「恐れず、迎え入れなさい」マタイ1章18~25節

主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。

マタイによる福音書1章20節

 

この後の持ち寄りの食事会、愛餐会(あいさんかい)を楽しみにしています。愛し合うということは、この食事のようなことです。誰かを思って準備すること、ひとりひとりの違いが大事であること、分かち合うこと、お互いのことをお腹の中に迎え入れ、受け入れ、ほめ合うということ、それが愛なのです。愛餐会は料理を通じてお互いを迎え入れる象徴です。それは教会の本質です。

私たちの教会は今年、様々な人を迎え入れました。いろいろな人が、いろいろな気持ちを持ち寄って集まるのが教会です。教会は愛餐会のテーブルに様々な料理が並ぶように、様々な人を迎え入れてゆく場所です。教会は、着飾ったり、背伸びしたりする場所ではなく、素直な自分でいられる場所であって欲しいと思っています。

楽しい食事の前に聖書から愛を聞きます。今日は聖書からお互いを受け入れ合うことを考えましょう。

ヨセフは婚約者マリアが自分以外の人のこどもを妊娠したと聞き、縁を切ろうと思いました。しかし天使が現れて、こう言ったのです「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」。ヨセフは正しい人・正義の人だからこれを受け入れました。正しいとは何でしょうか?我々の思う正義は悪い事をした人に罰を与える、悪への鉄槌が正義です。しかし聖書の「正義」「正しい」には、私たちのイメージする罰を与えるという意味ではなく、貧しくされている人や、立場が弱い人が守られるという意味です。。

もしかするとヨセフは第一にお腹のこどもを守るということを考えたのかもしれません。それが神様の目に正しいことだったのです。ヨセフは正しく、正義の人だったからこそ、立場の弱い、こども命に目を向けました。そしてヨセフはマリアのことも信じ、守ろうとしました。それが正しいことだと思ったのです。

ヨセフがこのようにこどもとマリアを受け入れ、迎え入れた様子を見て、果たして私はそのように、他者を迎え入れる存在になっているだろうかと思いました。自分の正義ばかりを振りかざし、彼のようには他者を受け入れられない自分を見つけます。私たちのこの教会はどうでしょうか?私たちの教会もヨセフの様に、様々な気持ちをもった人を迎え入れることができる教会になりたいと感じます。さまざまな人々が集まれば、いろいろな衝突が起きますが、私たちはその出会いを恐れずに、お互いを迎え入れあいたいのです。きっと聖霊は教会にもこういうでしょう「恐れず、迎え入れなさい」。この声を聞き、私たちの教会はお互いを迎え入れあってゆきましょう。

私たちの人生には驚くことや苦労が起きるものです。でも神様は私たちにそれを迎え入れるように、向き合う様に言っているのです。そして何よりまず神様が先に私たちのことをも受け入れ、迎え入れ、愛してくれているのでしょう。私たちはこの神様を信じ、愛し合い、迎え入れあいましょう。お祈りいたします。