みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。この礼拝でこどもの声が、そしてこの地域のこどもの声が響きます。そして私たちは未来でもこどもの声がする教会となることを目指してゆきましょう。
今日はこの後、来年度の計画を立てる総会が開催されます。今日の総会および5月の総会では主の晩餐、会堂建築、規約改正など特に重要な協議事項がありますので、会員の方はぜひ参加をしてください。私たちはキリスト教の中でもバプテストという民主主義を大事にするグループです。全員が遠慮なく議論しながら物事を決めていく教会です。特に議論が必要な課題は、建築のことです。私たちは、新会堂を建てるのか、それともこの会堂を修繕するのか、そしてそれぞれの場合どのように手を加えるのか良く議論しましょう。議論するとは一方的に意見を述べ合うことではなく、互いが考えを変え、受け入れ合うことです。私たちはそれぞれの意見を伝え、受け入れ合い、前に進んでゆきましょう。
立ち止まってもっとゆっくりと考えたいと思うかもしれません。時にはブレーキを掛けることも大事です。でも平塚教会は今が変化してゆくチャンスだと思います。そしてこのチャンスはいつまでも続くものではないでしょう。この時を逃さず、大胆な変化をしてゆきたいと思います。
建築の基本計画は5月中旬までに終える予定です。他の教会は10年かけることもあります。私たちの教会はあまりに議論が短いかもしれません。でも前に進みたいと思っています。それは私たちの教会は他の教会よりもありたい姿が明確になっているからです。他の教会は10年間ありたい姿を考えます。しかし私たちはこの教会を、この礼拝を、この仲間との交わりを続けてゆきたい、こどもの声がする教会にしたい、地域にもっと開かれた教会になりたい、こども食堂や広場を続けたい、そのようなありたい姿がはっきりしています。私たちは多少の違いはありますが、こどもを受け止めてゆくという方向で、すでに一致できています。そして平塚教会の場合、すでにそれに向けた取り組みも十分に始まっています。他の教会とは大きく状況が違うと思っています。だから短い期間できっと結論にできると思います。前に進みましょう。
私は実は他の心配をしています。それは、この問題は私たちの教会だけで決めるものではないということです。理事会の3分の2の賛成と連盟300教会の過半数の承認が必要です。他の教会に私たちの計画を訴え、賛同してもらわなければなりません。それはとても高いハードルです。私は実は教会の中の一致よりも、様々な立場や考え方を持った理事会や他の教会の賛同を得る方が難しいと思っています。来年度1年間をかけて、連盟の理事会と全教会を説得します。牧師や執事の対外的な働きが大きくなることを祈って欲しいです。次の1年は平塚教会のために、対外的な情報発信に軸足を置くことになりますが、それは平塚教会のためだけではなく、他の教会にとってもよい事例になると思います。どうぞお祈りください。
教会の中でもまだまだ細かな部分を皆さんと話し合ってゆきます。会堂の中はこれまでどおり履き替えるのか土足なのか、講壇の高さはどうするのか、答えのないことばかりを話し合ってゆかなければなりません。私たちは正解のない問題の中で、議論し、互いに受け入れ合い、互いに変わってゆきましょう。
今日の聖書から、私たちは議論し、互いに受け入れ合い、互いに変わってゆくこと、どんな時も神様が私たちを導いてくださるということについて考えます。聖書を読みましょう。
マタイによる福音書12章22~32節までをお読みいただきました。ある時、目が見えず話すこともできないという二重の障がいがある人がいました。生まれつきの障害だったのでしょうか?それとも昔は見ること、話すことができ、何かの事故や病気でそうなってしまったのでしょうか?わかりません。この人は一人でできないことが多い人だったかもしれません。どこへ行くにも常に人に誰かに手を引いてもらう必要がありました。他者とのコミュニケーションもとりづらかったことでしょう。イエス様はこの人を癒したとあります。それは神様の一方的な恵みによる癒しでした。
聖書にはこの人が良い人だった、悪い人だったという評価はどこにも記されていません。ただイエス様が癒したとしかありません。ここから感じるのは、神様は良い事をした人にだけ良いものを与えるお方ではないということです。ここでは神の愛と導きとは、人間に向けて一方的なものであるということが示されています。
私たちが聖書を読む時、そして生きる時、まずこの神様の恵みへの信頼が必要でしょう。神様はたとえ私たちが動けず、見えず、聞こえず、しゃべれなくなっても、私たちに良いものを与えてくれる方なのです。私たちは全員、やがて若さを失い、病になり、自由に動けなくなる日が来るでしょう。それぞれも、そして教会もそうかもしれません。いつか心の支えであった教会に来られなくなって、寂しいと思う時が来るかもしれません。でも忘れないでいたいのは、神様の恵みは状況に関わらず絶対に続くものだということです。何ができなくなっても、何があっても神様は必ず私たちに良いものを与えられるのです。私たちはこの信頼をもって聖書を読み、人生を生きてゆきましょう。
24節以降を見ます。イエス様はこの地域の病気の人、寂しいと思っている人を癒す働きをしていました。多くの人がそれを称賛しました。しかし一歩外にでれば、イエスの評価は様々でした。ある人は、あれは一見よい事のように見えて実は大きな誘惑が潜んでいる、気を付けなくてはいけないと言いふらしました。あれは神様の導きではない。目の前の人が喜ぶようなことをしているだけだ。間違ったことだと言ったのです。この発言は議論ではありません。それはただの拒絶と批判です。本当の議論とは、互いの考えを尊重し、共に変化することです。これは悪魔の力で悪魔を追い出しているというめちゃくちゃな論理、拒絶と批判でした。イエス様はそれに反論をしています。
イエス様は悪魔同士で、内輪争いがおきたら、立ち行かないではないかと語りました。これは非常に説得力のある内容でした。イエス様もイエス様に反対する人もみな、内輪もめ、拒絶と批判、分断の力の大きさを知っていたのです。イエス様と反対する人には意見の違いがありましたが、そこで両者が納得できたことがあります。それは内輪で争いは、力の強い悪魔でさえ立ち行かなくさせる力があること、内輪争いは人の力をそぐ大きな力があるという事でした。25節、どんな支配も、どんな国も、どんな町も家も、そしてどんな教会も内輪で争えば、荒れてはててゆく。その言葉は、敵味方の誰もが認める、大きな説得力があったのです。
私たちもこの後、熱心な議論をしてゆきたいと思っています。でも議論と他者を批判する内輪もめとは違います。きっとよく議論することと、拒絶と批判、分断の危うさを含みます。私たちはそれに立ち向かってゆかなければなりません。私たちはその時どのように内輪もめせずに、議論すべきでしょうか。私たちはまず一致していることに目を向けましょう。神様の愛は一方的で、どんな人にも恵み深い方だ、どんな時も神様が導いてくださる方です。どのような議論をしても、そしてたとえしなかったとしてもそれは変わらないということを忘れないでいましょう。私たちはすでに神様はどんな時も、どんな人にも愛を注ぎ、導いてくださるという最も重要な部分で、一致することができています。私たちは自分の希望が叶わないことがあるかもしれませんが、神様がすべての導いてくださることを信じる、そのことを土台に共に議論し、歩みましょう。
31節以降には、人間にはすべての罪と冒涜が赦されるとあります。赦されるとは、私たちのすべての失敗や不足をすべて受け止め、私たちが悔い改めて変わろうとする時、神様は必ず次のチャンスをくださるということです。神様は私たちが悔い改めて変わろうとする時、次は罪と冒涜ではなく、愛と励ましを語るようにと、私たちを何度でも赦してくださいます。私たちは何度でも悔い改め、変わることができるのです。何度でも変わることができる、それが神様の愛です。私たちは全ての問いに正解をしてゆくことはできないでしょう。教会も、お互いもたくさんの失敗をするでしょう。でも神様は私たちに、悔い改めながら、赦しをこいながら、前に進むようにと言っています。
そして赦されないことも挙げています。それは聖霊への冒涜です。神様の私たちへの赦しには際限がありません。しかしここでは聖霊への冒涜だけは赦されないと書いてあります。聖霊の冒涜、それは悔い改めずに、自分を変えずに前に進もうとすることと言えるでしょう。神様の愛と導きに目をむけず、自分は間違っていない、悔い改めと変化が必要ないと思って生きることは、神様の際限のない赦しへの拒絶です。際限のない神様の愛の前に、自分の貧しさ、欠けに目を向け、自分が変わってゆくということが大事です。私たちは難しい話の中で、大小の内輪もめが起こるでしょう。でも私たちは議論し、互いに悔い改めあい、互いに赦されながら、互いに変わってゆきましょう。そして思い通りにならなくても、絶対に神様の導きがあると信じ、前に進みましょう。
私はこの地域の人にも、私たちが多少の内輪もめをしながらも、互いに話し合う、互いに悔い改める、互いに赦されながら、互いに変わる姿を良く見て欲しいと思っています。お祈りします。
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