【全文】「教会とパレスチナ」イザヤ62章1~5節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝に招かれたこと、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の平和の声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。8月9月は平和について考えてきました。今日は平和について考えるシリーズの最終回です。これまでイザヤ書を2か月間読み、様々な面から平和について考えてきました。平和についてどんなことをお感じになったでしょうか?今日はイスラエルとパレスチナの戦争と私たちの教会との関係を考えます。そのことを通じて、私たちがどのような信仰を持ち、平和を目指しているのかを考えたいと思います。

イスラエルとパレスチナの戦争について、日本のキリスト教の教会は比較的穏健で、極端にイスラエルを支持する教会は少ないように感じます。しかし世界のキリスト教信者の中には、イスラエル国を積極的に応援する人々が多くいます。いわゆる福音派とか、キリスト教右派と呼ばれたりするグループの中に、イスラエルを積極的に支持する人が多くいます。イスラエル側に立つという立場をはっきりと表明する人がいます。多くの場合、その人たちがイスラエルの側に立つと表明する背景には信仰があります。その信仰は聖書の権威を強調する信仰です。私たちも聖書には権威があると思います。しかし畏敬の念や大切にする気持ちだけではなく、聖書に書いてあることを、その文字通りに受け取っていくことを重視する信仰を持っている人がいます。たとえば聖書の中に、神はイスラエルを祝福している、この土地をユダヤの人々に与えると約束しているという記述があれば、それをそのまま理解します。それはイスラエルによるパレスチナ地域の軍事的支配を支持するという解釈につながってゆきます。このような考えはシオニズムとも呼ばれます。私たちの教会の身の回りでは少ないかもしれませんが、アメリカでは大きな非常に大きな勢力です。

私たちの教会はどうでしょうか。イスラエルと、パレスチナのどちらの側に着くでしょうか?おそらく私たちの聖書理解ではどちらの側にもつかないというのが答えでしょう。戦争をしている、殺し合っている二つの集団がいます。私たちの聖書理解では、神様はどちらか一方の正しいとされる方に、勝利を約束する方ではありません。神様は暴力で物事を決めようとするどちらのグループも誤りとし、そのような暴力を最も嫌われるお方です。私たちもイスラエルとパレスチナの双方が間違っていると考えます。

この問題が複雑なのは、イスラエルにはユダヤ教徒が多く、パレスチナにはイスラム教徒が多いという宗教的な背景もあります。しかしキリスト教の教会は傍観者ではいけません。歴史的にユダヤ教徒を迫害したのはキリスト教国であり、後にこの土地はユダヤ人のものであると誤った約束をしたのもまたキリスト教国でした。キリスト教はまたどちらかを応援することで、またこの問題を複雑にしようとしています。どの宗教、信仰を持つにせよ、人間の愚かさは普遍的です。私たちは宗教を超えて平和を実現することができるのでしょうか。私たちキリスト教の教会はどのようにこの平和に関わることができるでしょうか。私たちはどのように聖書を読むのでしょうか?この問題から考えたいと思います。

私たちには聖書を文字通りではなく、歴史や文脈に応じて解釈することが求められます。そして、強い者ではなく、傷ついた人々や虐げられている人々に目を向けて聖書を読むことが重要です。神様が彼らのそばにいることを感じるでしょう。今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。

 

 

今日はイザヤ書62章1~5節までをお読みいただきました。当時イスラエルの民は戦争に負け、遠い場所に強制移住をさせられていました。シオンとはエルサレムのことです。この62章は、強制移住が終わりようやく故郷に戻ることができた時代の言葉です。強制移住を終え、王様から自分たちの故郷に帰還する許可がでました。人々は希望をもってイスラエルに戻ります。しかし町は戦争で荒廃し、ボロボロになっていました。戦争に振り回された後の、新しい生活への期待と不安の中に届けられた神様の言葉です。

ある立場の人たちは、この個所は神様が現在のイスラエル国を支持していると解釈します。神様はイスラエルのために黙っていないという言葉を、パレスチナとイスラエル国の戦争において、イスラエル側が正しいという根拠にしています。諸国の民はあなたの正しさ知るようになるとは、中東や世界の各国がイスラエル国の方が正しいと認めるようになると解釈をしています。聖書を文字通り解釈することで、神様はイスラエルの側に立つと考え、パレスチナへの軍事的支援が正しいことと解釈されています。

しかし私たちは聖書を現代の国家イスラエル国に結び付けて読むことはありません。この話を、イスラエル国にではなく、私たち人間全体に向けて語られている言葉として受け止めます。そこが大きな解釈の違いでしょう。私たちはこの個所を現在のイスラエル国とは結びつけず、人間全体への語り掛けと理解します。私たちはこの個所をどう理解したら良いでしょうか。私は戦争に疲れ果てた人々の視点から理解したいと思います。これまでに考えてきた神様の平和に照らして理解したいと思っています。この神様の言葉を戦争に傷ついた人への励ましの言葉、希望の言葉として受け取りたい、今日はそのような視点で読みたいと思います。

1節にある「わたし」とは神様の事です。神様は決して口を閉ざさない、決して黙さないお方です。「彼女」とはイスラエル国家だけを指すのではなく、私たち人間全体のことです。神様は一部の人間だけが輝き、他の大勢の人間が暗く沈んで生きる世界を望んではいません。神様はすべての人間が松明のように、明るく光り輝くことを願っておられます。それが叶うまで、黙っていない方なのです。神様は暗さの中にいる人々のために光を、み言葉を注いでくださるお方です。人間から徹底的に光を奪うのは戦争です。人間から光、希望、夢、命を奪ってきたのが戦争です。しかし神様の言葉が戦争に光を照らします。人間同士の戦争で傷ついた人にとって、最も強い心の支えになるのは、神様の言葉です。神様の言葉と光はいつも私たち全員に注ぎます。その神様の言葉は、止まることのない平和の言葉です。神様は平和に向けて沈黙しないお方です。神様はどちらの側にもつかず、すべての人の平和に向けて黙っていないお方です。神様は私たちに平和を語り続けているお方です。

2節には「諸国の民はあなたの正しさを見る」とあります。語られているのは私たちが正義で、向こうが悪だということではありません。語られているのは、神様の正しさを全員が見るようになるということです。人間の決める正しさ、人間の決める平和はいつも不完全です。人間は自分たちの力で正しさと平和を実現することができないのです。今は不条理で、不合理で、不平等で、戦争があります。しかし完全である神様の正しさと、神様の平和の実現は必ず全員に来ます。誰一人漏れることなく来るのです。人間にはどうしても実現できない平和な世界が来るのです。神様が全員に正しさと平和を起こしくださる時を「終末」と呼びます。終末とは世界が破滅する時や悪人に裁きが下る時ではなく、神様の正しさと平和が全地を覆う時です。その時、世界は新しい名前で呼ばれるような、新しい世界が始まります。神の希望が、光が、平和が全地にあまねく満ち溢れる時です。この個所はその終末、完全な平和が、私たちには必ず来る、全員がそれを見る日が必ず来ると言っています。これは平和の約束です。あなたたちには必ず平和がくるということ。私たちはその終末の時に希望を持っています。

3節は傷ついた人々が回復される約束です。「あなた」とは、戦争に傷ついた人々のことです。あなたのような傷ついた人がやがて冠、王冠となるとあります。冠とは、誰が王であるか、誰が一番偉いのかを示すしるしです。つまりこれは戦争で傷ついた人々によって王が立てられるということです。傷ついた人が王を指名してゆくのです。それこそが平和の王の在り方です。戦争の勝利が王冠になるのではありません。王を建てるのは戦争で傷ついた庶民だということです。神様は戦争に傷ついた人たちが平和を求めて新しい王を建てることを望んでいるのです。私たちも文字通り受け取るのではなく、傷ついた人から戦争と、平和と、新しい王を見つめてゆくことが大事です。

4節と5節、人は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。神様は私たちと一緒にいてくださいます。神様が結婚したパートナーのように私たちと共にいてくださるのです。人の結婚にはうまくいかないこともあります。不完全なもので、平和とはいかないものです。しかし神様は違います。神様は私たちとずっと共にいて下さるお方です。

私たちは聖書から平和に生きる方法を聞いてきました。2か月間どのような平和を考えたでしょうか?神様は平和について、黙っていないお方です。神様は口を閉ざさず、平和を語り続けて下さるお方です。私たちは神様の正しさと平和を追い求め続けてゆきましょう。私たちも平和の大切さを語ることを止めないでいましょう。私たちは戦争を見る時、傷ついた人に目を向けましょう。傷ついた人が平和の王を選ぶ世界にしてゆきましょう。私たちの世界には神様が共にいてくださいます。私たちは不完全です。でも神様の平和を求めましょう。これからも諦めずに平和を祈ってゆきましょう。お祈りします。