「弱さを誇る宗教」マタイ27章35~50節

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マタイによる福音書27章46節

 

今月と来月はキリスト教の話を今日初めて聞くという人を特に歓迎します。私たちは強く生き、大きな成功を収めた人を尊敬するものです。だからこそ新生活のなかで初めて出会う人には、自分の力強さ、元気さを第一印象として感じてもらいたいと思います。しかし本当は弱さこそが、私たちを結び付けてくれるものです。強さを演じあう関係では、深い関係には発展してゆきません。お互いの中にある欠けや弱さが、互いへの共感を生み、お互いをひきつけ、豊かな関係となってゆくのです。

今日はみなさんにキリスト教が大事にしている価値観を紹介します。キリスト教は痛みや弱さにこそ目を向けます。そして弱さにこそ、本当の力があると信じています。今日も聖書を通して、新しい生き方を探し求めてゆきましょう。

イエスは人々に平等や共感を訴え、それは大きなうねりになっていました。一方で特権階級の人々は、貧しい人々の団結に危機感を持ちました。人々を統治するには分断させておくのが一番だったのです。人々が互いに、自分の方が強いと思う様に仕向け、互いに力をすり減らし合ってくれれば、統治がしやすかったのです。だからこそ彼らは平等と共感を訴えるイエスを殺すことに決めたのです。十字架に掛けられたイエスは、殺される側にいるもっとも弱い存在として描かれています。その弱さは多くの人に目撃され、その弱さが明らかになる出来事でした。

しかし驚くべきことにやがて人々はこの十字架に掛けられ、弱くて、叫びながら死んでいったイエスを神と等しい存在として、信仰の対象にするようになりました。イエスが私たちにとって特別な存在である理由は、神と等しい存在であるにも関わらず人間と同じ苦しみ、弱さ、屈辱を経験したからです。神と等しい存在である方は、人間の弱さと苦しみを知り、人間に共感し、人間と共にいる、そのような存在だったのです。人々はイエスの弱い姿にひき寄せられています。イエスは神であるにも関わらず、弱々しい姿をさらけ出しました。人々はそこに共感し、イエスを生き方のモデルとするようになったのです。

さて私たち自身は何を大切にして生きていくのでしょうか。皆さんに、ぜひ社会で強く生き、注目され、輝く大きな成果を収めて欲しいと思います。豊かさと幸せを手に入れて欲しいと思います。でもそれよりも大事にして欲しいことがあります。それはイエスの様に弱さ、低み、貧しさを抱えながら生きるという生き方です。その弱さはきっとあなたと誰かを結び付けてゆくでしょう。人と人とを結びつけてゆくでしょう。そしてあなたと神を結び付けてゆくでしょう。人と神を結び付けてゆくでしょう。私たちはそのような生き方を選びたいと思っています。

キリスト教は強さを誇る宗教ではなく「弱さを誇る」宗教です。その逆説の中に神の力が働くのです。そこにきっと新しい生き方が見つかるはずです。お祈りします。