【全文】「収穫感謝礼拝」マタイ15章32~39節

みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。教会にはこどもたちの声が響き、命の喜びにあふれています。今日もこどもたちの命と一緒に礼拝をしましょう。

10月11月は地域活動と福音というテーマで宣教をしてゆきます。また今日は10月16日の世界食糧デーに合わせてこの礼拝を、収穫感謝礼拝としています。収穫に感謝するということを考える時、私たちの教会で運営しているこども食堂「こひつじ食堂」に多くの食品の寄付が集まっていることを思い出します。たくさんの方が教会に収穫を持ち寄って来て下さることに大変感謝しています。先日は自分の家の田んぼで作ったという平塚産のはるみの新米の寄付をいただきました。とても香りのよいご飯でした。平塚で獲れたシイラやブリ、マグロの寄付を頂きました。最近では寒川のパン工場からもパンの寄付をもらっています。それぞれみなさん、決してお金や時間に余裕があるわけではないのに、私たちの食堂に寄付をしてくださっていることに、本当に心から感謝しています。

こども食堂に参加すると、この食べ物がどこでどのように育てられたのかを、いつもの食卓よりも強く感じるようになります。命を強く感じるとも言えるでしょう。そして食べ物に命を感じ、大切にするようになります。感謝するようになります。こども食堂はそのように食べ物と命に特別に感謝する、その体験をする場所になっています。

こども食堂の寄付に感謝し、みなさんと一緒に食事をしていて改めて感じるのは、クリスチャンこそ特に食べ物と命に感謝する機会が多いということです。クリスチャンは食前の祈りを大切にしています。教会の食事ではもちろん、家での食事でも、外食でも祈ります。日本では食前に感謝の祈りをすることは非常に珍しいことで、クリスチャンの最大の特徴とも言えるでしょう。私たちは食前の祈りで生産者の人に感謝すると同時に、それだけではなく、食べ物を神様が与えて下さったものとして感謝の祈りをします。

食べ物を前にして生産者に感謝するのはわかる気がしますが、私たちはなぜ神様に感謝をするのでしょうか。それはキリスト教ではすべての命は神様が創造したものだと考えるからです。そして私たちは神様が創造したその命を食べています。だから私たちは食前の祈りで、神様が私たちに命を与えて下さったことへ感謝を表しています。私たちが食前に神様に感謝の祈りを献げることは、とても大事な習慣ではないでしょうか?私たちはこの感謝と祈りを大切にしてゆきましょう。私たちは生産者への感謝と、食べ物への感謝、神様の創造した命への感謝を毎食ごとに覚えて祈ってゆきましょう。

まだ食前に祈っていないという方、例えば私はこんな風に祈っています。「神様、今日もみんなでごはんを食べれること感謝します。世界に平和と食べ物がゆきわたしますように」またカトリック教会ではこのような食前の祈りが紹介されています。「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください」。私たちは食前の祈り、神様への感謝を改めて大切にしましょう。

そして、今日の午後は信徒会が行われます。パンとぶどうジュースをのむ儀式である主の晩餐について意見交換をする予定です。先日の濱野先生との学びによれば、この主の晩餐にも、神様からの食べ物、神様の創造への感謝という要素が含まれるそうです。私たちは主の晩餐でも、神様から食べ物が与えられていることに感謝しましょう。私たちにある食べる物も、飲むものも、着るものも、仕事も、家族も、友達も、命全体が神様からの恵みです。神様は私たちの必要をすべて満たしてくださる方です。今はまだそうではなくても、必ず満たされることを信じ、感謝しましょう。私たちは神様からのあらゆる収穫に感謝をしましょう。今日は聖書からイエス様が感謝している場面を見ます。その物語から、神様に収穫を感謝するということを考えたいと思います。 

 

今日はマタイによる福音書15章32~39節をお読みいただきました。聖書にはこの4000人の食事と似た内容の、5000人の食事が記録されています。2つの似た伝承がある理由については諸説ありますが、1回の大人数の食事の出来事が別々に伝承されたという説が有力です。でも私はこの出来事が本当に2回か、それ以上あったのではないか、様々な場所で繰り返し起きていたのではないかと思っています。このような出来事は何度も繰り返し起きていて、それが聖書に2回記されたのです。私たちの食堂が何度も何度も寄付をもらって食事をすることができているように、きっとイエス様も何度も人々と、このような奇跡の食事をしたはずです。こひつじ食堂の体験からそう感じています。

今日まず注目をしたいのは、従っていた群衆の現実です。イエス様に従っていたのは、食べ物を持っていない人々でした。イエス様に従ったのは、仕事を中断しても大丈夫な経済的、時間的余裕のある人ではありませんでした。もう食べ物を何ももっていない。お金もない。行く当てもないという貧しい人が、イエス様に従ったのです。解散して家に帰って食べればよいとありますが、この群衆は家に帰れば食べる物があったのでしょうか?あるいは家そのものがあるのかどうかもわからない人でした。イエス様はこのような生活に困った人たちを追い返しはしませんでした。ここで一緒に食事をしようとしました。共に食事をするということは、人々との連帯を表明するという意味がありました。共に食事をすることは、一緒に生きてゆこうという、イエス様の意志の表れでした。

今日は特にイエス様の祈りに注目をしたいと思います。36節にはイエス様が「パンと魚を取り、感謝の祈りをとなえて、これを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った」とあります。この言葉は主の晩餐の時に祈る定型文でもありますが、中でも注目したいのが、イエス様がここで食前の感謝の祈りを唱えたということです。

この食前の感謝の祈りはどのような祈りだったのでしょうか。しかし果たしてこの状況は感謝に値する状況だったでしょうか。4000人に対して、7つのパンと魚しかありません。私ならば神様に感謝よりも、不足を訴えたでしょう。神様もっと欲しいです、神様全然足りません、神様最低あといくつは必要です、そう願いが先立った祈りをしたでしょう。しかし、イエス様は違いました。イエス様はこんな少ないものに感謝の祈りを唱えたのです。どう考えても少なすぎる食べ物に感謝を示したのです。

イエス様が感謝したのは、まずこの食べ物を寄付してくれた人に対してでしょう。その善意と温かい気持ちに感謝をしたでしょう。パンと魚を寄付した人も、きっと裕福でたくさん持っていたわけではありませんでした。イエス様は寄付してくれた温かい気持ちに感謝をしました。そして人に対して感謝する同時に、それ以上にここで神様に対しての感謝を祈ったのです。

イエス様はここで何よりも神様に感謝の祈りを献げました。それはすべての恵みは神様からのものだからです。

そしてこの食べ物をよく見ます。それらの多くはもともと命でした。穀物も魚もすべては命でした。神様に創造された大切な命でした。イエス様はここで、神様がこの命を創造し、この命を私たちがいただくということに感謝をしたのです。

イエス様は地上に人間として生まれました。そしてイエス様は神様の創造した命を食べて生きたのです。イエス様は食べる前にその命に感謝して祈ったのです。この食べ物が、神様からの恵み・神様の創造した命であったからこそ、イエス様は神様に感謝したのです。イエス様はこのように神様に向けて、その命を食べることに深く感謝をしたお方でした。

私たちもすべての恵みが、すべての命が神様の元から来ると信じています。私たちに与えられた食べ物の多くも、神様が創造した命です。驚くべきことに私たちは神様が創造した命を食べて生きています。普段それを感じることはできないかもしれません。でも私たちが食前に祈るとき、それを思い出すことができます。私たちが誰かから食べ物をもらったとき、それを分かち合ったとき、私たちが命を食べていることを深く感じることができます。私たちは命に感謝して、神様に感謝して、それを頂きましょう。そのようにして私たちの命はつながっているのです。

イエス様が命に感謝して祈り、配ると、パンが増えたとあります。順序が大事でしょう。増えたから配ったのではありませんでした。少ないもの大切にし、分かち合った時、それが増えたのでした。この出来事は人々の中には強烈な記憶として焼き付けられ、聖書に記載されました。そしてこのような出来事はきっと1回だけではなく、何回も繰り返し起きたのでしょう。聖書には2回記されました。そして後に、これは私たちの主の晩餐へとつながってゆくことになります。

イエス様の感謝の祈りに目を向けました。私たちはただ収穫物に感謝するだけでなく、その背後にある生産者の努力に感謝をしましょう。そして神様からの豊かな恵み、私たちが神様の創造した命を食べていることに感謝しましょう。私たち自身の命に心から感謝しましょう。神様の愛が私たちのすべてを満たしてくださいます。私たちは食前の祈るたびにその神様の愛を深く感じましょう。食前の祈りを大切に続けてゆきましょう。私たちには足りないものがたくさんあります。でも神様は、私たちを必ず良いもので満たしてくださるお方です。私たちは収穫と命に感謝しましょう。お祈りをいたします。