「イエスの弟子として生きる」マタイ28章16~20節

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。

マタイによる福音書28章19節

 

今月と来月は初めて教会に来られる方に向けて話をしています。ヒンドゥー教の指導者、インドのマハトマ・ガンジーは「私はイエス・キリストは好きだがクリスチャンは嫌いだ」と言ったそうです。この言葉はキリスト教に入信しているどうかよりも、どう生きるのかが重要だと教えてくれます。

私たち目的は信者を獲得することではありません。誰かの心に光を照らすような愛と優しさに満ちた生き方をしたい、それが私たちの目指す道です。洗礼・バプテスマを受けたかどうかよりも、その生き方の実践の方が大事です。キリスト教ではそのような生き方をすることを「弟子になる」と言います。私たちはイエスの弟子になることが大事です。聖書にはイエスからたくさんの生き方が例示されています。今日は聖書の物語からイエスを模範にした人生について考えましょう。

復活したイエスを目撃したのは11人でした。一人は途中でイエスを裏切ってしまったのです。でも責める気はしません。私の中にもユダのようにイエスに従えない部分があるからです。さらに11人の弟子たちの中にも疑う者がいました。でもこの疑う人の存在は大事だと思います。私たちの教会も、信じる人だけの場所ではありません。疑う人、悩む人、問い続ける人、みんなを歓迎する教会です。教会では信仰を疑うことが許されています。イエスは疑っている人々にその姿を現します。

イエスが現れて言った言葉は『すべての人を私の弟子にしなさい』でした。まずこの言葉の「私の」に注目をします。それは他でもないイエスに従うという生き方です。みなさんは誰の弟子として生きているでしょうか?

イエスの弟子として生きるとは愛をもった生き方をすることです。他者に共感し、平和と平等、公平を求める生き方です。困難や、貧しさにある人を忘れずに生きる生き方です。私たちはその生き方へと招かれています。

イエスは続いて洗礼を授け、教えなさいと言いました。しかしこれは弟子とし生きることに比べて二次的なものです。決して洗礼や教えることが目的ではありません。私たちはすべての民を弟子とすること、イエスの生き方を自分の生き方する人を求めているのです。イエスの教えを実践することが「弟子として生きる」ことであり、ここで最も勧められていることです。

私たちは、どんなに年を重ねても、どれほど学んでも、イエスの前ではいつまでも弟子です。私たちは共にイエスの弟子として共に歩みましょう。他者を愛するために、小さくされている人に目を向けるために弟子になりましょう。

イエスは私たちに「いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださっています。イエスがいつも私たちの先生として、共にいてくださいます。いつも私たちの生き方を指し示してくださいます。今日から、また共にイエスの弟子として、小さくても確かな一歩を歩み出しましょう。お祈りします。