どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。 マタイによる福音書12章25節
今日はこの後、来年度の計画を確認する総会が開催されます。私たちはキリスト教の中でもバプテストという民主主義を大事にするグループで、議論しながら物事を決めていく教会です。今、特に大切な議論は新会堂を建てるのか、それともこの会堂を修繕するのかという点です。議論するとは意見を述べ合うだけではなく、互いが考えを受け入れ、変わってゆくことです。今日は、私たちは議論し、互いに受け入れ合い、互いに変わってゆくこと、どんな時も神様が私たちを導いてくださるということについて考えましょう。
マタイによる福音書12章22~32節までをお読みいただきました。イエス様は二重に障がいのある人を癒したとあります。それは神様の一方的な恵みによる癒しでした。神様は良い事をした人にだけ良いものを与えるお方ではありません。神様はたとえ私たちが動けず、見えず、聞こえず、しゃべれなくなっても、私たちに良いものを与えてくれる方なのです。私たちは全員、やがて若さを失い、病になり、自由に動けなくなる日が来るでしょう。それぞれも、そして教会もそうかもしれません。でも神様は何ができなくなっても、何があっても必ず私たちに良いものを与えられるのです。私たちはこの信頼をもって聖書を読み、人生を生きてゆきましょう。
24節の発言は議論ではなく、ただの拒絶と批判です。本当の議論とは、互いの考えを尊重し、共に変化することです。イエス様も反対する人もみな、内輪もめ、拒絶と批判による分断の力の大きさを知っていました。25節、どんな支配も、どんな国も、どんな町も家も、そしてどんな教会も内輪で争えば、荒れてはててゆくのです。
私たちもこの後、熱心な議論をしてゆきたいと思っています。しかし議論と他者の拒絶と批判による内輪もめとは違うものです。きっと議論することは、分断の危うさを含んでいます。
私たちはまず一致していることに目を向けましょう。神様の愛は一方的で、どんな人にも恵み深い方です。どんな時も神様が導いてくださるお方です。私たちはその最も重要な部分で一致することができています。私たちは自分の希望が叶わないことがあるかもしれませんが、神様がすべての導いてくださることを信じる、そのことを土台に共に議論し、歩みましょう。
私たちは何度でも悔い改め、変わることができます。神様の私たちへの赦しと愛には際限がありません。しかし自分は間違っていない、変わる必要ないと思って生きることは、神様の際限のない赦しへの拒絶です。際限のない神様の愛の前に、自分の貧しさ、欠けに目を向け、自分が変わってゆくということが大事です。私たちは難しい議論の中で、大小の内輪もめが起こるでしょう。でも私たちは議論し、互いに悔い改めあい、互いに赦されながら、互いに変わってゆきましょう。そして思い通りにならなくても、絶対に神様の導きがあると信じ、前に進みましょう。お祈りします。