わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ
コリントの信徒への手紙二12章9節
私たちはいま世界で起きている惨状を前にして戸惑い苦しみながら「なぜ戦争を止められないのか」と嘆く。しかし力で解決しようとして強さを求める姿勢が問題であり、それは信仰の強さを求める姿勢も無関係ではない。そこで「弱さを誇る」という言葉に込められたパウロの思い、信仰に注目したい。
パウロの働きによって地中海沿岸の都市に多くの教会ができ、多くのギリシア人キリスト者が生まれた。しかし教会の中に現れた熱狂的な人々が自分たちはもう救われて「完全な者」になったと誇り、エルサレムから来た人々が割礼を受けてユダヤ人になり、律法に従わなければならないと説いた。霊において完全になったと誇る人々はその霊的な強さを誇り、ユダヤ主義者は律法を守る強い信仰で得られる強い力を誇った。そんな力を誇る人々に対してパウロはこれまでの自分の苦労を語った上で「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません」と断言する。また「キリストは弱さのゆえに十字架につけられました」と語るようにパウロにとって十字架は弱さの象徴。律法では木にかけられた者は呪われた者。十字架刑で処刑されたイエスは神から呪われた者であり、神から見捨てられた者となる。そのイエスを神は引き上げられた。9-10節の「力」「強い」と訳されている言葉は、動詞になると「〜できる」という意味になる。何ができるのか、それは「人の心を動かすこと」すなわち「福音を伝えること」。つまりパウロが言おうとしているのは、自分自身が弱いときこそ、あの十字架につけられたキリストが自分の中に働いて、自分もまた福音を伝えることができるということ。
私たちは「クリスチャンはこうあるべきだ」という無意識のイメージを持っていないか。できているときは誇らしく感じ、できないと「信仰が弱くなった」と落ち込む。しかしイエスが十字架に磔にされている姿は、何もできない姿。神から見捨てられた呪われた姿。しかしそのイエスをこそ神は引き上げた。つまりこれができるから、これをしているから神が人を認めるのではない。まず神がこの私たちを愛している。パウロもまた弱さの中でその神の愛を伝えようとした。私たちは教えを守り、義しく過ごす事が信仰で、その姿が証しだと考える。しかしこのできない、惨めな私だからこそ、その私を愛される神のすばらしさを伝えることができる。そしてその愛に応えたいから神に従いたい。従うアピールをしたから神が私たちを愛されるのではなく、まず赦されている、その愛に応えたいのだ。自分の義しさを貫こうとするのではなく神の前で頭を垂れ、神の言葉を聞くように相手の言葉を聞き、自分の信仰を誇るのではなく神の愛を誇り、その愛が自分に注がれていると同じように相手にも注がれていると、分かち合っていきたい。