「難民だったイエス」マタイ2章13~23節

「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」

マタイによる福音書2章14~15節

 

国連の統計によれば、紛争や気候変動により故郷を追われた難民は1億2000万人に達し12年連続で過去最高を更新しています。難民の40%がこどもです。この数字の一人一人の人生に数えきれない悲劇があったはずです。日本は難民に厳しい国です。私たちは文化や経済の違いを超えて、難民を受け入れ、共存できる国になりたいと思います。この世界のどこで神様を見つけたら良いのでしょうか。今日は、神様は悲しみの中に居る人と、また戦火を逃れてきた人と共にいるということ、神様は困難に追われ苦しむ人と共にいることをみてゆきます。

暴力で奪った権力は暴力でしか守ることができません。ヘロデは自分の地位を狙っている者は親族でも容赦なく殺してゆきました。ヘロデの権力への執着は、こどもたちに対しても向けらます。この権力者は、自己保身の王であり、暴力的な王でした。人々の求めた救いとは平和であり、こどもたちを含めたすべての命が守られていくことでした。そのような場所に救い主イエス・キリストは生まれたのです。

イエス様の誕生は軍事的指導者、自己保身、暴力に象徴されるヘロデとは対極的なものでした。イエス様は強大な力に対して、力のない無力な姿でこの地上に生まれました。イエス様は逃げることを選びました。その姿は現代の難民と同じ姿です。多くのこどもが殺されました。その中でイエス様は生き残りました。イエス様は虐殺生存者という意味でサバイバーです。難民、虐殺からのサバイバーであった彼が平和を語ることには大きな重みがあったはずです。そしてイエス様は復讐ではなく、敵と思えるような相手を愛するようにと教えて歩いたのです。この物語はイエス様が平和をどれだけ大切に思っているのかということを示しています。

そして同時にこの物語は、私たちはこの世界でどこに神様を見出したらよいのかという答えにもなっています。私たちの神様は苦しむ者と共におられるのです。神様は難民の姿でこの地上を生きたのです。神様は苦しみのただなかに生まれて来られたのです。そのような場所に私たちは神様を見出すことができるのです。

私たちの心の内側にも向き合いましょう。きっと私たちは自分の心の中にもヘロデを見つけることができるでしょう。誰にでも自分の思い通りにしようと強引になることがあるものです。それをキリスト教では罪と呼びます。私たちは全員そのような罪をもった罪人です。この世界、この私の中にヘロデがいます。この物語は、この世界の、この私の罪に気づくように訴えています。

現代の難民とかつての難民イエス・キリストの両方に目を留める時、私たちは神様を見つけることができるでしょう。そして平和を実現してゆく者へと変えられてゆくでしょう。小さな命が世界を変えていったように、私たちの小さくても互いのためにすること、小さくても愛を伝えてゆくこと、それが世界を変えてゆくはずです。お祈りいたします。