みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝、召天者記念礼拝をもてること主に感謝します。お久しぶりの方も共に集うことができてうれしいです。私たちはこどもの声がする教会です。小さいこどもも一緒にこの礼拝をしたいと思っています。声や足音がするかもしれませんが、それも礼拝の一部です。小さな命を感じながら礼拝をしましょう。
今日は特に天に送った仲間たちを覚える召天者記念礼拝です。誰しも仲間を天に見送ったという経験があるでしょう。その寂しさは何年経っても変わらないものです。私たちはその別れの寂しさを抱えながら、思い出を抱えながら、引きずりながら生きています。そして時々、あの時もっと自分ができることがあったはずという思いも起こるものです。もう少し私が優しくできれば、もう少し最後くらい一緒にいれば、そのような後悔もあるかもしれません。その思いも一緒に、神様に礼拝をささげましょう。
私は写真の方々すべてを詳しく存じ上げているわけではありません。それぞれの方はどんな人生だったのでしょうか。皆さんの思い出を聞かせて下さい。中にはたくさん良い事をした人がいるでしょうか、大きな功績を残した人、表彰された人もいるでしょうか。あるいは誰かに頼り、誰かにお世話をされるばかりの人もいたでしょうか。亡くなった方々はいまどこでどのように過ごしているでしょうか。私は、キリスト教は良いことをした人は死んだ後に天国へ行く、悪いことをした人は死んだ後に地獄へ行くという宗教ではないと思っています。もしそうだとしたら神様はアウトかセーフかを判断するただの審判員です。キリスト教は良い人が天国、悪い人が地獄に行くその判断基準ではありません。人の長い一生は善悪のどちらかに振り分けることはできないものです。
では、人は死後どうなるのでしょうか。私は、神様はすべての魂をそのもとに迎え、安らぎを与えてくださると信じています。ですから、故人が苦しんでいるのではないかと心配する必要はありません。
キリスト教では死のさらに先に、復活するという信仰を持っています。もう一度生き返るという復活ではなく、死のさらに先にある出来事として、復活があります。復活とは神様がこの世界を完全なものにされる時、私たちも新しい命を受けるということです。いつの日か神様は国々を超えて、生と死をも超えて完全な平和を起こしてくださる時がきます。死んで天におられる方々にも、まだその先に希望の時が待っているのです。亡くなった方にも、今なお希望と新しい命が待っているのです。私たちにはそんなに先のこと、死後のことを想像するのは難しいかもしれません。でも天に召された方々は、次の希望を持っています。そのことを覚えておきましょう。
そしてやがて私たち自身も死を迎える時が来るでしょう。そのことを不安や恐ろしく思うかもしれません。でもその時は私たちの命と魂も同じ様に、神様が受け止めてくださる時です。地獄に行く、裁きにあうという心配はいりません。その時、私たちは神様のもとにある平安に向かってゆく時です。私たちはその最期の日まで精一杯生きてゆきましょう。
今日も聖書を読みましたが、この個所を読むとやはり良いことをした人は天国に行く、悪いことをした人は地獄に行くのではないかと思うかもしれません。しかしこの話は本当に死んだ後のことを語っている話でしょうか。この話にははっきりと死んだ後のことという前提がありません。いえむしろ、この話は生きている者に語り掛けている話です。今、どう生きるべきかを問いかけています。聖書のメッセージの中心は死後の裁きではありません。この話から私たちが考えるべきことは、地上に残された私たちがどのように生きるべきなのかということです。
故人を神様の元に見送った私たちは、どう生きるべきなかこの話から考えましょう。私たちは天に見送った方が神様の元に安らかにいることを信頼し、そしてこの話から、残された私たちが、残された人生をこの地上でどのように生きるべきなのかを考えたいと思います。この話を、神様から地上の私たちに送られた、励ましとして受け取って読んでゆきましょう。聖書を読んでゆきます。
今日はマタイによる福音書25章31節~46節までをお読みしました。物語をもう一度見ましょう。ある時、一人の王様がいました。王様は右側にいた人に国全体に値するほどの良い物を与えようとしています。なぜなら困っていた時に私を助けてくれたからだと言います。右側の人々は驚きました。そうです、王様はこれまで生活に困ったことなどなかったからです。だからこそ助けたことがないと思ったのです。王様は何不自由ない生活を送っていたはずです。助ける必要は全くありませんでした。食べ物が無くて困っている時などありませんでした。しかしそこで王様は「最も小さいあの人にしたことは、私にしたことと同じだ」と言いました。私ではなく、あの人にやさしくしたことは、私にやさしくしたことと同じだと言ったのです。
そして反対の話も出てきます。王様の左側にいた人への話です。左側の人には何か悪いものが与えられようとしています。王様はあなたたちは私が困っている時に助けてくれなかったと言います。左側の人々も驚いたはずです。彼らは王様に一生懸命仕えていました。王様がのどが渇いたと言えば一目散に水を届けてきました。食事も着替えもすべてお世話をしてきたのです。しかし、王様はそこで「もっとも小さいあの人にしなかったことは私にしなかったのと同じだ」言います。私ではなく、あの人にやさしくしなかったことが、私にやさしくしなかったことと同じだと言ったのです。
この話は私たちの生き方について語られているものです。右側の人も左側の人も王様になら仕えて当然だと思ったでしょう。誰もが一生懸命、王様のお世話をしたのでしょう。おそらくそれは自分にも跳ね返ってくるからです。どちらの人も王様の世話は、自分の処遇や身分のために、抜かりなくしたはずです。しかし右側の人と、左側の人で大きく違ったことがありました。それは王様以外の人々への態度でした。王様は自分に従うことは当然であり、自分以外の人々への態度を問題にしたのです。王様は人々がもっとも小さい者へどのように接しているのかを厳しく見ていたのです。
「もっとも小さい者」とはどんな人のことでしょうか。体が小さな子どもたちとも読めるでしょう。小さいこどもに、どのように接しているかと言われています。また助けを必要としている人や社会的に弱い立場に置かれた人々とも読めるでしょう。小さい人というよりも、小さくされている人と理解した方がよいかもしれません。ゆがんだ社会構造の中で、自分らしく生きることが出来ない人ともいえるでしょう。生きづらさを感じるような人も含まれるでしょう。きついお仕事を続けている人や、体や体調が思うようにいかない人も含まれるでしょう。私たちは本当に様々な場所で、小さくされている人と出会うはずです。
私たちはそのような人々への接し方で、死後に天国に行くか、地獄に行くかが決まるわけではありません。聖書はそのような天国と地獄を伝えようとしているのではありません。聖書の中心は、神様は私たちがそのような小さくされた人にどのように接しているのかを、厳しく見ておられるということです。
私たちの命は地上の生涯を終えた後、必ず神様が安らぎの中で受け止めてられてゆきます。それはどんな人生を送ったとしても恵みとして与えられます。だから私たちは安心しましょう。そしてそれと同時に、神様はこの地上に残された私たちに、最も小さいものに目を注ぎ、生きてゆくようにと言っています。
これは地上に残された私たちへのメッセージです。神様は、あなたたちはこの地上の残された人生で、小さい者・小さくされた者に目を向けてゆきなさいとおっしゃっています。私たちが良い事をするのは、決して私たちが天国に行くため、自分の死後のためではありません。私たちはどんな人生を送っても必ず、神様が一方的な愛で私たちは受け止めてくださいます。私たちに全員に神様からのその約束と恵み、愛があります。
そして神様は私たちを愛すると同時に、私たちにも他者を愛することを求めておられます。私たちも神様のように、人を愛し、人を助けて生きるようにと伝えられているのです。神様は、私たち一人ひとりを無条件に愛し、守ってくださることを約束しています。その愛を受けた私たちも、他者を愛し、支え合う生き方が求められているのです。
私たちは今日も神様の愛を受けて生きています。神様の愛は死んでも続きます。私たちはそれを信じます。そして私たちはいつまでも愛されているからこそ、その愛を地上で他の人々と分かち合って生きてゆきましょう。キリスト教は愛の宗教です。恵みの宗教です。神様はすべての人を愛し、すべての人に安らかな死後を準備してくださっています。安心して仲間を見送りましょう。
神様の愛それは永遠の愛です。永遠の愛に包まれた私たちも、他者への愛を持って生きてゆきましょう。神様がすべての人を愛し、受け止めるように、私たちもすべての人を愛し、受け止めてゆきましょう。特にこの地上でもっとも小さい者、もっとも小さくされた者、見過ごされている者に愛を注いでゆきましょう。
神様はすべての命を引き受け、無限の愛と慈しみを注がれます。だから私たちも愛し合って生きましょう。お祈りをいたします。