【全文】「礼拝で生き方を考える」マタイ26章6~13節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもと一緒に礼拝する教会です。今日もこどもたちの声に包まれながら、礼拝をしましょう。

今月と来月は初めてキリスト教の教会に来る、話を聞くという方に向けてお話をしたいと思っています。キリスト教にちょっと興味あるけど、どんなところなのだろう?という方、ぜひこの機会に教会をお訪ねください。キリスト教に初めて触れる人と一緒に、いろいろなことを考える2か月したいと思います。はじめて教会に来る人はいつもいる人が想像する以上に、様々なことにびっくりしたり、緊張したり、とまどったりするものです。どうか初めて来た人もなるべくリラックスしてください。安心しきって、眠くなってしまうのが理想です。教会はだれもあなたは間違えていると批判したり、この宗教に引き込もうとしたりはしません。私たちは単純に、自分の価値を置くもの、自分の「推し」に興味を持ってくれる人がいるということがとても嬉しいのです。少し荒っぽい歓迎があるかもしれませんがご容赦ください。

私たちは毎週、礼拝という集まりを持っています。ここで讃美歌を歌ったり、聖書の話を聞いたりします。聖書とはこの分厚い本。毎週これを少しずつ読んでいます。そして私たちは聖書から、自分はどんな力に支えられて生きているのかを考えています。自分の力、周りの人の力、家族の力、そして神様の力、いろいろな力が私たちを支えていることに考えを巡らせています。そして自分もチャンスがあれば誰かを支える人になりたいと考えています。そんな風に聖書を通して、自分の生き方や自分のあり方を考える時間がこの礼拝の時です。もちろん1回考えたくらいでは人間は変われないものです。1回心に決めても、毎週大変なことがあると忘れてしまうものです。だからこれを繰り返してゆきます。そうすると少しずつ、考えや生き方の方向が変わってくるのです。人を愛する生き方へと近づいてゆくのです。ぜひ毎週はきついかもしれませんが、ときどき、月1回など予定を合わせて、教会で生き方を考えて欲しいのです。豊かな生き方がきっと見つかるはずです。人生に迷った時に、人生の選択の時に、きっと何かの指針となるはずです。今日は聖書に登場するある女性とイエスの物語をご紹介します。ここから私たちの生き方を考えたいと思います。

 

ある時、一人の女性がいました。この人は大変高価な香油を壺いっぱいに持っていました。香油とはとてもいい香りのするオイルのことです。そしてある時、それを思いっきり、イエスという人の頭に注いだのです。イエスの周りいた人たちが言いました。「もったいない!」。それを売って貧しい人と分かち合ったらいいのにと言ったのです。でもイエスはこの女性の行動を批判していない様子です。わかりづらいことを言っていますが、どうもこれはいい事なのだと言っている様子です。私たちはこの物語からどんな風に生き方を考えるでしょうか? 

一人一人に注目をしてみましょう。まず女性に目を向けます。この女性は壺いっぱいの高価な香油を持っていました。なぜ、こんな高価な香油を、こんなにたくさん持っていたのでしょうか?その理由を想像せずにはいられません。聖書は2000年前に書かれた物語です。古代の一般市民は貧しく暮らしていました。貧しい一般市民がこんな高価な香油をたくさん持っているのは驚きです。もし可能だとしたら、非常に長い期間、コツコツと貯めていたとしか考えられません。女性の日々のわずかな収入から、すこしずつ貯金するように、少しずつ香油を買い足し、ようやく壺いっぱいにまですることが出来たのです。

あるいは他の人はこの女性は売春でもしていたのではないかと言います。古代において女性がこんな高価な物を所有するには、そのような仕事をしなくては溜まらなかったという指摘は確かです。どう収入を得たのかはわかりませんが、いずれにしてもこの香油には、女性の人生が凝縮されていたはずです。女性の人生にあった苦労、自信、誇り、尊厳、生き方、成果、失敗、屈辱も凝縮されているものがこの香油でした。それは自分の人生の不屈の努力の結晶であり、彼女の人生の物語の象徴、それがこの香油でした。

みなさんには、そうやって長年積み重ねてきたものがあるでしょうか?私たちは気づいていなくても、人生の中で何かを積み重ねています。経験や愛情、祈りや思い出など、そうした積み重ねが、壺の香油のように、目に見えなくても豊かに存在しているのです。みなさんの心にも、人生の苦労や誇りが詰まった「香油の壺」があるはずです。そこには経験や、知識や、信仰、情熱、確信、人との関係が豊かに壺の中におさめられています。そして失敗と後悔も糧としてこれに納められているでしょう。私の壺は空だ、少ししかないと思われるかもしれません。でもきっと一人一人の壺は豊かに香り高い油で満たされています。私たちはそれを何のために使うのでしょうか。何に向けて、それを注いでゆくのでしょうか。そんなことが私たちの人生の生き方として問われているような気がします。

彼女は何年も何十年もこの油を貯めてきました。それを今日一日、たったこの一人の一瞬のために使ってしまおうとしています。彼女はそれだけ、このイエスという人のことを、自分の人生を掛ける価値のある人だと感じたのです。それは人生を変える大きな出会いだったのです。

次の登場人物である弟子たちのことを見ましょう。弟子たちはこれを見て「無駄遣いだ」「もったいない」と言いますが、これは“普通”の感覚でしょう。それだけの高価なものなのだったら、もっと別のことに使える、使うべきだと言ったのです。それをカネに変えて貧しい人に施せというのは正論です。極めて合理的でコスパ重視の意見です。そうすべきで何の反論もできません。でも弟子たちが、彼女に向けてその言葉を向ける、課題も見つけます。弟子たちは正論をぶつけました。しかしその正しさの中には、愛や思いやりが欠けていました。人は時に、正論という名の冷たさで、誰かの気持ちを踏みにじることがあります。弟子たちはこの女性の気持ちを完全に置き去りにしました。イエスの弟子たちは最も重要な質問をしていません「あなたはどうして、それをすべてこの人に今注ごうと思ったの?」「あなたはどういう気持ちだったの?」「何があなたをそうさせたの?」「あなたはなぜ、そんなに高価な香油をもっているの?」

まずこのような問いがなされるべきだったのではないでしょうか?しかし弟子たちは当事者の気持ちを置き去りにして、彼女の長い人生の物語を置き去りにします。それは彼女自身に対して興味が無いということです。彼女の不屈の人生、彼女の価値観、彼女の生き方とその物語には興味がないということです。ただ弟子たちは、彼女が持っているものを金銭に換算した時の価値にしか興味がなかったのです。そういう生き方でよいのでしょうか?なんでも経済効果、コスパ、合理性がものをいう時代です。でも本当は人生にはもっと大切な問いがあるはずです。どんな気持ち?どんな人生?どんな価値基準?彼女の物語に目を向けてゆく生き方が私たちにはもっとできるのではないでしょうか?

登場人物イエスを見てゆきましょう。イエスの答えは「困らせるな」というものでした。この言葉はイエスがこの女性の行動の背景や苦労を想像し、尊重したという意味を持ちます。周囲が「もったいない」と批判する中で、イエスだけがこの女性の人生の物語に目を向けたのです。弟子たちとは違って、イエスだけが女性の側に立って、この香油を受け止めたのです。愛は計算ではないのです。

そしてイエスは続けて自分はもうすぐ死ぬということを暗示しています。「これは葬りの準備だ」とはイエスは「この後自分は死ぬ、殺されるだろう」という意味です。イエスがなぜ死ななければならなかったという話はまた次回にしようと思います。でもイエスはこの女性の行動に対して大切なことばを残しました。それは彼女の行動はずっと記念として語り伝えられるだろうという言葉でした。彼女の行動は後世に語り継がれるだろう、それは今日実際に実現しています。

さて、私たちは語り継がれたこの物語からどんなこと、どんな生き方を学ぶでしょうか?まず私は彼女の不屈の精神を学びます。そして私は彼女がなぜイエスにそれを一気に注ぎかけたのか、この箇所だけではわかりませんが、とても興味を持ちます。おそらくそれは聖書を読み進めてゆけばわかるのでしょう。

そして私たちそれぞれにも高価な香油の入った壺があります。私たちはそれを何に向けて注ぐのでしょうか。どんな価値に対して私たちは香油を注いでゆくのでしょうか?私たちはこれに香油を注ぐ価値があるというものに出会えているのでしょうか?あの壺をいますぐ持ってきて、これに全部注ごうとする、そんな出会いが私たちにはあるのでしょうか?今、私たちが香油を注ぐべき相手は誰でしょうか?きっとその出会いが教会に聖書の中にあるのではないでしょうか。ぜひ少しずつ聖書を読んでみましょう。

この礼拝という時間、他の誰かからすると時間とお金の無駄遣いだ、もっといい使い方があると言われるかもしれません。でも私たちはこの礼拝を続けたいと思っています。この礼拝には大切な出会い、神との出会いが待っているからです。きっとこの人にならば、自分のすべてをぶつけて、すべてを注いでよいと思える人との出会いが準備されています。私たちは礼拝し、聖書を読み進めてゆけばきっとそのお方に出会えるはずです。そしてどのように生きるのか私たちの道しるべとなってくれるはずです。お祈りします。