「翔んで、ガリラヤ」マタイ4章12~16節

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

マタイによる福音書4章15~16節

 

2015年に「翔んで、埼玉」というコメディー映画が大ヒットしました。東京の人々から「ダさいたま」と差別され、見下されていた埼玉県人が解放を勝ち取っていく、笑いと涙のあふれるストーリーです。

今も昔もいつの時代も人々は地域に優劣をつけようとします。ガリラヤ地方は人種・文化・宗教の混合した土地でした。そして山から流れる豊富な水で農業が盛んな地域でした。人々は訛りが強かったと言われています。エルサレムの人々はガリラヤに対して訛りの強い、農村地帯のド田舎という印象を持ち、見下されていました。イエス様はそのような場所で育ったのです。

マタイ4章15節にもあるとおり、イエス様の活動は中心地エルサレムから見てはるかかなたの場所から始まりました。16節では、ガリラヤの人々は暗闇に住む民と呼ばれています。ガリラヤはいつも見過ごされ、忘れられてしまう場所でした。イエス様はそのような場所に光を当てるために活動を始めました。光り輝く神殿のある、エルサレムではなく、日のあたらないガリラヤから活動をはじめたのです。

16節ではさらにガリラヤの人々は死の陰の地に住む民と呼ばれます。辺境の地ガリラヤに住む人々は、いつも見捨てられ、見殺しにされ、見下され、様々な国々に支配されてきました。イエス様は、その死の陰の地に住むガリラヤの人々に、光となったのです。イエス様は太陽が昇るように、夜が明ける様に、人々に現れたのです。

イエス様が見下されたガリラヤの地で宣教を始めた事、このことの意味を私たちはもう少し心に留めた方が良いかもしれません。クリスマスと、イエス様がガリラヤから宣教を始めたことの共通点は、メシアに似つかわしくない場所で人生と活動が始まるということです。それは明るく、光輝く場所からスタートしたのではないということ、人間の期待とは大きくかけ離れたところから始まったのです。

でも信仰とはそのようなものです。光り輝く奇跡から始まる信仰は多くありません。信仰は暗闇、良いことが一つもない、そのような時や場所から始まるものです。信仰とは自分自身の目をむけたくない場所が光で照らされるように信仰が始まるのです。私たち共同体の信仰もそうです。私たちは信仰を、思いもよらない人、場所から教わるものです。イエス様の光は苦しんでいる人、逆境の人、行きづまっている人、見下されるような人から訪れるのです。

イエス様は復活の後、ガリラヤでまた会おうと言われます。ガリラヤは復活のイエスと出会い、弟子たちの信仰の再スタートの場所にもなりました。失意の中で再び信仰に立つ場所になりました。信仰はガリラヤで始まり、失敗し、再びガリラヤでスタートするのです。そのようにしていつも信仰は、人々の注目の集まる中心ではなく周縁から、高みからではなく、低みからスタートするのです。お祈りします。