みなさん、おはようございます。今日もこうしてクリスマス礼拝を共にお献げできること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声、命の声に囲まれながら、共に礼拝をしましょう。
みなさんもきっとそうだと思いますが、この後の食事会を楽しみにしています。私たちはこの後の持ち寄りの食事会を愛餐会(あいさんかい)と呼んでいます。これは互いを思う、愛を確かめ合う食事会です。
いろいろな人がいろいろなメニューを持ってきています。この食事会が楽しいのは、色とりどりのメニューが同時にテーブルの上に並ぶことです。この食事会は一人一人が違うものを持ち寄って集まることが大事だからです。もちろん時々かぶってしまうこともありますが、それは似ていても、ひとつとして同じものがない、違う味です。そしてこの愛餐会は食べながら、あなたの作ったものがおいしいと言い合う会でもあります。みんながお互いの笑顔を想像しながら作りました。誰かのことを思って何かを準備する、これが愛ではないでしょうか。これが愛餐会です。愛餐会は一品では、一人ではできない集まりです。みんながみんなを思い合って集まり、分かち合うことが愛になるのです。
私たちは愛し合うということを難しく考えすぎているかもしれません。愛し合うということは、この食事のようなことです。誰かを思って準備すること、ひとりひとりの違いが大事であること、分かち合うこと、お互いのことをお腹の中に迎え入れ、受け入れ、ほめ合うということ、それが愛なのです。相手を私たちのお腹、心に迎え入れることが愛なのです。愛餐会は料理を通じてお互いを迎え入れる象徴です。それは教会の本質とも言えるでしょう。何も持って来ていない人もどうぞ、食べて帰ってください。私たちはそれぞれ、互いの違いを大切に思い、お腹で受け止め、心でそれを受け入れてゆきます。その時私たちは楽しさを覚えるのです。料理の中には食べた事のないもの、苦手なものもあるでしょう。無理に食べる必要はありませんが、チャレンジするともしかしたらおいしいかもしれません。ぜひいろいろな物を食べて、いろいろなものを受け止めて欲しいと思います。
私たちの教会は今年、実に様々な人を迎え入れました。礼拝だけではなく、こども食堂やカフェ、こどもの行事やテレビの撮影もありました。たくさんの方が来てくれることは嬉しいことです。私たちの教会では、いつもどの集会もだれでも来ていいのだということをアピールしています。教会は信じている人、ちゃんとした人、礼拝する人だけが来る場所ではありません。毎週集う人のためだけの場所でもありません。いろいろな人が、いろいろな気持ちを持ち寄って集まるのが教会です。教会には嬉しい人、悲しい人、泣いている人、笑っている人が来ます。キリスト教を信じている人も疑っている人もいます。ドラマに出た場所を見たくて来たい人もいます。学校のレポートの課題で来た人もいます。その気持ちはまるで愛餐会の料理のように色とりどりです。でも教会とはそのようにいろいろな人を迎え入れる場所なのです。教会は愛餐会のテーブルに様々な料理が並ぶように、様々な人を迎え入れてゆく場所なのです。
教会は、着飾ったり、背伸びしたりする場所ではなく、素直な自分でいられる場所であって欲しいと思っています。この人たちの前だったら正直でいいかなと思える教会になりたいのです。ここだったら自分の傷を見せても笑われないと思われる場所でありたいです。ここなら自分と向き合えると思える、教会はそういう場所でありたいです。このあとの楽しい食事の前に聖書の話をします。聖書から愛を聞きます。今日は聖書からお互いを受け入れ合うことを考えたいと思います。聖書を読みましょう。
マタイによる福音書1章18~25節までをお読みいただきました。ヨセフという人に注目をします。ヨセフには結婚の約束した相手マリアがいました。しかしヨセフは婚約者マリアが自分以外の人のこどもを妊娠したと聞きました。ヨセフは当然、縁を切ろうと思いました。婚約を破棄しようと思ったのです。しかし天使が現れて「その妊娠は聖霊によるものだ」ということを聞きます。それは不思議な出来事でした。そして天使はこういったのです「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」。なんということでしょうか。それを受け入れ、迎え入れることとはどんな困難なことでしょうか。
ヨセフは正しい人だったとあります。ヨセフは正しい人だからこれを迎え入れることができたのです。正しい人とはどんな人のことでしょうか。聖書の正しさとは「正義」や「義」とも表現されます。聖書の正義とは何でしょうか。我々の思う正義ならすぐにイメージできるでしょう。それは正義の味方というイメージです。正義の味方は悪い事をした人に、罰を与え、やっつけます。悪者にぎゃふんと言わせてやるが正義です。悪への鉄槌が正義です。私たちの正義、この正しさによれば、マリアは罰、制裁を受けるべき存在でしょう。当時、不貞の罪は死罪の可能性もありました。私たち人間の正しさによれば、マリアが罰を受けるはずだったのです。
しかしヨセフはそうしませんでした。ヨセフは正しい人、正義の人でした。実は聖書の「正義」「正しい」には、私たちのイメージする罰を与えるという意味はありません。聖書の「正義」「正しい」という言葉は公平とも似ている言葉です。貧しくされている人や、立場が弱い人が守られるという意味です。貧しくされている人や、立場が弱い人が守られることが正義、正しいことなのです。
ヨセフがどうして、このことを受け入れようと思ったのか、それはもしかするとヨセフは第一にお腹のこどもを守るということを考えたのかもしれません。いろいろな事情があったでしょう。しかしお腹のこどもには何の責任もないことです。ヨセフはきっとお腹のこどもを第一に考え、守ろうとしました。ヨセフは大人の都合で殺されてしまう小さな命を守ろうとしたのです。ヨセフがまず守ろうとしたのは、お腹の子どもの命です。それが神様の目に正しいことだったのです。ヨセフはこのような意味で正しい人でした。神様の正義に目を向け行動をしました。ヨセフは正しく、正義の人だったからこそ、立場の弱い、こども命に目を向けました。
天使の告知も信じたでしょうか。ヨセフはマリアのことも信じ、守ろうとしました。それが正しいことだと思ったのです。こどもの命とマリアを守ることが正義だとおもったのです。「恐れず、迎え入れなさい」という恐ろしい言葉を受けて、それを決心しました。その決心が愛を教えるイエス様を育んだのです。それによってイエスは生まれることができました。ヨセフが受け入れがたい事実を受け入れる、迎え入れる決断によって、救い主は生まれたのです。ヨセフのように立場の弱い人を守ろうとすること、そのひとを受け止め、迎え入れてゆくこと、それが神様にとっての正義でした。そしてその正義によって、イエス・キリストは地上に生まれたのです。
ヨセフがこのようにこどもとマリアを受け入れ、迎え入れた様子を見て、果たして私はそのように、他者を迎え入れる存在になっているだろうかと思いました。私は他者に、人間の正義を振りかざして、拒絶していないか、無関心になっていないかと思わされます。自分の正義ばかりを振りかざし、彼のようには他者を受け入れられない自分を見つけます。
私たちのこの教会はどうでしょうか?様々な気持ちや状況に置かれた人がこの教会に集います。それを迎え入れることが出来ているでしょうか。私たちの教会もヨセフの様に、様々な事情をもった人を迎え入れることができる教会になりたいと感じます。教会は信じている人だけのものではありません。教会は地域の食堂だけでもありません。教会はさまざまなメニューがテーブルの上に並ぶ愛餐会のように、様々な人が同時に集まります。みんな違うから良いのです。
そしてそれは品評会ではありません。互いを受け入れ、迎え入れ、ほめ合う食事会です。そのような教会になりたいと思います。さまざまな人々が集まれば、いろいろな衝突が起きますが、私たちはその出会いを恐れずに、お互いを迎え入れあいたいのです。たくさんの人がいて、出会いがあれば苦手があるかもしれませんが、それでも互いを迎え入れ、互いを受け入れ、互いを大切にしあう仲間となりたいと思っています。
きっと天使は教会にもこういうでしょう「恐れず、迎え入れなさい」。この声を聞き、私たちの教会はお互いを迎え入れあってゆきましょう。もちろん私たち一人一人の生活の場所でもそうです。様々な価値観があります。それを受け入れ合ってゆきましょう。世の中の正義に振り回されず、聖書の正義・他者を守るという正義に生きてゆきましょう。
この個所から神様と私たちの人生の関係も考えます。私たちの人生には驚くことや苦労が起きるものです。でも神様は私たちにそれを迎え入れるように言っています。私たちにそれから逃げ出さずに向き合う様に言っているのです。そして私たちが異なる他者を恐れずに受け止める事、迎え入れる事も勧めています。神様の正義、小さい命を守ることを神様は私たちに期待しているのです。
そして何よりまず神様が先に私たちのことをも受け入れ、迎え入れ、愛してくれているのでしょう。神様は私たちが誰か、何かを迎え入れるよりも何倍も温かく、私たちを受け入れて下さっているのでしょう。神様は私たちをそのように愛してくださっているのです。神様とはそのような方です。私たちはこの神様を信じ、愛し合い、迎え入れあいましょう。お祈りいたします。