年前にベトザタという池がありました。この池には天使が降りてくると、池の水面にゆらゆらと小さな波ができ、その時、池の中に入ると、一番先に入った人は病気が治るという伝承がありました。
しかしこの伝承は残酷です。治るためには他の人を押しのけてでも、誰よりも早く水に入らなければいけないのです。そこは生存競争の場であり、人間関係は最悪でした。その中に38年間病気の男性がいました。彼は自分では起き上がることができませんでした。しかし彼が失望していたのは、もはや自分が病であることではありませんでした。彼が失望していたのは誰も他者を助けようとしない世界です。イエス様はそのような場所に現れました。イエス様は苦しみと失望と緊張関係に満ちた場所に現れるのです。
そこでイエス様は「起き上がりなさい」と言いました。世界に失望し、あきらめていた彼はもう一度立ち上がって、歩きだしました。そしてイエス様は歩き出すときに床を担いで歩きなさいという条件を付けました。床とは38年間寝ていたマットです。マットには汗と涙がしみ込み、擦り切れ、ボロボロになっていました。そのマットは彼の人生を象徴するものです。そして彼がいた池の周りの世界を象徴するものです。彼の苦労と屈辱の象徴でした。その床を担ぐようにとは、これからもその現実を背負って生きてゆきなさいという意味です。この38年間の苦労を忘れずに、あの池で見た世界を忘れずに生きるようにと条件を付けられたのです。
今日の物語から私たちはどんなことを考えるでしょうか。まず私が思うことは、この世界はまるでベトザタの池の様だということです。世界はこの池のように、自分中心、自国優先、強い者が勝つ世界です。隣人と愛し合うのではなく、たがいに敵同士のように競争する世界です。互いを喜び合えない世界です。私たちもこのような世界・日常に生きています。イエス様はそのただなかに現れるお方です。ひどい現実の、どん底の、この世界の真ん中に現れるお方です。
そしてイエス様は、私たちを立ち上がらせ下さいます。私たちは苦しみを忘れて、苦しみと無関係に生きるのではありません。それに責任をもって生きるようになります。神様はそのようにして私たちを立ち上がらせるのです。今私たちのいる世界を良くするために、神様は私たちを立ち上げてくださるのです。
この礼拝で、私たちは神様から床を担いで立ち上がれと言われています。私たちは現実を背負って立ち上がります。私たちはそれぞれの場所で、互いに愛し合い、困っている人を助け、隣人と喜びをともにしましょう。それぞれの場所で弱肉強食ではない、愛と慈しみにあふれる世界を創ってゆきましょう。その1週間を今日から歩みましょう。神様が私たちを立ち上げて下さいます。お祈りします。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
ヨハネによる福音書4章7節
4月と5月は新しくキリスト教に触れる人に向けて話をしています。今日登場するサマリアの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。いわゆる混血とされ見下され、差別されました。さらに女性という点でも差別を受けました。
そのサマリアの女性が、日中の一番暑い時間に井戸に水を汲みに来ました。彼女がサマリアの女性たちからも疎外されていたからです。5回の離婚を経験した彼女の波乱の人生は、村の人から奇異の目で見られていましたのです。
そんな時、イエス様と出会います。水を巡ってのイエス様と女性との会話は誤解が生じやすい話です。イエス様が与える水というのは、肉体的にのどを潤す水分補給のことではないようです。その水とは心と魂を潤す水のこと、心と魂が求めていることを満たしてくれるものが、イエス様の渡そうとしている水です。
しかしイエス様と女性の会話にも誤解があります。16節でイエス様は突然話題を変えます。イエス様は対話をあきらめていないようです。対話をあきらめずにまた別の角度から伝えようとしています。全体をみるとかなりかみ合わない会話です。それでも二人が対話を続けていることはとても印象深いことです。
20節からイエス様は繰り返し礼拝という言葉を使っています。イエス様の言った心と魂を潤す水、それは礼拝と言い換えることができるでしょう。この今私たちの持っている礼拝とは、自分の生き方を考える集まりです。イエス様はその礼拝が、あなたの心と魂を潤す水となると言ったのです。この礼拝というキーワードからようやく二人の話がかみ合ってきます。女性はこのような対話からイエス様を信頼するようになりました。イエス様との対話によって誤解が解かれ、イエス様を信頼するようになりました。そして彼女はその信頼を村の人々に告げ広めたのです。
イエス様とこの女性はすれ違いながらも、忍耐強く対話を続けることによって信頼が生まれました。誤解は信頼へと変わってゆきました。今日この個所を見て私は改めて対話の大切さを感じます。私たち人間にはたくさんの誤解があります。誤解は人々を苦しめます。差別も命に優劣があるという誤解から生まれます。でも私たちはイエス様のように向き合い、対話することをあきらめずにいたいのです。今日の個所のように誤解から始まる信頼がきっとあるはずだからです。
私たちは、誤解を信頼に変える力を礼拝からいただくことができます。私たち人間は人間の力だけでは、豊かな信頼関係を築くことができないことを良く知っています。でもだからこそ私たちは神様から、その力をいただきたいのです。この礼拝で神様から他者を理解する力、誤解のある他者と信頼を作ってゆく力を受け取りたいと思うのです。礼拝からその力をもらい、それぞれの場所で誤解を信頼に変えてゆきたいのです。共に礼拝を献げ、神様から、誤解を信頼に変える力を互いに頂いてゆきましょう。お祈りします。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
ヨハネ20章25節
先週からキリスト教にはじめて触れる方に向けて話をしています。よく誤解されがちですが、教会はキリスト教を信じている人だけが集まる場所ではありません。信じるつもりはないという人も歓迎します。この教会にとって信じない人は一緒にいてくれないと困る存在です。ここが信じる人だけの集まりとなると閉鎖的になります。信じている人にとっても、信じない人と一緒にいるのがよいのです。
「信じるかどうかはあなた次第」という言葉があります。しかしキリスト教は不思議な事ばかりで、自分次第なら、信じないのが当然の結果です。でも多くの方が、何かに押し出されるように、何か追い風のようなものを受けて、信じていると言えるようになります。信じるかどうかは、私次第ではありません。行き先は風まかせの様な不思議さがあるものです。今日は聖書から信じない弟子を見たいと思います。
イエス様の復活を見ていなかった弟子が1人だけいました。トマスという名前です。彼はもし釘の跡を見て、その穴に自分の指を入れ、脇腹の傷に手を入れることができれば、信じようと言いました。すると8日後、本当にイエス様が現れました。
聖書はトマスのようにつべこべ言わず、疑わないで信じましょうと言っているのではありません。私たち人間は確かな証拠や奇跡によって信じるようになるものです。トマスもきっと奇跡を体験がすれば、信じることができると思っていました。
しかし聖書にはトマスが実際に手と指を入れたとは書いてありません。それができれば私は信じると言っていたのに、彼は結局、手と指を入れませんでした。
私はよく信じない人から、もし〇〇になったらキリスト教を信じるという言葉を聞きます。合格したら、結婚できたら…。でも私個人のこれまでの実感として、条件をクリアしたら信じると言って、その条件が満たされた後に信じるようになる人は多くありません。自分の設定した条件や願いが達成されても信仰を持つ人は少ないのです。一方、条件はクリアしなかったけれど、信じるようになったという人は多くいます。信じるとは自分の設定した条件をクリアして起こるものではないのです。
トマスも同じです。彼は手と指を入れませんでした。自分で設定した条件をクリアしませんでした。でもトマスはきっと信じるようになったのでしょう。自分の設定した条件ではなく、一方的なイエス様の登場、イエス様との出会いの体験によって彼は信じるようになったのです。信仰とはそのように始まります。何かが私の中に勝手にやって来るのです。信じるつもりはなかったのに、不思議と心の中に入って来る、現れる、それが信仰の始まりです。そのような神の一方的な働きかけ、追い風の様な働きかけによって、人は神の存在を信じるようになります。
信じない人を歓迎ます。信じるかどうかはあなた次第ではありません。人間が神を信じるようになるのは、私たち人間の条件を超えた、神様の一方的な働きかけによってです。いつかみなさんにその時が来ることを願っています。お祈りをします。
イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
ヨハネによる福音書21章13節
今日から2か月、初めてのキリスト教というテーマで宣教をします。まだキリスト教のことを知らないという方に届いたら嬉しいです。
キリスト教は聖書から「どう生きるか」を考える宗教です。聖書には、どうすれば仲良く、平和に、前を向いて生きて行けるかを考えさせるエピソードがたくさん書いてあります。主人公はイエス様という人物です。イエス様は当時のタブーを破り、他の人が絶対一緒に食事しない人と積極的に食事をしました。そのようにイエス様は食事自体を通じて、食事をしながら「生き方」を教えました。今日も聖書から新しい生き方を見つけてゆきたいと思います。聖書のエピソードを見てゆきましょう。
弟子たちは死んだ人が目の前に現れるとは思ってもみませんでした。そんな中、イエス様は「何か食べる物はあるか?」と言って登場します。お腹の空いたこどものようなかわいい登場です。イエス様は大変親しみやすく私たちに現れます。
弟子たちは食べ物を持っていませんでした。イエス様は舟をだすように言います。そうするとさっきは獲れなかった、たくさんの魚が獲れました。このように、イエス様は奇跡的な力を使ってまで、一緒に食事をしようとしました。弟子たちは一緒に食事をすることができるようになって初めて、それがイエス様だと気づきました。イエス様は一歩先に岸で炭火を起こして、魚を焼いていました。この食事は、これまでの食事同様、弟子たちの心を癒し、励ます食事だったでしょう。そして他者を愛しなさい、仲良くしなさいという教えをもう一度思い出す食事だったでしょう。
今日の個所から私たちが生きるヒントはどこにあるでしょうか?一つは不思議な事ですが、死ですべてが終わるのではないということを教わります。悲しみは悲しみで終わらないのです。もうひとつの生き方のヒントはイエス様は私たちに困難を乗り越える力をくれるということです。イエス様は魚が獲れなくても、私たちがもう一度チャレンジする力を下さるのです。
そして何より共に食事をすることを大切にするということも生き方のヒントでしょう。悲しみの時、寂しい時、誰かと一緒に食事をすることが、イエス様の大事にした行動です。一緒に食事をすると、生きる力が湧いてくるのです。教会で共に食事をすることを愛餐と呼ぶように、共に食事をすることは互いに愛し合っていること、大切に思い合っていることを表す行動です。そこから生きる力が湧いてくるのです。私たちは共に食事をすることをもっと大事にしてはどうでしょうか?食事で互いが大切であることを確かめ合ってはどうでしょうか。それも生き方のヒントです。
私たちはこの後の主の晩餐で、そのイエス様の教えを思い出し、教会の仲間同士や、1週間関わる人たちと互いに愛し合うということを確認します。
私たちはみなさんと、聖書から生きるヒントをもらって、一緒に歩みたいと思っています。少しずつ、この礼拝に参加し、新しい生き方を始めてみませんか?
後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
ヨハネによる福音書20章14節
イースター礼拝を共にできる事、主に感謝します。3月と4月は様々な出会いと別れがある季節です。誰かとの別れは人の心に大きな影響を与えます。その悲しみの深さは、その時々によって違います。お別れをしっかりできた時は受け入れやすいものです。でも突然の別れは受け入れるのに時間がかかるものです。
神様はそのような別れと悲しみの時、そっと悲しむ者のそばに共にいてくださるお方です。悲しむ者にこそ現れ、そばにいて下さるお方です。そしてゆっくりと悲しみとは違う方向へと導いてくださるお方です。神様はこのように、悲しむ人々に幸いを約束してくだいます。今日は悲しみと共にいてくださる神様の姿を見ます。
イエス様の十字架は無実の罪、若い人の死、突然の別れ、心の支えだった人との別れ、尊敬する人との別れでした。それは、もっとも受け入れるのが難しい別れでした。マグダラのマリアという女性は他の弟子たちが逃げ惑う中、イエス様の十字架を最後まで見届けました。しかし一方でそれはマリアにとって、大きな心の負担になったはずです。マリアはイエス様の無残な死に方を直接見てしまいました。痛み、苦しみ、渇き、流れる血、その姿をすべて見て、受け取ってしまったのです。きっとマリアはそれに強い衝撃を受け、それはトラウマになったはずです。
もっとも悲しみ、涙のとまらないマリア、イエス様はそのマリアに一番はじめに現れました。神様はこのように悲しむ者のもとに現れるのです。悲しみを受け入れた先に神がいるのではありません。神様は深い悲しみの底に現れてくださるのです。イエス様はそのようにそっと現れます。いつからそこにいたのかわかりません。でもイエス様はきっと、ずっと涙する者のそばにいました。
彼女が気づいたのは名前を呼ばれた時でした。それはまるで羊と羊飼いの様です。羊が自分の羊飼いの声を聞きわけるように、マリアはイエス様の声を聞き分かることができました。そしてイエス様は羊飼いの様です。1匹の迷った羊飼いを探すように、マリアの元に現れたのです。そして彼女から全世界へと復活が伝わりました。
今日の個所をからどんなことを考えるでしょうか。神様はこのようにして、悲しむ私たちと共にいるお方です。神様は迷った羊を探す羊飼いのように、悲しむ私たちの名前を呼んでくださるお方です。一緒にいるよ、だから立ち上がって、前に進もうと言ってくださるのです。そして私たちはそれぞれの場所に派遣されるのです。
イエス様が復活したとは、死が無くなることではなく、その悲しみの中にイエス様が共にいて下さったということではないでしょうか。悲しみの中に主が共にいて下さることが、主が復活されたということなのではないでしょうか。
私たちの人生でも、きっとそのようなことが、主の復活が起こるはずです。神様は復活し、悲しむ者と共にいて下さいます。神様は復活し、私たちと共にいて下さいます。その復活を信じ、歩みましょう。お祈りをいたします。
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
ヨハネによる福音書19章30節
今週は教会の暦で受難週です。今日はイエス様の十字架の上の「成し遂げられた」という言葉を見たいと思います。十字架刑は政治的な反乱者に科された刑です。何日も、何週間も苦しみが続きます。それは見せしめのために、二度と権力に反抗しないように、丘の上や大通りなど人々の良く見える場所で行われました。処刑される者は、苦しみ、呪いの言葉を口にしながら死んでいったと言います。
しかしヨハネ福音書では、イエス様が苦しみの言葉を発した記録はほとんどありません。なんとこのような状況でイエス様は「成し遂げられた」と言いました。このような苦しみの中で一体何が成し遂げられたというのでしょうか?イエス様の宣教の活動はたった数年だったと言われます。伝えきれなかったこと、やり残したことは非常に多かったはずです。イエス様にとっても、弟子たちにとっても志半ばでの十字架だったはずです。しかし、それにもかかわらずイエス様は最後に「成し遂げられた」と言っています。
成し遂げ「られた」の「られた」に注目をします。これは「私は成し遂げた」ではありません。それは神様がイエス様を通じて「成し遂げた」のです。神様はイエス様の地上の生涯を通じて、愛に生きることを教えました。共に食事をし、隅に追いやられた者に目をとめるように教えました。そのように神様はイエス様を通じて互いに愛し合うことを教えました。イエス様は神様から与えられた、その使命を生きました。そして十字架の死に至るまで、他者を愛し続けたのです。どんなにつらい時も、自分の思い通りにいかない時も、死ぬその時まで他者を愛し続けたのです。それを今、イエス様は神様の力によって成し遂げたのです。神様から愛を成し遂げる力を頂いて、神の計画は「成し遂げられた」のです。
私たちの人生で、自分の力で成し遂げることは多くありません。でもそこに神様から成し遂げる力と計画をいただいて、成し遂げられることがあるでしょう。きっと私たちを通じても神様が「成し遂げられる」計画があるはずです。それは私たちの思いを超えて実現するものです。
神様が成し遂げようとしているのはイエス様の人生においてもそうだったように、生涯を通じて、神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕えることです。それが、神様が成し遂げようとしている計画です。神様はその計画を成し遂げるために私たちに力をくださいます。神様が苦難の時も愛に生きる力を与えて下さいます。どんなつらい時も、神様は愛に生きる力を与えて下さいます神様は、私たちを通じてその計画を成し遂げるお方です。
私達では到底成し遂げることができないことを、愛を、神様は成し遂げて下さいます。その愛を成し遂げる力を私たちも頂きましょう。私にはできないけれど、神にはできる、愛を成し遂げる力を神様から頂き、今週も歩みましょう。お祈りします。
私たちの教会では「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。この活動は多くのボランティアさんに支えられています。先日から9歳(小3)のこどもがボランティアに参加してくれるようになりました。こどもがボランティアに加わったことで良い影響があります。他のボランティアさんは自分の作業以外に気を配るようになりました。すごいねと、他者をほめながら作業する様になりました。利用者もこどもが料理を運んでいるのなら、しっかり待てるようになりました。手伝っているこどもを見て自分で食器を下げるようになりました。これが本当の「平和」です。
神様はこのように、一人一人の小さい力を用いて、大きな変化を起こしてくださるお方です。今日の聖書の個所にもこどもが登場します。ロバのこどもです
当時、権威ある者が乗る動物は馬でした。馬は力、軍事力の象徴です。馬に乗ることこそ、王様にふさわしい姿でした。しかしイエス様は子ロバに乗りました。大きな大人が小さな動物にまたがるのはとても不格好で、かっこ悪いものです。でもイエス様はロバを選び、ロバに乗ることを決めたのです。ここには神様の選びが示されています。神様は大きな力を持ったものを選ぶのではありません。神様は小さい力のものを選ぶのです。そして神様は小さい力から大きな変化を起こすお方なのです。
神様は私たちに、かっこよく生きるように求めていないということも教わります。子ロバはもっと強く、馬のようになりたいと思ったでしょうか。でも神様は馬ではなく子ロバを選びました。かっこつけなくていいといって子ロバを選んだのです。神様はかっこ悪い私を選んだのです。かっこ悪くて、よろよろしながらでも、前に一生懸命進めばいいのです。
民衆の視線はイエス様だけにではなく、子ロバにも向けられていたはずです。この歓声はロバへの歓声にも聞こえてきます。小さいロバ、頑張れという声に聞こえます。「ホサナ、ホサナ、小さなロバも頑張れ」と聞こえます。きっと子ロバに向けられたエールでもあったのだと思います。小さくていい、かっこ悪くていい、それでもイエス様を背中に乗せて、前に進もうとしているロバ。人々にはきっと私にも何かできるはずだと思ったでしょう。人々に大きな変化があったはずです。
私たちはここからどんな生き方のヒントを見つけるでしょうか。私たちは小さな力しか持っていないかもしれません。でも神様はきっと、その小さな力こそ大切だと教えてくださるでしょう。小さな力が大きな変化を起こすはずです。神様はかっこ悪くていいから前に進もうと教えてくださるでしょう。そして私たちがそんな風に生きる時、きっと周りの人が応援してくれるのでしょう。
私たちは小さい力ですが、互いに愛しましょう。小さな力ですが、誰かのために祈り、働きましょう。神様が私たちを見つけ、私たちを選んでくださいます。そしてきっと他のみんなが応援してくれるはずです。「ホサナ、ホサナ」私たちにもそんな応援の声が聞こえるはずです。お祈りします。
マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 ヨハネによる福音書12章3節
珠洲市には原発計画がありました。もし原発があったら深刻な原子力災害になっていたはずです。原発の恐ろしさを改めて感じています。珠洲市の原発の反対運動の中心的存在だったのは、地元のお坊さんでした。原発反対は宗教者の役割でした。
原発を建てるために電力会社は住民に猛烈な接待をします。「カネ」の力で賛成させるのです。そんな中、ある一人のお坊さんが「危険な原発と命は共存できない」と道路に座り込み、お念仏を唱えながら原発反対を訴えました。今このお坊さんは住民から、原発に反対して私たちを救ってくれたと大変感謝されているそうです。
「あまりに危険な原発と命は共存できない」それが多くの宗教者の共通した訴えです。今だけ、カネだけ、自分だけを考えるなら原発がよいのでしょう。しかし、宗教者は何よりも命の大切さを判断基準にします。だから危険な原発に反対をしてます。今日はカネより大切なものがあることを聖書からみていきたいと思います。
マリアはたくさんの香油をイエス様の頭に注ぎました。おそらく彼女は日々の稼ぎから少しずつ香油を貯めていました。仕事でつらいことがあっても、悲しいことがあっても耐え、少しずつ貯めました。それはまさに彼女の汗と涙の結晶、不屈の精神の塊でした。しかし彼女がこれだけ苦労して稼いだお金を、このように使わせるものは何だったのでしょうか?何が彼女をつき動かしたのでしょうか。
彼女を突き動かしたのはイエス様の行動と言葉です。イエス様は罪人とされた人、汚れているとされた人と連帯しました。イエス様は小さくされた命、隅に追いやられた命に目を向けました。マリアはこのイエス様の命への向かい合い方に深く共感をしました。自分のように隅に追いやられ、それでも一生懸命生き、働く、そのような人々に目を向けるイエス様に深く共感をしたのです。その命へのまなざしを持つ方に、私のあの香油をすべて注ぎたいと強く思ったのです。
私たちの世界では相変わらずカネや費用対効果が基準とされ、原発が作られようとしています。この物語はそのようなカネ中心の社会に、生き方に抵抗する物語です。イエス様の命へ向き合う姿勢に強く共感し、行動を起こした人の物語です。イエス様は私たちにもこのような命への向き合い方を求めておられるのでしょう。
私たちは何に価値を見出し、何を守るでしょうか。私たちにはカネや効率よりも大切なものがあります。何よりも大切なのは命です。イエス様は命の大切さ、平等さを教えています。私たちはその命へのまなざしを何よりも大事にしたいのです。世界には命と共存できないものがあります。特に戦争や差別、不正なカネ、原発は、命と共存することができません。私たちは主イエスの教えに従い、命を守る働きをしてゆきましょう。たとえ小さくても効率が悪くても、無駄のように思われても、命が守られる手立てを選んでゆきましょう。お祈りします。
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
ヨハネによる福音書6章66節
最近の平塚バプテスト教会の礼拝出席人数は増加傾向にあります。私たちの活動や信仰が少しでも理解、共感、支持、応援されることはうれしいことです。ただし私たちの教会の目標は、人数を増やすことではありません。私たちがここに集うのは互いを愛し合うため、互いに仲良く生きていくためにここに集っています。その結果として人が増えるだけです。人数を目標とし始めると、愛し合うことよりも、人数を集めることが先だってしまいます。今日は聖書から、共同体に多くの人が集まった時のこと、そこで愛を貫いたイエス様の姿を見てゆきたいと思います。
今日の個所は奇跡のパン・主の晩餐を受けて、弟子たちが増えて拡がった後の話です。イエス様自身が、弟子の拡大に派手に失敗をしている様子が書かれています。弟子たちの拡大の先には、大きな分裂がありました。イエス様でも人数が増えるとうまくいかないことがあったのです。
イエス様はそれを悲しんだでしょう。しかしイエス様は去っていく人たちを追いかけませんでした。引き留めるための新しい説得も、自分の方針をもっと人々に受け入れられやすいものとする変更もしませんでした。イエス様はただ淡々と町を巡ります。そしてこれまでどおり、互いに愛し合うこと、大切にしあう事、仲良くすることをまた言葉と行動で教えました。イエス様にとって誰かが自分を離れようと、誰かが自分を無視しようと、誰かが自分を殺そうとも、関係ありませんでした。ただ自分が神様に従うかどうか、自分が愛するかどうかだけが重要なことだったのです。イエス様はその後も活動を続け、人々の反発を招き、殺されてしまいます。殺されないためには方針転換が必要でした。しかしイエス様は方針転換をしないのです。ただ神様に従うということ、他者を愛することを貫きました。
私たちの生活に目を向けます。私たちは神様・イエス様ではありません。ですから他人の意見をよく聞くことは大事です。しかし一方で私たちは他者の態度に振り回されてしまうことばかりです。他者の態度や行動に傷ついたり、落ち込んだりすることばかりです。きっとイエス様もそうだったのでしょう。私たちは他者との関係において一喜一憂することがあります。私たちにはうまく関係が作れた時、うまく関係が作れなかった時があります。でもその時も私たちはイエス様のように愛し続けましょう。イエス様のように相手を大切にし続けましょう。
私たちの日常には離別、裏切り、関係の破綻があります。でもその中で、私は神様の愛をどう生きてゆくかが問われます。そこで問われているのは相手の愛ではなく私の愛です。私がどう生きるか、私が神様の愛をどう生きるかが問われています。私たちの1週間もこのことを覚えて生きましょう。この後主の晩餐を持ち、パンを食べます。私たちは食べた後、どう生きるかが問われます。これは神の愛を受けて生きる象徴です。このパンを食べ、どんな時も他者を愛しましょう。祈ります。
ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。主に向かって歌え。主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。 出エジプト記15章21節
ジェンダーというテーマで宣教をしています。男女あらゆる性の人が、役割を押し付けられたり、奪われたりしない平等について聖書から考えます。戦後、日本バプテスト連盟の多くの教会は、アメリカ南部バプテストの莫大な支援を受けて設立されました。しかし日本のバプテストは2000年にアメリカ南部バプテストが「女性は牧師になってはいけない」と明言したことから距離を置くようになりました。女性を牧師として認めないというアメリカ南部バプテストの方針は今もまだ継続しています。一方、日本のバプテスト連盟でも大きい教会は男性牧師、小さい教会は女性牧師という現象が起きています。根底にある私たちの考えが問われています。
私たちの社会は表面的には平等のように見えて、実はまだこのような格差、男女や性による明らかな不平等が起きています。まだまだ男性が上、女性が下という考えがどこかで残っているのではないでしょうか。そのような偏見と差別から解放されたいと願って聖書を読む時、聖書で活躍する女性たちに目が向きます。
今日の聖書箇所のミリアムはアロンの姉であり、モーセの姉でもあります。ユダヤの人々は奴隷とされたエジプトを脱出しました。しかし目の前には海があり、後ろにはエジプトの追手がいます。そんな絶望の時、神様は海を二つに割り、道を作って、向こう岸へと逃げることが出来るようにしてくださいました。このような体験は、自分たちのルーツとして語り継がれ、やがて聖書に記載されました。
この様子は15章で2つの歌として記録されています。おそらく短い伝承であるミリアムの歌がオリジナルの伝承です。それを拡張し、付け足した言葉がモーセの歌として伝承されました。おそらくもともとミリアムはグループの中で有力な指導者だったのでしょう。太鼓をたたいたミリアムの後に大勢の女性が続きます。それは危機から脱した時の喜びの祈りです。神様のすばらしさを表現するために踊りました。おとなももこどももみんな関係なく、踊りました。みんなで歌いました。性別を超えて、神様のために歌ったのです。ミリアムはそれを導く女性指導者でした。
ミリアムは民衆に向けて、さあみんな、神様のすばらしさ、神様が私たちを助けてくれたことの感謝、それをそれぞれで表現しようと促しました。ミリアムはこのような立派な女性指導者でした。女性牧師のルーツとも言えるでしょう。このように神様は女性であるミリアムをリーダーとして、牧師として立てて下さいました。このように神様は男性、女性、あらゆる性に関わらず、用いてくださるお方です。
私たちの世界では、まだ多くの男女の格差・差別が残っています。それは特にキリスト教の中で驚くほど根強く残っています。私はもっとそれから自由になりたいと思っています。もっと平等になりたいと思っています。神様がそのような抑圧から、私たちを導き出してくださると信じています。私たちの世界がもっと平等に、もっとシャローム・平和になってゆくことを願います。お祈りします。
助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。
出エジプト記1章17節
教会には女性会というグループがあります。性の多様さから考えると性別でグループを作ることには課題があります。一方で女性だけが集まるのことに様々な良い面があります。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあります。また男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは意義のあることです。そのようなグループは社会や教会で中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆく視点があります。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切です。今日と来週は聖書の中の女性を見たいと思います。
ファラオはヘブライ人の人口を増やさないために、二人の助産師(シフラとプア)を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。しかし人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いはずです。ファラオが女性を殺さないのは、女の奴隷は高く売れたからです。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いからです。だからファラオは生まれた男だけ殺せと命令をしました。
助産師の女性たちは神様を畏れていました。さらに二人は実体験から命は神様から授かったものであると知り、男性であるファラオの命令に従いませんでした。彼女たちは社会の中心から追われる命に対して、特別なまなざしを持ち、その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信したのです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは小さな命を守るための非暴力の戦いです。
2章1節からはもう一つの物語です。ある女性が男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまうので、赤ん坊をカゴに入れて川に流しました。そしてその命を受け取ったのも女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育て、やがて彼は解放のリーダーに成長します。このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。
女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。男たちが支配する世界で彼女たちは考えました。どのようにしたら平和に生きることができるだろうか?どうしたらこどもたちを守ることができるだろうか?と考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。
私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。男も女もどの性も、その小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。私たちの教会でも同じです。性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。お祈りします。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。そして今日はこどもだけではなく信仰の大先輩の声もこの教会に響きわたりました。いつも信仰を支えて下さる神様に感謝します。
さて2月3月と地域活動と福音について考えてきました。今回が最後です。
私たちは月に2回、第3金曜日と第4金曜日に、「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。なぜ金曜日の開催としたのかは、当初は深い意味はなく教会の他の行事との関係でそうなりました。こちら側の都合だったのですが、金曜日の開催というのも好評をいただいています。
こどもも大人も1週間でいろいろなことがあります。こどもたちの周りにいれば、忙しさに追われ、心配ごとはつきず、平穏な日は少ないものです。
その1週間が終わり、これから休みに入るのが金曜日の夜です。金曜日の夜は疲れているけどほっとできる日、ワクワクする日です。こどももちょっとだけ夜更かししていい日です。
忙しい1週間に疲れた人が、金曜日に教会に集います。食事をして、元気になって、励まされます。多くの利用者は次の日の朝の予定を気にせず、閉店までのんびりします。そしてまたそれぞれの場所へと向かってゆきます。楽しかった、おいしかったと言いながら帰ってゆきます。
私は繰り返しその光景を見ながら「ここに教会があるのはすばらしい」と感じます。月2回の金曜日、多くの人が教会に疲れた心を癒しに来るのです。きっと地域の人々も「ここに教会があってよかった」「ここに教会があるのはすばらしい」と思ってくれているはずです。つらいこと、苦しいことがあっても、ここで充電し、「おいしかった」「楽しかった」と言って、また現実に向かってゆきます。その背中を、私はそっと見守っています。
私たちクリスチャンはもとより、毎週日曜日に集い、疲れを癒し、励まされています。その喜びのサイクルを毎週ずっと味わっています。私には地域の人もそれに少しずつ似てきていると思います。私たちと同じ様に様々な現実の中から教会に集い、希望を受け取り、ここに教会があるのはすばらしい、そう感じて帰ってゆくのです。
いつかはわからないけれど、いつの日か利用者の方もイエス様に出会う日がくるでしょう。ずっと先かもしれませんが、日曜日に礼拝するサイクルに連なる人がもっと起こされるはずです。その時、きっとこども食堂よりももっと深い喜びを味わってもらえるはずです。
礼拝に集うこと、食堂に集うこと、私にはそれがどこか重なって見えています。きっとどちらも同じ様に神様に招かれる、教会に行く、神様が共にいる、励まされる、それぞれの場所に派遣されることなのではないでしょうか。
そして私は今日の個所も教会に集う事と共通していることがあると思います。今日は弟子たちの体験した山上の集いと、私たちの礼拝・こども食堂の共通点に目を向けたいと思います。礼拝もこども食堂もこの山上の集まりも、どれもが「ここにいるのはすばらしい」と思えることだということを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。
今日はマタイによる福音書17章1~8節までをお読みいただきました。イエス様は弟子たちと共に高い山に登ったとあります。
1節に「高い山」に登ったとあります。マタイ福音書において山は非常に重要な場所です。イエス様はいつも大事なことを話す時は山に登りました。山上の説教がまさにそうです。それは礼拝をする場所、祈る場所のことです。日常とは少し違う場所です。イエス様は大事なことを祈る時はしばしば山に登りました。イエス様にとって山の上は、神聖な場所、祈りの場所、神との出会いの場所、愛を教える場所でした。
イエス様はそこに一緒に行こうと私たちを招いてくださっています。様々なことが起こる日常を離れて、そこへ行こうと招いています。これはイエス様から弟子たちを誘ったものでした。それはイエス様の招きでした。弟子たちは一人で山を登るのではありません。イエス様に先導されて登るのです。
このことは礼拝に参加する私たちとも共通しています。イエス様に「みんなついておいで」と招かれ、山の上の礼拝に集うのです。そしてこども食堂の利用者も同じです。さまざまなきっかけでこども食堂を知り、食事をしにきます。でもきっとそこにも神様の招きがあるのでしょう。自分で来ているように見えて、神様に招かれているものです。私たちもこども食堂の利用者も神様に招かれて集っています。
イエス様と共に山に登った弟子たちは、山の上でイエス様とモーセとエリヤが語り合い、光り輝く姿を見ることになります。モーセとエリヤは旧約聖書の中でもっとも神に熱心に従った人たちでした。イエス様もその人たちと並んで立っています。イエス様は輝いていました。
その時、弟子ペテロが言いました。私は本当にこの次の4節の言葉が好きです。ペテロは「私たちがここにいるのはすばらしいことです」と言いました。イエス様と出会い、そのすばらしさに感動して、ここに居てよかったと思ったのです。日常とは違う場所に呼び出されて、イエス様との時間を共にすることができて、よかったという意味です。
私は4節を現代の私たちに置き換えるなら「ここに教会があってよかった」「ここに教会があるのはすばらしいことだ」ということに、置き換えることができると思います。そしてその教会とは礼拝だけにはとどまりません「ここにこども食堂があってよかった」という思いも含まれるでしょう。
「私たちがここにいるのがすばらしい」という言葉からは、強い感動が強く伝わって来ます。そして「あなたはすばらしい」と言うだけではなく「あなたとここにいることができてすばらしい」という言葉は、そこから神様への感謝も伝わってきます。
ペテロはこれに対して何かしようと思いました。形に残るものにしようと思い、小屋を3つ建てようと提案をしました。しかし聖書にはそれが立てられたとは書いていません。おそらく必要ないと言われたのでしょう。天から「これに聞け」という声が聞こえました。それは、建物はいい、それより神の言葉を聞けという意味です。
私たちは誰よりも建物の大切さを知っています。ここに教会があるのはすばらしいともっと感じてもらえるように、教会を建て続けようとしています。でも最も大事なことは、イエス様に聞くことであるということを忘れないようにしましょう。私たちは建物に集まっているわけではありません。あるいは食べるために集まっているのでもないのです。イエス様に聞くことが、何よりも大事です。私たちは、神様の言葉を聞くために集まっています。
弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏したとあります。ひれ伏したという言葉は、礼拝をしたという意味も含む言葉です。その言葉を聞いて礼拝したのです。そしてその礼拝ではなんとイエス様が弟子たちの手を握ったのです。そしてこう言いました「起きなさい、恐れることはない」。どれほどの励ましを受けたでしょうか。弟子たちはその言葉を聞いて、また山の下へ向かってゆきます。それは日常に戻るということです。もう一度それぞれにチャレンジをしたのです。
これもちょうど日常からイエス様に招かれて日曜日の礼拝に来ること、礼拝し励まされて日常へと戻ることに似ています。そして日常から食堂に招かれて、食事をして励まされて、日常へ戻ることと似ています。
この聖書個所の前後にも目を向けましょう。16章後半ではイエス様によって十字架と復活が暗示されています。17章の続きも再び、十字架と復活が暗示されています。この個所は苦難に挟まれた箇所です。苦難の合間に山に登り、祈り、安らぎと、希望を受け取っている箇所です。イエス様と弟子たちは苦難の中から山に登り、また山を下り苦難へと向かってゆきます。それは日常→礼拝→日常と同じサイクルです。そして日常→教会のこども食堂→日常と同じサイクルです。
弟子たちも私たちも同じです。それぞれに忙しさや痛みや、苦しみのある1週間です。でも私たちは今日ここに集いました。ここに集えることは何とすばらしい事でしょうか。私たちは今日も神の言葉との出会い、神様の言葉を聞きました。私たちはそこで励ましを受け取ります。今日ここでイエス様に手を握られるのです。そして私たちにも「起きなさい、恐れることはない」と語ってくださるでしょう。そしてまた次の1週間も共に歩もうと言われます。
私たちは本当に「ここにこの教会があるのはすばらしい」と感じています。神のみ言葉を聞き、希望を持ち、また歩み出せるこの場所があることに、心から感謝しています。私たちだけではなく多くの人々がこの教会で神の励ましを受け取り、それぞれの生活に戻ってゆきます。それぞれ大変な1週間ですが、ここでそのための神の希望をいただきます。
今日、イエス様は私たち一人ひとりの手を握り、『起きなさい、恐れることはない』と語りかけてくださっています。私たちはこの言葉を胸に、次の一週間も力強く歩み出しましょう。そしてこの教会をもっと「ここに教会があるのはすばらしい」と言われる教会、人々を招き、励ます教会にしてゆきましょう。
2か月間、地域活動と福音についてみてきました。多くの福音が地域への活動の中に含まれています。私たちは他者との関わりの中で福音を見つけることができるのです。たくさんの人に出会うと、たくさんの福音を見つけることができます。私たちはこれからもさまざまな行事を通じて、地域の人々と出会ってゆきましょう。お祈りいたします。