みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も子どもたちと共に礼拝をしましょう。3月に入り年度末です。先日こひつじ食堂の利用実績をまとめていました。数字からわかることは2020年にこひつじ食堂を始めた当初、持ち帰りのお弁当ばかりが人気で、会堂で食事をする会食の人気が無くて困っていたということです。地域の多くの人が教会の中で食事をすることにあまり乗り気ではなかったのです。会堂の中で食事をしてもらえるように、コーヒーやデザートも付けました。最初は南集会室だけやっていましたが、会堂に子供用のテーブルを4個出すことにしました。さらに重いイスを動かして、子供用のテーブルを12個並べました。会食は当初は30名程度、それもほとんど関係者でしたが、今では100名が前日の予約でいっぱいになるようになりました。
教会に大きな変化が起きたと思います。毎週日曜日に礼拝だけにしか使っていないかった会堂は、みんなが月2回集まる食堂になりました。さらにカフェになって、お茶をしてゆっくりする場所になりました。はじめた当初からするとずいぶん教会の使い方、会堂の使い方が変わってきたと思います。この礼拝堂は、礼拝の場だけでなく地域との交わりの場へと大胆に変えられてきました。
いろいろな地域活動をしていますが、私たちは出会った人たちをすぐにキリスト教へと改宗させることを目的にしているわけではありません。むしろ変化が大きいのは教会の方です。いろいろな変化が教会の側に起っています。私たちは確かに今、地域に大きな影響を与えていでしょう。でも教会は一方的に相手を変える側ではありません。教会こそ変わってゆきました。教会は出会いによって、より柔軟に、より開かれた存在へと変わってゆきました。きっと私たちはこれからもっと地域の人と出会うことによって、変わってゆくのでしょう。
私自身も出会う人が増え、仕事内容が変わってきています。様々な人と出会い話をすることで、私の考えも変化してゆきます。教会の可能性、牧師の仕事の可能性に、新しく気付かされています。もしかすると最近の教会は少し変化が多いかもしれません。でもそれはきっと、今までよりもいろいろな人と出会っているからでしょう。出会いが私たちを変え、出会いが教会を変えてゆくのです。人々との出会いを通じて、私たち自身が変えられているのです。
これは、聖書の中にも見られる姿です。たとえば、今日読む聖書箇所では、イエス様ご自身がある女性との出会いを通して、驚くべき変化をしました。マタイによる福音書15章21~28節を読んでみましょう。イエス様がどんな出会いをしたのか、そしてイエス様自身がどのように変化したのかを見てゆきたいと思います。
聖書を読みましょう。福音書の中でイエス様が、誰か自分のところに来ないかと待っている姿は多くありません。ほとんどの場合、イエス様の方から出かけて行く、相手のところに飛び込んでゆくのかイエス様のスタイルです。そしてイエス様は訪ねた先々で、様々な出会いを体験しました。福音書とはイエス様と出会った人々の物語だとも言えるでしょう。
今日イエス様はティルスとシドンの地方に行かれたとあります。この町は貿易で栄えた港町で、いわゆる富裕層が住んだ町です。イエス様にしては珍しい訪問先でもあります。というのは通常イエス様は貧しい場所や、病気の人が集まる場所を訪ねて歩いたからです。今回はいつもと違って、海沿いの豊かな人々が住む街を訪ねました。でもそのように様々な場所に出向くのがイエス様です。そして今回はひときわ印象的な出会いをします。
今回イエス様はカナンの女性と出会ったとあります。このカナンの女性とは異邦人、つまりユダヤ教の神様を信じない異教の人でした。当時のユダヤ教では異教の人との交際や会話は禁じられていました。女性に対してならなおさらです。しかしイエス様は本当にいろいろな人と出会います。このカナンの女性の娘は、悪霊にひどく苦しめられていました。おそらく何かの病気で苦しんでいたのでしょう。イエス様の時代の人はしばしば、病を悪霊の仕業だと考えました。その町にイエス様が来ました。カナンの女性は「憐れんで欲しい」と頼みます。富裕層の町です。この女性もお金持ちだったでしょうか?でも、お金では解決できない病を持っていたのです。彼女はイエス様に訴えました。「主よ、憐れんでください」ここには叫んだと書いてあります。お腹の底からイエス様の救いを求めて叫び声をあげたのです。
しかし23節イエス様は何もお答えにならなかったとあります。なぜイエス様は黙ったままで、何もしてあげないのでしょうか?続く29節では大勢のガリラヤの人々、貧しい人々の病を治したのに、どうしてここでは黙ったまま、何もしないのでしょうか? そしてイエス様は24節ではっきりと言います「私はイスラエルの家の失われた羊にしか遣わされていない」と。それは、私はユダヤ人を導くために来たのであって、ユダヤ人以外の人、異教徒を導くために来たのではないという意味です。
女性はそれでも食い下がります25節、ひれ伏して、どうか、お助けくださいと嘆願をするのです。それでもイエス様は助けようとしません。さらに「こどものためのパンを、犬にやってはいけない」と言います。それは、私はまずユダヤ人のために活動をするのであって、他の宗教の人のためには活動しませんという意味です。パンとは神様の恵みです。こどもから食べ物を取り上げて犬に渡さないのと同じように、神様の恵みを異邦人には渡さないと答えました。
しかし女性はそれでも引き下がりません。犬だってテーブルの下に落ちたパンを食べるじゃないですか、少しだけ私にもその恵みを分けて下さいと言います。それはユダヤ人以外だって、神様の恵みにあずかってもいいではないかという訴えです。私も端っこの部分でいいから、落ちた余りものでいいから分けて下さい。神様の愛はもっと広くに及ぶはずですと言ったのです。
イエス様はこの女性の信仰に感心しました。イエス様は、神様は確かに分け隔ての無く、そのように広い愛をお持ちのお方だと、この女性の話を聞いて気付いたのです。そしてイエス様は「あなた信仰は立派だ」と言います。そう言ってイエス様は、他のユダヤ人、他の貧しい人々と同様に、このカナンの女性の娘の病を癒したのです。
この物語から感じることは、何でしょうか?それはイエス様自身が大きく変化をしているということです。イエス様は変わらないお方というイメージが強くあります。しかし今日の個所からわかることは、イエス様の信仰は出会った人、自分と信じる宗教が違う人との出会いを通じて、変わっていったのだということです。イエス様の信仰でさえ、出会いによって、変わっていったのです。イエス様はこのカナンの女を通じて気づきました。最初は黙っていました。でもイエス様はこの女性によって、神様は時分が思っているよりも、もっと大きな愛をもっている方だ、そう改めて気づいたのです。そしてそれは自分の役割にも直接関係することでした。イエス様はここで自分がユダヤ人のためだけにいるのではないと気づかされました。イエス様はこの女性によって大きく変えられてゆきます。この個所はイエス様が新しい出会いによって変えられてゆくという貴重な物語です。
さて、この物語を読んで、私たちは何を学べるでしょうか?ここでのイエス様の姿勢は、私たちの人生とも深く関係していると思います。私たちは時に、自分の考えや価値観に固執してしまうことがあります。しかし出会いは私たちの視野を広げ、新しい気づきをもたらすものです。イエス様がカナンの女性との出会いによって変えられたように、私たちもまた出会いを通じて変えられていくのではないでしょうか?私たちの人生も様々な出会いによって変わってゆくものでしょう。人生とは誰に出会ったかで決まってゆくものです。出会いはお互いの「こうであるべき」という形を崩してゆきます。
教会がこひつじ食堂によって、新しい出会いによって、大きく変えられたように、私たち一人一人の人生も出会いによって変えられてゆくのです。それはイエス様も経験をしたことでした。まして私たちはイエス様よりもっと変化の可能性に開かれているでしょう。イエス様でさえ変わることを選びました。私たちは、変らない神の愛を大事にしつつも、いつも変化の可能性に開かれていることに目を向けていたいと思うのです。いつも神様の愛の大きさに気付き、変えられてゆくものでありたいのです。
もしかすると私たちは相手を変えようとばかりしているかもしれません。怒ったり、ほめたりして、相手を変えようとばかりしています。でもこの物語でイエス様は、自分が変わるということを選ばれました。私たちの人生でもこのことを覚えておきましょう。相手を変えようとするばかりの私たちです。でも本当は、自分が変わってゆくという姿の中に、イエス様の生き方があるのかもしれません。
この個所を通じて、私たちは自分と異なる他者と出会いを、神様の導きによる変化の機会と捉えることができるでしょう。イエス様がそうされたように、私たちもまた、神様の愛と変化に心を開きながら生きていきましょう。
私たちは今週も、実に様々な人がいる場所に派遣されてゆきます。私たちはただ相手を変えるために派遣されるのではありません。私たちは出会いによって、私たち自身が変わることを期待され、派遣されてゆくのです。お祈りいたします。