【全文】「その配慮が神」マタイ6章1~4節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝いたします。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。

今日は地域活動と福音について考える最後の回です。これまで私たちの取り組んでいるこども食堂から見えてくる福音について考えてきました。今日もこの視点から聖書を読んでゆきたいと思います。

こども食堂には100名以上のボランティアさんが参加してくださっています。参加の前のオリエンテーションとして教会のことや、こども食堂の活動の趣旨について30分くらいの説明をしています。ボランティアを希望する人のほとんどが、初めて教会に来たという方たちです。この説明はこども食堂のことだけではなく、キリスト教を紹介する機会、福音宣教の機会にもなっています。ボランティアの方への説明の中で、一番丁寧に説明をしているのは、私たちのこども食堂は貧しい人専用の食堂ではないということです。私たちの食堂は貧しい人が集まっているという雰囲気にしたくないのだという説明に時間を割いています。

もちろん私たちはまず食事をするのにも困る、貧しい人にこの食事が届いたらよいと思っています。しかしもし私たちが貧しい人は、どうぞ集まって下さいと言ったとしたら、おそらく私たちの食堂には誰も来ないでしょう。

誰でも貧しい人の集まる場所に自分が行くという行為は、大変大きな抵抗感があります。自分の尊厳が打ち砕かれるような気がするものです。貧しい人は来て下さいという言葉は、かえって相手を「自分はまだ人様のやっかいになるほど落ちぶれてはいない」「私はそんな場所には絶対に行きたくない」という気持ちにさせるものです。それではかえって食事を必要としている人に届きません。この食事が貧しい人に届けばよいと思っているからこそ私たちはこの食堂を貧しい人専用にしないことを大事にします。明るく、楽しく、誰でも利用できる雰囲気だからこそ、いろいろな人がたくさん来て、その中の一部に困っている人が利用できるのです。

そしてさらにそもそも人の困りごととは多様なものです。経済的な困窮だけではなく、子育ての行き詰まり、日常の寂しさなどがあります。そのさまざまな困りごとのためにこども食堂を使ってもらっていいと思っています。

このような説明をボランティアを始める方にしています。この説明を事前にしないとボランティアの方から「なんだここは。困ってそうな人が一人も来ていないじゃないか」と誤解されてしまうからです。私たちはもちろん貧困の解消に強い関心を寄せてこの食堂をしていますが、だからこそその人たちのためだけにしない工夫が必要です。いろいろな人が、いろいろな課題がありながらも、それを表にせず、楽しく集うことができる、そこに私たちの食堂の良さがあります。

本当に困っている人が来ているのかという批判もありますが、知りません。これだけ楽しく集まっているのだから、きっとみんなの何かを埋めているはずです。みんなの心の穴を埋めているでしょう。お財布の穴を埋めているでしょう。利用者自身が何を埋められているのか気付かないくらいがちょうどよいのです。そのようにして教会はみんなの一部になっています。

この考え方は聖書の教えとも重なると思っています。今日は、イエス様が困っている人と出会う時、どうすればよいかを教えている箇所を読みます。一緒に聖書を読みましょう。

今日はマタイによる福音書6章1~4節をお読みいただきました。イエス様の時代にも、多くの生活困窮者がいました。私たちが高い税金に苦しんでいる様に、当時の人々も高い税金に苦しみ、貧しい人がたくさんいました。特に聖書にはやもめ、いまでいう単身女性、シングルマザーが経済的に貧しい状況に追いやられたことを記しています。これも現代と同じです。人々は苦しんでいました。

そのような時代、ユダヤの人々には助け合いを大切にする文化がありました。おそらく今よりも助けられることを「ありがたい」とか「めずらしく、希なこと」ととらえることはなかったでしょう。自分たちは助けあって当然である、助けることと助けられることが当たり前の日常だったからです。日本にもかつてはそのような文化があったでしょう。今は失われつつあります。

ユダヤでは助け合うという機会が多かったからこそ、助け合いに関するトラブル、助け合いの悪用も多くありました。そして助け合いの知恵もありました。今日イエス様は助け合いにおいて一番してはいけないことと知恵を教えています。内容を見てゆきましょう。

イエス様は貧しい人に対して、人前で支援を行う事を禁止しました。人を助けるのに、わざわざ人の目に着くところでする、ラッパを鳴らして、目立つように良い事するということを、一番してはいけないことだと教えたのです。それは貧しい人を利用した、自己顕示であり、お金で周囲から良い評価を買おうとする、偽善の行為です。イエス様はそれを善い行いではないと言いました。そのような行為をするのは偽善者だと言いました。それは本当にそうだと思います。

そして今日はもう一歩踏み込んで、この個所を読んでみたいと思います。こども食堂の経験から読んでゆきます。この個所を貧しい人の立場、善行を施される側の立場に立って読みたいと思います。

ある日、貧しい自分を助けてくれるという人が現れました。その人は私がボロボロの服を着ていたから貧しいと分かったのでしょうか?本当は身なりだけでも、みんなと同じでいたいものですが、もはやそれもできないほど、貧しかったのです。本当は人を助ける側に回りたいけれど、今は恥も外聞も捨てて、この人に助けを求めるしかないようです。

自分を助けてくれるという人は、私を人が集まる街角や、会堂に連れていこうとします。そこではラッパの音が響きます。みんなの注目が集まります。そしてみんなの前でまるで表彰状の贈呈式のように、施しを渡されます。助けを受けた人はみんなの前で、その人に大げさに感謝の言葉を言わねばならない雰囲気が充満します。あなたは命の恩人だ、一生この御恩は忘れない、あなたは何て良い人なのだと言わねばならないのです。そのような施しを誰が受けたいと思うでしょうか。そのような方法で本当に困った人が助けを受け取るでしょうか?私だったらどんなに困っていても、私の尊厳を奪う、そのような支援は受け取りたくありません。

イエス様はそのように人の前で支援をしようとする人に言いました「はっきり言って、そういう支援をする人は残念です」と。そしてイエス様は、良い事をするときは、自分の右の手のことが左の手にわからないくらい、周りに絶対に知られないように、助けるべきだと教えています。イエス様は手助けをする際は他の人に悟られることなく、手助けをするようにと言っているのです。イエス様の教えには手助けをする前提に、相手の尊厳に対する配慮があります。この話はただ、自己満足な支援をするなという教えにとどまっていません。イエス様は相手の尊厳への配慮があって、初めて手助けにつながるのではないかということを、ここで投げかけています。人前で手助けをし、相手の尊厳を貶めてしまっては、本当の手助けにつながらないのだと言っているのです。

この話にはイエス様のそのような考えも含まれたでしょう。この話は、私たちの生きる上で大切なことを教えています。それは誰かに手助けをするときは、相手への配慮と相手の尊厳を何よりも大切にすべきであるという教えです。相手への配慮と尊厳を大切にし、他の人にわからないように、自分の左手にもわからないくらい、配慮をしてその支援を行うべきだということです。そうでないと善い行いは成立しないのです。この言葉はそのような知恵を私たちに教えてくれています。こども食堂が貧しい人専用でなく、明るい雰囲気で行われることはここにルーツがあるでしょう。

さて、この教えを私たちの内面にもっと広げて考えてみましょう。神様は私たちにも良い物を備え、与えて下さるお方です。神様は私たちに何か良い物を下さる時、人々の目の前で、私たちに渡すようなお方ではありません。神様は良い物を下さる時、密かにそれを下さるのです。それはきっと人々の目の前で、ほら神様を信じていて良かったでしょと証明するような方法で与えられるものではありません。神様は福引が当たった時の様なベルを鳴らして人々の注目するような方法で、恵みを与えて下さるのではないのです。

神様は右手が左手のすることを知らないように、私たちにはひそかに良い物を下さるお方です。私たちが誰にも知られたくない心の中に、神様はそっと贈り物を下さるお方なのです。私たち一人一人の心の中に、他の誰にもわからないように、私たちにすばらしいものを下さるのです。私たち一人一人はそのような密かな恵みをいただいています。他の人が気づかない、もしかして私自身も気づかない恵みを頂いているのです。

今日はこの後クリスマスの飾りつけをします。教会をきらびやかにしてゆきます。でも本当に良い物は、私たちの心の誰にも知られない、知られたくない場所に、そっと神様から与えられてゆくのです。それが神様の配慮です。神様は、私たち一人ひとりの心にそっと寄り添い、密かな恵みを授けてくださいます。その配慮に倣い、私たちもまた、誰かの心にそっと寄り添う活動を続けたいと願っています。

私たちのこひつじ食堂も神様の配慮をこの地上で実現するそのような活動をとして続けてゆきたいと願っています。お祈りします。