【全文】「弱さを誇る宗教」マタイ27章35~50節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。この2か月間、キリスト教の話を今日初めて聞くという人を歓迎する時として、キリスト教の入門にあたる話をしています。今日も聖書からクリスチャンの目指す生き方について考えてゆきたいと思います。

 

私たちが尊敬するのは、どのような人でしょうか。現代社会では、強く生き、大きな成功を収めた人が注目されがちです。優れた洞察力を持ち、努力を重ね、誰も成し遂げたことのない偉業を達成した人が、賞賛を集めます。人間は、とかく大きなもの、高い目標、そして成功者を追い求め、尊敬するものです。だからこそ新生活のなかで私たちが初めて出会う人にも、自分の力強さ、元気さを第一印象として感じてもらいたいと思うものです。

 

しかしどうでしょうか。本当の自分、自分の弱さを隠しても、案外それはすぐに伝わってしまうものです。むしろ弱さこそが、私たちを結び付けてくれるのです。強さを演じあう関係では、深い関係には発展してゆきません。お互いの中にある欠けや弱さが、互いへの共感を生み、お互いをひきつけ、豊かな関係となってゆくのです。案外、私たちにとって弱さは大切なのです。

 

今日はみなさんにキリスト教が大事にしている価値観を紹介したいと思います。人々が成功や強さに憧れる中で、キリスト教はむしろ痛みや弱さにこそ、目を向けるという価値観を持っています。弱さにこそ、神様の力が働くと信じています。キリスト教の価値観は強さを求め、世界を上から見下すものではありません。キリスト教の価値観は弱さの中で、世界を下から、世界を痛みや、貧しさから見ることを大事にしています。

 

春は、新たな出会いの季節です。きっとキリスト教の価値観に出会うのにも良い機会でしょう。今日は『弱さ』をテーマにお話をします。聖書の物語はきっとみなさんの人生のヒント、道しるべ、そして大切な価値基準となるはずです。今日も聖書を通して、新しい生き方、新しいライフスタイルを探し求めてゆきましょう。 

 

マタイによる福音書27章35~50節をお読みいただきました。先週は香油を注ぐ女性の物語から、イエスが精一杯生きている人の気持ちを受け止め、共感する場面を見ました。イエスは様々な格差や差別、冷たい正論が渦巻く時代に、他者に共感することを大切にしました。そしてその生き方は多くの人をひきつけました。私たちもイエスのように、他者に共感し、他者の人生を受け止めて生きてゆきたい、先週はそんなことを考えました。このようにイエスの歩みは平等や共感を訴えた歩みでした。そして他者への差別や無関心を批判し、他者への共感の大切さを語って歩んでいました。イエスへの賛同は徐々に広がり、大きなうねりになっていました。

 

一方でイエスは、時の特権階級の人々からはとても嫌われました。特権階級の人々、これらは現代社会における経済的強者や権力者と言えるでしょう。彼らは貧しい人々が助け合って、認め合って、団結してしまったら、身分の高い、自分達の優位性、自分たちの統治が崩れると思ったのです。だからイエスが広めていた平等と共感に生きる姿に大変な危機感を持ちました。

 

人々を統治するには分断させておくのが一番でした。人々が互いに、自分の方が正しい、自分の方が強いと思う様に仕向けるのです。互いに相手を差別し、見下しあうように仕向け、互いに力をすり減らし合ってくれれば、統治がしやすかったのです。

 

しかしそこにイエスが登場し、平等と他者への共感を訴えだしました。特権階級にとって、平等と他者への共感、これは自分たちの統治の根本を揺るがす一大事でした。特権階級の人々は自分たちに不都合な人物を急いで殺そうとします。彼らはイエスを大急ぎで十字架の刑に処すると決めたのです。

 

十字架刑についてご説明します。十字架刑とは古代ローマで行われた最も残酷な処刑方法でした。十字の柱に、釘で手と足を打ち付けられ、はりつけにされます。みなさんも腕を広げてみると分かるでしょう。深く呼吸ができません。何日も息苦しさが続き、少しずつ衰弱し、何週間もかかってようやく死んでゆきます。それは苦しみを最大限に引き延ばすことを目的とした、非人道的な刑罰でした。途中の48節には、酸い葡萄酒を与えたともありますが、これは苦しみへの配慮ではありません。苦しみをなるべく長く味わわせ、意識を失わせないようにするためのものでした。

 

この刑は見せしめのために人通りの多い場所や、見晴らしの良い丘の上で行われました。権力者に逆らうとどうなるのか、その結末がはっきりと分かるように、見せしめにされたのです。イエスこの残酷な刑に処せられ、悶え苦しみ、46節にあるように「神様、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、そして50節にあるように最後には大声を出して叫び、息を引き取りました。このようにしてイエスは無残に殺されたのです。これがキリスト教が神と等しい方としている人の姿です。キリスト教では、このイエスを神と等しい存在としています。神であるにもかかわらず、人間と同じように弱く、苦しみ、死んでいった方を、神としているのです。

 

ここに描かれるイエスの存在は、殺される側にいるもっとも弱い存在として描かれています。人々から拒絶され、侮辱される存在でした。イエス自身は平等と共感を教えたのですが、ここでは自分が教えたことと全く正反対の境遇に置かれました。そしてこれは、多くの人に目撃され、イエスの弱さが明らかとなる出来事でした。

 

しかしキリスト教では驚くべきことに人々はやがて、この十字架に掛けられ、弱く、叫びながら死んでいったイエスを神と等しい存在として信仰の対象にするようになったのです。この人の生き方こそ私たちの目指す生き方だったのではないかと見直すようになったのです。

 

イエスが私たちにとって特別な存在である理由は、神と等しい存在であるにも関わらず人間と同じ苦しみ、弱さ、屈辱を経験したからです。神と等しい存在である方は、ただただ強い存在ではありませんでした。人間の弱さと苦しみを知り、人間に共感し、人間と共にいる、そのような存在だったのです。人々はきっとその弱い姿にひきつけられたのでしょう。神であるにも関わらず、弱々しい姿をさらけ出しました。人々はそこに共感し、それを生き方のモデルとするようになったのです。

 

キリスト教は不思議な宗教です。逆説的という表現はキリスト教によく当てはまるでしょう。キリスト教は普通とは逆の方向から考えを進めていく宗教です。強くて幸せで豊かな人生を求める人が目を向けているのは、弱く、貧しさの中に身を置き、苦しみながら死んでいった方です。イエスは徹底的に弱さ、低さ、もろさをさらけ出されました。ここから私たちの生き方が見えてくるのです。キリスト教はこのように強さよりも弱さに目を向ける宗教です。私たちは自分の弱さを隠しません。でもその弱さが共感と連帯を生むのです。そして私たちは信じています。私たちの弱さに見えない力が働き、そこから新しい物語が始まるのです。それがキリスト教なのです。それが十字架の意味です。

 

さて私たち自身は何を大切にして生きていくのでしょうか。皆さんに、ぜひ社会で強く生き、注目され、輝く大きな成果を収めて欲しいと思います。豊かさと幸せを手に入れて欲しいと思います。でもそれよりも大事にして欲しいことがあります。それはイエスの様に弱さ、低み、貧しさを抱えながら生きるという生き方です。あなたが弱さを持ったまま生きなら、その弱さはきっとあなたと誰かを結び付けてゆくでしょう。人と人とを結びつけてゆくでしょう。そして弱さはあなたと神を結び付けてゆくでしょう。人と神を結び付けてゆくでしょう。強いリーダーとして立つことは素晴らしいことですが、弱さをさらけ出しながら誰かを支えて生きることは、それ以上に尊いものです。目立たなくても、尊敬されなくても、感謝されなくてもいいのです。私たちはそのような生き方を選びたいと思っています。聖書から、イエスから、私たち弱さを大切にする生き方を毎週、学んでいます。どうぞ繰り返しそれをこの礼拝で学んでゆきましょう。

 

私たちはつい大きなもの、美しいもの、強いものに目を向けがちです。そして弱さ、小ささを不必要な物として排除してしまいます。私たち一人一人の中に、誰か、何かを排除し、他者を十字架につけてしまう性質があります。私はその繰り返しから抜け出したいと思いつつ、なかなか抜け出すことができません。それでも何とか抜け出そうと、聖書に毎週助けを求めています。もしかするとあのイエスの十字架は私に自分の弱さを教えるためにあったのかもしれません。そのような意味で、私のためにこの十字架があったのかもしれないと思います。

 

私たちが生きる上で、本当に大事にすべきことは何でしょうか。イエスは弱さを持った生き方、それを隠さない生き方を選びました。十字架は、私たちに新しい生き方を問いかけています。新しい生き方と世界が必要だと十字架が問いかけています。私たちはどう生きるべきか、この十字架を見つめながら考えましょう。高みからではなく、自分を低くした、低みから物事をみてゆきましょう。

 

キリスト教は「強さを誇る」宗教ではありません。むしろ「弱さを誇る」、その逆説の中にこそ、キリストの力が働くのです。そこにきっと新しい生き方が見つかってゆくはずです。お祈りします。