「癒しと和解の恵み」ヨハネ20章19~29節

 

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」    ヨハネ20章19~29節

私たちは、ある時は他者に傷つけられ、またある時は他者を傷つけながら生きています。一度生まれてしまった対立関係、そして、心の中に沈潜した敵意や憎しみから癒されること、すなわち、他者と和解することは、とても困難な、しかし、大切な課題です。私たちは30年前に大虐殺が起きたルワンダで平和と和解の働きに仕えながら、その課題の困難さをひしひしと感じながら生きてきました。

ヨハネによる福音書の20章では、復活されたイエスが自分を見捨てた弟子たちと再び出会っていく物語りが描かれています。そこでイエスは驚くべき言葉を弟子たちに語られました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなたがたを遣わす」(21節)。そしてその後、弟子たちに息を吹きかけられました。その息とはイエスご自身の霊、聖霊です。それは、イエスの命、愛と赦しの霊です。そして、弟子たちに赦し合って生きる共同体を築き、赦しと和解のために人々を執成していくようにとの任務を授けられたのでした。

 23節には、イエスの謎めいた言葉が記されています。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」時としてこの言葉は、聖霊を与えられた弟子たちが、罪を犯した人々を赦したり赦さなかったりする権限を与えられたという解釈がなされるようです。しかし私は、むしろこのみことばの中に、イエスが私たちに「赦しと和解という希望をゆだねられた」という福音を見るのです。神による罪の赦し、そして、神と人間との和解は、主イエスの十字架を通して成し遂げられました(エフェソ2:11-22)。しかし、人間同士の赦しと和解は、私たち人間にゆだねられているのです。

 私は主イエスが、傷つけられ「赦せない」と思っている人々に対して、赦しを義務として負わされるような方ではないと信じています。赦しは神から来る恵みなのです。心と身体に深い傷を負わされながらも生き残った者、サバイバーによる赦しは、イエスですら要求されるようなものではありません。人間の努力によって出来るようになるものではない。それはただ、神ご自身が癒しと共に、恵みとして与えてくださるものなのです。

 罪ある私たち人間が、神によって赦されたことも恵みです。その赦された私たちが赦すことの出来る者へと変えられていくことも恵みです。赦しが恵みとして神から与えられることによってのみ、私たちは赦すことのできる者になるからです。そして、私たちが何者かを傷つけたにも関わらず、その被害者の方に赦していただけるとするならば、私たちはその方を通して神の「恵みとしての赦し」を受け取るのです。しかし、この赦しの恵みを、それぞれの立場にある私たちが受け取るかどうかは、私たち一人一人にゆだねられているのです。赦しと和解、それは、十字架にかかられ、三日目に、傷を負ったままの姿で復活された主イエスが、私たちにゆだねられた希望なのです。

 

#佐々木和之