みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。10月と11月は地域活動と福音というテーマで宣教をしています。先月、西南学院に訪問した際に、ある学生から一冊の本を教えてもらいました。それは稲垣久和の『閉鎖日本を変えるキリスト教 公共神学の提唱」という本でした。さっそく読んでみたのですが、大変興味深い内容でした。私たちの教会が取り組む『こひつじ食堂』や『こひつじひろば』『こひつじカフェ』で日々感じる思いを、この本では『公共神学』として明確に表現していました。今日はこの公共神学を紹介し、神様の愛の豊かさについて、そして私たちがどのようにその愛を広げてゆくべきかについて考えたいと思います。
この本では社会全体を『個人と集団』『自己と他者』という2つの軸で4つに分類しています。縦の軸は他者と自己、公と自己ともいえるでしょう。左上には行政や学校が位置づけられます。公的な集団で、社会全体の利益をもとめる集団です。一方左下は私的な集団です。主に企業や塾などが当てはまるでしょう。私的な集団として自己の利益を追求していきます。右上にいるのは他者や公が強いが、集団ではなく個人を対象にした共同体です。NPOや労働組合がここにあてはまるでしょう。最後の右下は公と反対の自己、そして個人の事柄の領域です。家族や教会がここに当てはまります。教会・信仰とは個人の自己の最も奥深くにあるものでしょう。教会は人の内面を専門としています。
そして最近、教会以外の他の3つのグループは垣根を超えて活動をしています。企業がNPOのようなことをしたり、NPOが企業のようなことをする場面があります。NPOが行政のような働きをすることが増えています。さらにそれぞれは専門を持ちながらも、他のグループと連携・協力をしています。それは単にどちらかが一方的に手伝っているのではなく、相互が協力することで、自分たちの専門分野をより発展させています。様々な形で垣根を超えること、連携することが始まっています。
一方、教会はどうでしょうか。この本の理解によれば教会は自己・個人という枠組みの中に居続けようとしています。他の領域に対して、この世的な事として垣根を越えようとしてきませんでした。他の領域と協力をしようともしませんでした。しかしこの本では、教会ももっと垣根を超えて他の領域に進出したらよいと言っています。その理由は他の領域に取り組むことで、教会の自分たちの専門分野がより発展していくからです。私たちの中心であり、専門であり、最も大切にしていることは内面のことです。でも私たちと違う領域に出会ってゆく、そこに進出することで教会はさらに発展することができると言っています。
私はこひつじ食堂がまさにそのような取り組みに位置づけられると思いました。こども食堂は本来NPOがすることかもしれません。でも私たちの教会がその活動に取り組むことで、他者と関わることで、福音と愛がさらに広がるのです。今まで教会が行かなかった領域で私たちの信仰・価値観が広がってゆくのです。著者は、日本の教会が抱える閉塞感を打開するには、各教会が他の領域に積極的に関わることが大切だと述べています。
そして著者は日本社会にキリスト教がなかなか浸透しないのは、クリスチャンの意識と信仰が内向きで、防御的過ぎることに問題があるのではないか?もっと教会は、他の領域で影響力を発揮してはどうか?と勧めています。
社会と教会は対立するものではありません。またまったく関係ないものでもありません。教会が「この世」と呼ぶ、自分たちと違う領域に様々な接点を持つことにチャレンジをすることで、私たちの福音と愛はますます広がっていくはずです。私たちの地域活動がまさにそれです。私たちはこれまでの教会の概念から、少しはみ出して活動をしています。でもそのことが福音と愛の広がりにつながっているのではないでしょうか?今日はこのように私たちは自分たちの領域をはみ出して、福音と愛を伝えようということ、世を愛そうということを一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。
今日はマタイ6章38~48節をお読みいただきました。イエス様が私たちに「敵を愛しなさい」と教えた箇所です。現代も古代も「隣人を愛し、敵を憎め」というのは社会の常識でしょうか。しかし聖書は旧約聖書からずっと敵を愛するように教えています。イエス様も新約聖書においてあらためて、そしてさらに発展的させて、敵と思える人にも愛を深めるように、私たちに教えています。それは敵を愛し、迫害するもののために祈りなさいと教えています。
私たちクリスチャンはこの教えの前にどのように生きているでしょうか?今までもしかしてこの世のこと、社会のことを、教会とは別のこととして、敵視してきたかもしれません。この世のことを、私の個人の内面や、自分の信仰とは関係ないものとしてきたかもしれません。でも今日イエス様は、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。イエス様は今日、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。つまり、私たちとは異なる社会の領域の人々に対しても愛をもって接するよう導いているのです。
もしかすると、反対にこの世の人々からは、私たちの領域以外からは、私たちのことが敵に思えることもあるかもしれません。統一教会をはじめとしたさまざまな宗教が、人の気持ちに付け込んで、お金を巻き上げています。宗教は怖い。平塚バプテスト教会も同じではないかと誤解され、敵視されているかもしれません。でも私たちは、教会のことを誤解している人、教会のことを知らない人を愛したいと願っています。きっとこのままだと、私たちが自分たちの領域から一歩踏み出さなければ、教会がその人と接点を持つことはまず無いでしょう。でも私たちが、私たちの方からその人が暮らす領域に出てゆきます、必要に応えてゆきます。そしてそのようにして出会う時、はじめて教会への誤解が解けたり、私たちの信仰を知ったりするようになるのです。福音と愛が伝わり始まるです。私たちはこの領域に飛び込んでくる人を待っているだけではいけないのです。
イエス様の活動はまさにそのような活動でした。イエス様は旅をしながら福音と愛を広げました。自分から相手を訪ねて歩きました。そして訪ねた先で今日の教えのように、イエス様は、神様はクリスチャンだけに恵みを与えるのではないと教えました。神様はクリスチャンだけを愛しているのではありません。イエス様は、誰にでも太陽が登るように、誰にでも雨が降るように、神様の愛はすべてのひとにあまねく注がれると教えたのです。それが神様の愛です。イエス様はそのように自分たちと違う人に福音を愛を伝えたのです。その教えは一般社会の教えとは大きく違うものでした。しかしその異質な教えが、人々の心に残ったのです。多くの人がその教えに共感をしたのです。
教会の中というのは、いろいろな問題がありながらも、多くの人が互いに愛し合っています。教会の人同士が愛し合うことは当然と言えるでしょう。仲間同士が愛し合うというのは誰でもしていることです。私たちに教えられていることは、教会の仲間だけでなく、他の領域に出て行って、そこでも他者を愛しなさいということです。教会の仲間を愛するように、その外の領域でも、他者を愛しなさいということです。
48節で私たちは完全なものとなるようにと言われています。それはもっと福音と愛が社会、世界に大きく広がるように、完全にゆきわたるようにせよという意味でしょう。私たちは教会の中だけで愛し合うだけではなく、私たちの愛を他の社会の領域にもっと広げてゆくようにと示されています。それこそが伝道と言えるのではないでしょうか。ですから、この世との関わり、私たちの地域への活動は教会にとって二次的な「おまけ」ではありません。私たちの中心である信仰をより広げてゆくために、私たちの自身の信仰をより豊かなものにするために、愛を広げるために必要な活動なのだと思います。
私たちが世に出る時、周囲とは違う独特の価値観を持っていることに、私たち自身が気づくでしょう。この世界では38節のような「目には目を、歯には歯を」という価値観が支持され、広がっています。でも私たちの正典は、それは間違っていると教えています。暴力に暴力で立ち向かうな、必要とする者には必要とする以上のものを与えよ、寄り添うべき人に徹底的に寄り添うようにと教えています。他者、地域の人々がこのような異質な価値観、愛と出会うとき、福音が伝わるのでしょう。私たちはこれからも地域への活動を教会の二次的な活動としてではなく、愛を広げるための活動として取り組んでゆきましょう。
そして、私たち一人一人が毎週置かれている場所のことも考えます。私たち自身も、もともと教会の中だけで生きているのではありません。教会から派遣されて、それぞれの場所で生きています。そこで皆さんはキリスト教の価値観に基づいて生きるでしょう。その時に様々な領域の人に出会うでしょう。そのようにして他者と出会う時に、福音と愛が広がってゆくのです。教会もそれと同じです。
私たちは教会の中で互いに愛し合いましょう。そしてこの愛を教会の外にも、違う領域にも広げてゆきましょう。その時、出会いがありイエス様の愛を伝えてゆくことになるのでしょう。お祈りをいたします。
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