【全文】「ここに教会があるのはすばらしい」マタイ17章1~8節

 みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。そして今日はこどもだけではなく信仰の大先輩の声もこの教会に響きわたりました。いつも信仰を支えて下さる神様に感謝します。

 

さて2月3月と地域活動と福音について考えてきました。今回が最後です。

 

私たちは月に2回、第3金曜日と第4金曜日に、「こひつじ食堂」というこども食堂を開催しています。なぜ金曜日の開催としたのかは、当初は深い意味はなく教会の他の行事との関係でそうなりました。こちら側の都合だったのですが、金曜日の開催というのも好評をいただいています。

 

こどもも大人も1週間でいろいろなことがあります。こどもたちの周りにいれば、忙しさに追われ、心配ごとはつきず、平穏な日は少ないものです。

 

その1週間が終わり、これから休みに入るのが金曜日の夜です。金曜日の夜は疲れているけどほっとできる日、ワクワクする日です。こどももちょっとだけ夜更かししていい日です。

 

忙しい1週間に疲れた人が、金曜日に教会に集います。食事をして、元気になって、励まされます。多くの利用者は次の日の朝の予定を気にせず、閉店までのんびりします。そしてまたそれぞれの場所へと向かってゆきます。楽しかった、おいしかったと言いながら帰ってゆきます。

 

私は繰り返しその光景を見ながら「ここに教会があるのはすばらしい」と感じます。月2回の金曜日、多くの人が教会に疲れた心を癒しに来るのです。きっと地域の人々も「ここに教会があってよかった」「ここに教会があるのはすばらしい」と思ってくれているはずです。つらいこと、苦しいことがあっても、ここで充電し、「おいしかった」「楽しかった」と言って、また現実に向かってゆきます。その背中を、私はそっと見守っています。

 

私たちクリスチャンはもとより、毎週日曜日に集い、疲れを癒し、励まされています。その喜びのサイクルを毎週ずっと味わっています。私には地域の人もそれに少しずつ似てきていると思います。私たちと同じ様に様々な現実の中から教会に集い、希望を受け取り、ここに教会があるのはすばらしい、そう感じて帰ってゆくのです。

 

いつかはわからないけれど、いつの日か利用者の方もイエス様に出会う日がくるでしょう。ずっと先かもしれませんが、日曜日に礼拝するサイクルに連なる人がもっと起こされるはずです。その時、きっとこども食堂よりももっと深い喜びを味わってもらえるはずです。

 

礼拝に集うこと、食堂に集うこと、私にはそれがどこか重なって見えています。きっとどちらも同じ様に神様に招かれる、教会に行く、神様が共にいる、励まされる、それぞれの場所に派遣されることなのではないでしょうか。

 

そして私は今日の個所も教会に集う事と共通していることがあると思います。今日は弟子たちの体験した山上の集いと、私たちの礼拝・こども食堂の共通点に目を向けたいと思います。礼拝もこども食堂もこの山上の集まりも、どれもが「ここにいるのはすばらしい」と思えることだということを見てゆきたいと思います。聖書を読みましょう。

今日はマタイによる福音書17章1~8節までをお読みいただきました。イエス様は弟子たちと共に高い山に登ったとあります。

 

1節に「高い山」に登ったとあります。マタイ福音書において山は非常に重要な場所です。イエス様はいつも大事なことを話す時は山に登りました。山上の説教がまさにそうです。それは礼拝をする場所、祈る場所のことです。日常とは少し違う場所です。イエス様は大事なことを祈る時はしばしば山に登りました。イエス様にとって山の上は、神聖な場所、祈りの場所、神との出会いの場所、愛を教える場所でした。

 

イエス様はそこに一緒に行こうと私たちを招いてくださっています。様々なことが起こる日常を離れて、そこへ行こうと招いています。これはイエス様から弟子たちを誘ったものでした。それはイエス様の招きでした。弟子たちは一人で山を登るのではありません。イエス様に先導されて登るのです。

 

このことは礼拝に参加する私たちとも共通しています。イエス様に「みんなついておいで」と招かれ、山の上の礼拝に集うのです。そしてこども食堂の利用者も同じです。さまざまなきっかけでこども食堂を知り、食事をしにきます。でもきっとそこにも神様の招きがあるのでしょう。自分で来ているように見えて、神様に招かれているものです。私たちもこども食堂の利用者も神様に招かれて集っています。

 

イエス様と共に山に登った弟子たちは、山の上でイエス様とモーセとエリヤが語り合い、光り輝く姿を見ることになります。モーセとエリヤは旧約聖書の中でもっとも神に熱心に従った人たちでした。イエス様もその人たちと並んで立っています。イエス様は輝いていました。

 

その時、弟子ペテロが言いました。私は本当にこの次の4節の言葉が好きです。ペテロは「私たちがここにいるのはすばらしいことです」と言いました。イエス様と出会い、そのすばらしさに感動して、ここに居てよかったと思ったのです。日常とは違う場所に呼び出されて、イエス様との時間を共にすることができて、よかったという意味です。

 

私は4節を現代の私たちに置き換えるなら「ここに教会があってよかった」「ここに教会があるのはすばらしいことだ」ということに、置き換えることができると思います。そしてその教会とは礼拝だけにはとどまりません「ここにこども食堂があってよかった」という思いも含まれるでしょう。

 

「私たちがここにいるのがすばらしい」という言葉からは、強い感動が強く伝わって来ます。そして「あなたはすばらしい」と言うだけではなく「あなたとここにいることができてすばらしい」という言葉は、そこから神様への感謝も伝わってきます。

 

ペテロはこれに対して何かしようと思いました。形に残るものにしようと思い、小屋を3つ建てようと提案をしました。しかし聖書にはそれが立てられたとは書いていません。おそらく必要ないと言われたのでしょう。天から「これに聞け」という声が聞こえました。それは、建物はいい、それより神の言葉を聞けという意味です。

 

私たちは誰よりも建物の大切さを知っています。ここに教会があるのはすばらしいともっと感じてもらえるように、教会を建て続けようとしています。でも最も大事なことは、イエス様に聞くことであるということを忘れないようにしましょう。私たちは建物に集まっているわけではありません。あるいは食べるために集まっているのでもないのです。イエス様に聞くことが、何よりも大事です。私たちは、神様の言葉を聞くために集まっています。

 

弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏したとあります。ひれ伏したという言葉は、礼拝をしたという意味も含む言葉です。その言葉を聞いて礼拝したのです。そしてその礼拝ではなんとイエス様が弟子たちの手を握ったのです。そしてこう言いました「起きなさい、恐れることはない」。どれほどの励ましを受けたでしょうか。弟子たちはその言葉を聞いて、また山の下へ向かってゆきます。それは日常に戻るということです。もう一度それぞれにチャレンジをしたのです。

 

これもちょうど日常からイエス様に招かれて日曜日の礼拝に来ること、礼拝し励まされて日常へと戻ることに似ています。そして日常から食堂に招かれて、食事をして励まされて、日常へ戻ることと似ています。

 

この聖書個所の前後にも目を向けましょう。16章後半ではイエス様によって十字架と復活が暗示されています。17章の続きも再び、十字架と復活が暗示されています。この個所は苦難に挟まれた箇所です。苦難の合間に山に登り、祈り、安らぎと、希望を受け取っている箇所です。イエス様と弟子たちは苦難の中から山に登り、また山を下り苦難へと向かってゆきます。それは日常→礼拝→日常と同じサイクルです。そして日常→教会のこども食堂→日常と同じサイクルです。

 

弟子たちも私たちも同じです。それぞれに忙しさや痛みや、苦しみのある1週間です。でも私たちは今日ここに集いました。ここに集えることは何とすばらしい事でしょうか。私たちは今日も神の言葉との出会い、神様の言葉を聞きました。私たちはそこで励ましを受け取ります。今日ここでイエス様に手を握られるのです。そして私たちにも「起きなさい、恐れることはない」と語ってくださるでしょう。そしてまた次の1週間も共に歩もうと言われます。

 

私たちは本当に「ここにこの教会があるのはすばらしい」と感じています。神のみ言葉を聞き、希望を持ち、また歩み出せるこの場所があることに、心から感謝しています。私たちだけではなく多くの人々がこの教会で神の励ましを受け取り、それぞれの生活に戻ってゆきます。それぞれ大変な1週間ですが、ここでそのための神の希望をいただきます。

 

今日、イエス様は私たち一人ひとりの手を握り、『起きなさい、恐れることはない』と語りかけてくださっています。私たちはこの言葉を胸に、次の一週間も力強く歩み出しましょう。そしてこの教会をもっと「ここに教会があるのはすばらしい」と言われる教会、人々を招き、励ます教会にしてゆきましょう。

 

2か月間、地域活動と福音についてみてきました。多くの福音が地域への活動の中に含まれています。私たちは他者との関わりの中で福音を見つけることができるのです。たくさんの人に出会うと、たくさんの福音を見つけることができます。私たちはこれからもさまざまな行事を通じて、地域の人々と出会ってゆきましょう。お祈りいたします。