「みんな神に愛されている」 マタイ25章34~46節

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

マタイによる福音書25章40節

 

今日は召天者記念礼拝です。私はキリスト教を良いことをした人は死んだ後に天国へ行く、悪いことをした人は死んだ後に地獄へ行くという宗教ではないと思っています。では人は死後どうなるのでしょうか。私は、人は死後、すべての魂が神様にのもとに迎えられ、安らぎを与えられると信じています。ですから、故人が苦しんでいるのではないかと心配する必要はありません。

キリスト教では死のさらに先に、復活するという信仰も持っています。復活とは神様がこの世界を完全なものにされる時、すべての人が新しい命を受けるということです。天に召された方々も、まだ復という次の希望も持っています。

そしてやがて私たち自身も死を迎える時が来るでしょう。私たちは最期の日まで精一杯生きてゆきましょう。

今日も聖書箇所は死んだ後の話をしているのではありません。この話は生きている者に語り掛けている話です。私たちはこの話から、天に見送った方が神様の元に安らかにいることを信頼し、そして残された私たちが、この地上でどのように生きるべきなのかを考えたいと思います。

聖書の物語を見ます。右側の人も左側の人も王様になら仕えて当然です。誰もが一生懸命、王様のお世話をしたのでしょう。しかし右側の人と、左側の人で大きく違ったことがありました。それは王様以外の人々への態度でした。王様は人々がもっとも小さい者へどのように接しているのかを厳しく見ていました。

「もっとも小さい者」とはどんな人のことでしょうか。それは小さいこども、助けを必要としている人、社会的に弱い立場に置かれた人、社会構造の中で自分らしく生きることが出来ない人ともいえるでしょう。私たちは本当に様々な場所で、小さくされている人と出会うはずです。私たちはそのような人々への接し方で、死後に天国に行くか、地獄に行くかが決まるわけではありません。しかし神様は、私たちがそのような小さくされた人とどのように接しているのかを、厳しく見ておられます。

これは地上に残された私たちへのメッセージです。神様は、あなたたちはこの地上の残された人生で、小さい者・小さくされた者に目を向けてゆきなさいとおっしゃっています。私たちが良い事をするのは、決して私たちが天国に行くため、自分の死後のためではありません。