【全文】「こどもの声がする教会」マタイ7章9~12節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声が私たちの礼拝の特徴です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。

10月から2か月間は地域活動と福音というテーマで宣教をしたいと思っています。時が過ぎるのは早く、2024年度も半分が過ぎました。今日は特に半年前に私たちが主題聖句とした聖書のみ言葉と「こどもの声がする教会」という標語をもう一度確認したいと思います。

私は自分のこどもには、できるだけいろいろな体験させ、良い教育を受けさせたいと思っています。体験や教育は一度受けると無くならないものです。こどもたちの将来にどんな困難があっても、貧しくなっても、それは無くなりません。体験と教育が人生を切り開いてゆくはずです。できるだけ良い体験をこどもたちして欲しいと思います。特に礼拝の体験は大切にして欲しいと思います。大きくなればそれぞれに優先したいことや事情がでてくるでしょう。今、こどもと共に礼拝できる時を大切にしたいと思います。

私自身のこどもに限らず、大人とこどもが共に福音を分かち合い、一緒に礼拝をできることは大人にもこどもにも素晴らしい体験です。こどもと共に礼拝をするとこどもたちの声が聞こえます。私たちはそのようなこどもの声がする礼拝をしましょう。

また自分や教会のこどもに限らず、地域のこどもたちにも良い物をたくさん残したいと思います。教会は地域のこどもたちにとって、今はまだこひつじ食堂の場所、ただごはんを食べる場所かもしれません。でもこひつじひろば、こひつじ食堂などを通じて多くのこどもたちが教会を訪れるようになりました。教会はこどもを通じて地域に関わり、地域の必要に応えることで、教会が地域と共にあること、神様が共にいるという証しをしています。今後もたくさんのこどもをこの教会に招き、地域のこどもたちのにぎやかな声が響きわたる教会にしてゆきましょう。これを続ければ、きっとそのうち何人かは大人になって教会に訪ねてくるはずです。心と体、魂の支えを必要とした時に、この教会を思い出すはずです。できるだけおいしい食事、思い出に残る食事と体験してもらいたいと思っています。この教会が続くことは、きっと地域の人の魂を支えることにつながるはずです。

もちろん今の時代のこどもだけが良ければ良いのではありません。私はこの教会を次の世代、こどもたちに受け渡し、ずっと続いていって欲しいと思っています。この教会は湘南・平塚の地で自由な福音理解を伝える場所として貴重です。例えばこの建物や教会の制度をできるだけ良い状態で、こどもに残したいと思います。この建物や運営の制度をこのままで次の世代に渡してゆくわけにはいきません。さまざまな修繕や改善が必要です。教育館は解体しなければいけません。次の世代に迷惑をかけたくないのです。私たちは教会を次の世代・こどもたちが安心して集い、礼拝し、運営できる場所として引き継ぎたいと思います。できるだけ良い物をこどもたちに残したいと思います。

教会には会堂修繕の必要やそれに伴う土地売却の課題など、様々な検討課題があります。でもきっとこれからの平塚教会は、こどもたちに関わり、未来に良い物を渡そうとする活動の中で、新たな道が示されてゆくでしょう。未来でも教会でこどもの声がするように祈り、働きましょう。このような思いで私たちは2024年度の標語を「こどもの声がする教会」としています。それには3つの意味があります。一つ目は礼拝でこどもの声がする教会、2つ目は地域のこどもの声がする教会、3つ目は未来でもこどもの声がする教会です。

私たちはこどもに少しでもよいものを与えたいという強い熱意があります。こどもと礼拝をしたい、地域のこどもとも関わりたい、未来のこどもにも良い物を渡したいという熱意があります。今日の聖書の言葉によれば、神様は私たちの熱意を上回る熱意をもっています。神様は私たちがこどもに良い物を与えようとする、それをさらに上回る良い物をくださると約束してくださっています。今日はこのことを聖書から確認し、これからの教会のこと、こどもの声がする教会のことを考えてゆきましょう。

今日はマタイによる福音書7章9~12節をお読みいただきました。9節~11節はとてもわかりやい話でしょう。この個所によれば、神様は私たちを愛し、良い物を準備してくださっているお方です。私たちがパンを欲しがるこどもにパンを、魚を欲しがるこどもに魚を与えるように、神様は必要なものを与えて下さるお方です。私たちがこどもと次の世代に熱意を持って良い物を残そうとするのと同じように、それ以上の思いで、神様は私たちに、こどもたちに良い物を準備してくださっています。私たちは必ずその恵みにあずかるのです。今は私たちには必要な物が不足しています。私自身もこの教会も足りないものがたくさんあります。きっとみなさんも同じでしょう。足りないことばかりです。でも神様は私たちに必要な物があれば、良い物を下さると約束をしています。私たちは“とりあえず”それを信じましょう。たくさんの良い物が私たちに備えられていることを期待し、もうしばらく信じましょう。神様の約束は今、様々な物が不足している私たちの希望です。

12節に目を向けます。11節までは私たちは神様から良い恵みを受けとる存在だと語られていました。表題にもあるとおり、求めるものが与えられること、良い物が神様に与えられることが語られていました。しかし12節では話の流れが大きく変わります。神様からの恵みを受ける話から、他者への実践を求める命令へと展開しています。「だから」の次には「〇〇しなさい」というイエス様からの命令が書かれています。それは「あなたのしてもらいたいことを、人にするように」という命令です。イエス様は神様が私たちに必ず良い物を与えてくださることを明らかにすると同時に、だからこそ、私たちこそ他者に良い物を与えるようにと命令しているのです。この「だから」が大切です。私たちは恵まれている「だから」他者に良い物を与えるのです。ここではそのような命令がされています。私たちはただ良い物を受け取るだけの存在ではないのです。恵まれているだけの存在ではないのです。イエス様は恵まれている、だからこそ良い物を他者に手渡してゆけと言われているのです。私たちはこの命令を実践しましょう。例えば私たちはこどもたちに一番良い物を、一番良い状態で渡してゆきましょう。イエス様はそれを私たちが他者になすべきことだと命令をしているのです。

「人にしてもらいたいことをしなさい」これは格言の様な言葉ですが、似た格言は世界中に伝わっています。しかし私たちが良く聞くのは「人にされて嫌なことは、自分もしない」ということかもしれません。聖書は「人にされて嫌なことをしない」からもっと踏み込んで、愛の実践を命令しています。嫌なことをしないだけではなく、人に良い物を与えなさいと命令しています。私たちは今よりもう一歩踏み出して良いものを誰かに渡してゆきましょう。

12節の最後は「これこそ律法と預言者である」とあります。これは、ほかならぬ他者に良い物を渡すことが、次の世代に良い物を渡してゆくことが、律法の実践であるという意味です。イエス様は聖書の教え律法を、難しい戒律とは考えていませんでした。隣人に良い物を渡してゆく、隣人に良い事をしてゆく、この愛の実践をしないさいという命令がイエス様の律法理解です。イエス様の律法理解はこの点で一貫しています。他にもイエス様はマタイ22章で律法の学者に律法でどれが最も重要な教えかを聞かれてこう答えています。第一に神を愛すること。心を尽くし精神を尽くし、思いを尽くし神を愛すること。そして第二に、隣人を自分と同じように愛することと答えています。22章でもここと同じ指針が指し示されています。

まとめます。私たちには不足するものばかりです。自分の人生のことも、こどものことも、この教会のことも足りないものがたくさんあって、とても心配です。私たちは今の自分やこどもや教会に必要なものを祈り求めます。生きる糧、心の支え、魂の支えになるものを神様に求めます。神様は私たちを愛し、大切に思っています。だからきっと私たちには良い物が与えられてゆくでしょう。そう信じています。そして「だから」私たちは隣人と必要なものを分かち合ってゆきましょう。神が私たちに良い物を備えて下さっているように、次の世代が必要としているものを、できるだけよい状態で渡してゆきましょう。それが愛なのではないでしょうか。

私たちはこの主題聖句と、「こどもの声がする教会」という標語をもって歩んでいます。私たちは礼拝をするとき、神様が私たちに良い物を準備していることを思い出すことができるでしょう。そして特にこどもと共に礼拝をするとき、私たちもこどもに精一杯の良い物を渡してゆこうという気持ちになるでしょう。だから私たちはこどもの声を聞きながら礼拝をしましょう。

私たちは一緒に祈りましょう。教会の仲間の必要が満たされるように、仲間に良い物が与えられるように祈りましょう。そして私たちの教会は地域のこどものためにこの教会を開いてゆきましょう。私たちが与えられている良い物を、地域と、地域のこどもと分かち合ってゆきましょう。そしてこの教会を未来に残していけるように、ともに考えてゆきましょう。お祈りします。