一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 マタイによる福音書26章7節
今日から2ケ月間、初めて教会に来る方に向けてお話をします。キリスト教に興味があるという方はぜひこの機会に来てみてください。私たちは毎週の礼拝と聖書を通して、自分の生き方やあり方を考えています。もちろん人間はすぐに忘れてしまうものです。だからこの礼拝を繰り返してゆきます。そうすると少しずつ、考えや生き方が人を愛する方向へと変わってゆきます。今日はこんな物語を紹介します。
ある時、大変高価な香油を壺いっぱいに持っている女性がいました。彼女はそれを思いきり、イエスという人の頭に注ぎました。しかしイエスの周りいた人たちは「もったいない!それを売って貧しい人と分かち合ったらいいのに」と言いました。私たちはこの物語からどのように生き方を考えるでしょうか?
まず女性に目を向けます。女性が高価な香油をたくさん持っていたのは非常に長い期間、コツコツと貯めていたからです。あるいは他の人はこの女性は売春でもしていたのではないかと言います。どう収入を得たのかはわかりませんが、いずれにしてもこの香油には、女性の人生が凝縮されていました。その香油は彼女の人生の苦労、誇り、尊厳、成果、失敗、屈辱、不屈の努力すべてを象徴するものでした。そして彼女は何十年もこの香油を貯めた後、イエスと出会い、彼を自分の人生を掛ける価値のある人だと感じました。それは人生を変える大きな出会いだったのです。
弟子たちはこれを見て「無駄遣いだ」「もったいない」と言います。カネに変えて貧しい人に施せというのは正論です。しかし弟子たちはこの女性の気持ちと人生の物語を置き去りにしています。弟子たちは、彼女が持っているものを金銭に換算した時の価値にしか興味がなかったのです。そのような生き方でよいのでしょうか?なんでも経済効果、コスパ、合理性がものをいう時代です。でも本当は人生にはもっと大切な問いがあるはずです。
イエスを見てゆきましょう。弟子たちとは違って、女性の側に立って、この香油を受け止めています。イエスはおそらくこの女性の注いだ香油から、女性の人生を想像し、それを受け止めました。愛は計算ではないのです。
さて、私たちそれぞれも高価な香油の入った壺を持っています。私たちはその香油を何に向けて、どんな価値に対して注いでゆくのでしょうか?この礼拝という時間は、他の誰かからすると時間とお金の無駄遣いに見られるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいと思っています。
この礼拝には大切な出会い、神との出会いが待っているからです。この礼拝にはきっとこの人にならば、自分のすべてをぶつけて、すべてを注いでよいと思える人との出会いが準備されています。私たちは礼拝し、聖書を読み進めてゆけばきっとそのお方に出会えるはずです。そしてどのように生きるのか私たちの道しるべとなってくれるはずです。お祈りします。