みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしてゆきましょう。
キリスト教では牧師を目指すことを献身(けんしん)と呼びます。それはキリスト教の中で特に美しく、とても喜ばしい決断だとされています。私がこの献身をする時に何回か言われた言葉が印象に残っています。それは「これまでのことは捨てて、神様に従いなさい」という言葉でした。確かに牧師になるにあたって私は、多くの人が持っているものや、目指していることを捨てたかもしれません。同世代の仲間と比べると、出世や収入や住宅ローンとは縁遠くなったでしょう。神様に向けてこれまでとは違う人生を歩み出すことは、たくさんのことを捨てるような気になります。
でも私は神様に従うとは必ずしも何かを捨てることではないと感じています。私自身が神様に従ったとき、すべてを捨てて従ったわけではないのです。当然ですが私は家族も貯金も持ち物も経験もすべてを持ったまま牧師になりました。ほとんど今までのものを捨てずに献身をしたのです。でも献身というとやはり何かを捨てることだというイメージがあるようです。私は献身において、捨てる事が美化されすぎていると感じています。私はお寿司屋さんから牧師に転職をしました。もう魚をさばく経験は必要ないと思いました。しかし神様は、それを子ども食堂で用いてくださいました。私がもう使わない、捨てていいと思ったことでさえ、神様は用いて下さっています。それが私の献身です。捨てたものがあまりない献身です。
確かに私の心の中には、捨てるべきものはまだまだたくさんあるでしょう。でも私は何かを捨てるために献身をしたのでありません。むしろ得るために献身をしています。神様の恵みをもっと得るために、欲張って献身をしています。私は神様に従うこと=捨てることではないと思いますし、そのようなイメージを変えゆきたいと思っています。
教会に集うみなさんはどうでしょうか?礼拝に出席する、出席し続けることも神様に従う献身です。献身は牧師だけのものではありません。礼拝出席も立派な献身です。今日、礼拝に集う皆さんにはいろいろな事情があったでしょう。体調や時間、家族との関係、いろいろな事情があるものです。でも例えば今日みなさんは、家族を捨てて礼拝に来たわけではありません。
夫から『俺と教会とどっちが大事なんだ』と言われることがあるかもしれません。しかし私たちは家族を捨てて礼拝に来たのではありません。むしろ家族との関係をより良くするために礼拝に集っているのです。夫は自分が捨てられたように感じるのでしょう。でも私たちは夫を捨てて礼拝しているのではありません。私たちは今日、家にいる家族と新しい関係を願って礼拝をしているのです。家族を捨てるためではなく、家族をもっと愛するために。もっと一週間を頑張れるように、今日ここで礼拝しているのです。それが私たちの集まりです。
教会の存在も同じだと言えるでしょう。教会は社会との関係を断って存在をしているのではありません。世間の人からは、教会は社会と隔絶して存在をしているように見えるかもしれません。でも特に私たちの教会はそうではありません。私たちの教会は社会との深い関係を望んでいます。新しい関係を望んでいます。社会の中で暮らす、様々な人と新しい関係にされることを願って、祈り、礼拝をしています。私たちは地域との関係を捨てて礼拝しているのではなく、いままでよりもっと深い関係を願って礼拝をしています。そのことが少しでも伝わったら嬉しいです。
きっと聖書は私たちに何かを捨てて、神に従う事、礼拝することを求めているのではないでしょう。聖書は私たちが大切にしているものを、大切にしたまま、新しい関係を求めて、神様に従うことを求めているのでしょう。私たちはそんな風に神様に従えないでしょうか。今大切にしているものを、大切にしたまま、もっと大切にしながら、神様に従うことができないでしょうか。そのことを考えたいと思います。今日も聖書を読みましょう。
今日はマタイによる福音書4章18~22節までをお読みいただきました。この個所には弟子たちがどのようにイエス様に従うようになったのかが書かれています。ある日、ペテロとアンデレは漁をしていたところ、突然イエス様が現れて「私について来なさい」と言われました。これはイエス様の招きです。私たちの信仰とは私たちの理解や決心を超えた、招きであることが書かれています。それはこの礼拝も同じです。遠くから車やバスで来ていても、一生懸命に自転車をこいで来ていても、神様に招かれて礼拝に集っています。私たちは神様に招かれて教会に来ているのです。
20節には「二人はすぐに網を捨てて従った」と書いてあります。網は漁師にとって、とても大切なものです。漁師は自分の網を人には触らせないと聞いたことがあります。網は漁師にとって自分の仕事や人生、生活を象徴するものです。聖書によれば弟子はそれをきっぱりと捨てたのです。この個所からでしょう、神様に従う時には、たくさんのもの、すべてのものを捨てなければならない、そう言われてきました。
しかし神様に従うとは本当に捨てることなのでしょうか。22節には、舟と父は残して行ったとあります。網は捨てたけど舟は捨てなかったのです。あげあしを取るようですが、舟の方が価値は大きいはずです。なぜ舟は捨てなかったのでしょうか。
実は20節の「捨てる」と22節の「残す」は、どちらも同じギリシャ語で『ἀφίημι(アフィエイミー)』という言葉です。この言葉は新約聖書に150回ほど登場するよく使われる言葉です。この言葉は「捨てる」という意味と「残す」という意味の両方を持ちます。さらにそれ以外にも「赦す」「そのままにしておく」という意味もあります。
ですから「網を捨てた」そして「舟と父を捨てた」とも訳すことができ、そう翻訳しているものもあります。しかしこの「親を捨てる」という翻訳はさすがにひどいでしょう。おそらく翻訳の上でもそう考えて、網を捨てて、舟と家族を残したと翻訳をしたのでしょう。
本来の翻訳の幅を考えれば、網も捨てずに残して従った、舟と父をそのまま残して従ったとも訳すことができます。無理に大切なものを捨てたと訳す必要はありません。網と舟と父をそのまま残して、そしてもちろんまた帰って来るつもりで従ったのです。私は「網も舟も父もそのまま残して従った」そのような翻訳がよいと思っています。
もちろん私には捨てなくてはいけないものがたくさんあります。私の中にある悪い思い、罪、ゆがんだ欲望を捨て去る必要があります。しかし私たちは大切にしているものまで捨てる必要はありません。家族やこれまでの人間関係を大切にすることはイエス様の教えでもあります。自分の大切にしていることを大切にし続けてよいのです。キリスト教の信仰はただ捨てるばかりではありません。神様はそれを「大切に取っておきなさい」と言っています。大切にとっておいて、一時的にそれをそのまま残しておいて、そして私たちは神様に従うのです。聖書から私たちの献身をそのように理解することができます。
この礼拝という献身がまさにそうでしょう。私たちは家族や仕事あらゆるものとの関係を捨てて、礼拝に来たのではありません。私たちは家族や友人や職場での新しい関係を願って、でも今日はそれを残して、今日この礼拝に集ったのです。私たちは決してそれを捨ててはいません。
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