この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
マタイによる福音書13章55節
今日も共に礼拝できること主に感謝します。クリスマスまでの日付を数えています。ここ平塚市豊原町の人口は約1000人ほどだそうです。豊原町内会は小さな町内会ですが、まだ地域の触れ合いが残る良い町です。このくらいの人数がなんとなく顔が分かってちょうどよいものです。小さい頃から平塚・豊原町で育った人々は、驚くほど地域の人ことをよく知っています。それは長年の交流が積み重ねなのでしょう。この町は人と人との距離感がとても近く、温かい場所です。
なんでも聖書の時代と重ね合わせてしまいます。考古学的な発掘によればナザレは500人以下の村だったと推測されています。ナザレは町内会ほどの小さな村だったのです。村の家は集合住宅で、数家族が住む長屋が多くあったそうです。イエス様はこのナザレで育ちました。ナザレの人は神秘的なクリスマス物語について、何も知らないようです。イエス様は普通の男の子、小さい村の近所のこどものひとりだったのです。長屋の子どもでした。
ナザレの人々は、自分たちの村、まるで小さな町内会のようなコミュニティから、世界を救う宗教指導者が生まれることを想像できなかったのでしょう。ナザレの住民の反応は容易に想像できます。イエス様が駆け回っていたナザレ村の広場に、大人になったイエス様の姿があります。イエス様はそのような距離感で一緒に暮らした人々に現れました。だから57節にもあるように「人々はイエスにつまずいた」のです。受け入れられなかったのです。なぜなら距離感が近すぎるからです。
これはナザレだけでおきた反応ではありません。この反応は他の地域での先取りとして起きています。もしかして私たちがそこに居たら「あなたが救い主のはずがない」と他の人々と共に怒ったかもしれません。そんなうそつきは十字架に掛けろと一緒に叫んだかもしれません。さらに復活のその後まで見通すと、イエス様は復活の後、ガリラヤに行くと言います。やはりまたガリラヤなのです。
この物語は、私たちにとって神様とはどのような方なのかを示唆しています。それはつまり、神様とは私たちにとって近すぎるくらい、近いお方であるということです。まだ私には神様なんて来ない、こんな私に神様なんて来ない、そう思っている方は注意が必要です。そう思う人の心に神様はもうすでに近すぎるほどに来ているのです。神様は私たちのイメージを超える場所と、時間に現れるお方です。
その距離感も私たちの心に近すぎるくらい近くにすでにいるのです。ここではない、今ではない、私ではないと思う場所にこそ、神様は現れるのです。
クリスマスをそのことを感じながら迎えてゆきましょう。私たちのすぐ近くに神様がいます。それを私たちの普段の生活の中で感じ取ることができるでしょうか。私たちが見過ごしてしまいそうな場所に神様がいいます。私たちはきっとその存在を見つけることができるはずです。お祈りをいたします。