【全文】「主のあしあと」イザヤ書46章1~4節

わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。

わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

イザヤ書46章4節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを神様に感謝します。私たちは「こどもの声がする教会」です。こどもの声は私たちに命の存在を教えてくれる平和の象徴です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。今日は礼拝の中で高齢者祝福祈祷の時を持ちます。平和というテーマからは少し離れるかもしれませんが、示された聖書からお話をしたいと思います。

子どもたちの声が平和の象徴だと言っているように、高齢者の方々の命もまた、深い平和の証しです。悲惨な戦争を体験し誰よりも平和の大切さを知っている命です。戦争の後の混乱を生かされてきた命です。高齢者も平和のしるしです。こどもと高齢者の命は平和のしるしです。小さな命も、高齢者の命もその時その時、神様がいつも導いてくださいます。今日は神様が私たちの人生を導いてゆくということについて考えてゆきたいと思います。「あしあと」という有名な物語があります。聖書の中の話ではありませんが、神様の愛と支え、導きを良く表している、美しいたとえ話です。

「あしあと」

ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

この話は聖書の話ではありませんが、私たちの神様のことを良く表しています。私たちはつらく悲しい時、神様が助けてくれないで、一人で人生を歩んでいるように思うかもしれません。でもそれは違います。私たちがつらくて一人で歩いていると思う時、神様が私たちを背負って歩いてくれているのです。私たちの人生に一つのあしあとしかなかったら、それはきっと神様が私たちを背負ってくださったしるしなのです。聖書にはいくつか、この話のモチーフになるような箇所があります。今日の個所も神様が私たちを背負うというイメージです。今日の聖書箇所を見てゆきましょう。

今日はイザヤ書46章1~4節をお読みいただきました。イザヤ書は激しい戦争の時代に書かれた書物です。特にこの46章が書かれたのは、イスラエルの人々がバビロニア帝国という大国との戦争に負けた後だったと言われます。戦争に負けた後、人々は強制的に移住させられました。数百キロも離れた場所に、手を縛られて、歩いて連れていかれ、知らない土地に強制的に住まわされたのです。今も昔も、戦争に負けた国の人間は動物や物のように扱われます。イスラエルの人々は、神はどこに居るのかと嘆き悲しみながら歩いたでしょう。

1節にはベルやネボとあります。ベルやネボとはバビロニア帝国で信仰されていた神々のことです。バビロニア帝国では、この神々が天地を創造したと信じられていました。人々はその神々を石や木で掘り、街中に飾っていました。聖書ではこのように、神の姿を石や木で掘って拝むことが禁止されています。これを偶像崇拝の禁止と呼びます。日本では仏像がたくさんあり、多くの人がそれに手を合わせて拝んでいます。しかしキリスト教ではそういった神の像を造って、拝んではいけないと言われます。なぜだと思うでしょうか?

一つの理由は、神様の願い・御心を、自分の欲望と混同しないようにするためと言えるでしょう。人間が神様の形を掘り出せば、神様を人間の理想を詰め込んだ姿にするでしょう。かっこよくて、強くて、背が高い、きらびやかな姿にするでしょう。そうすれば神様は人間の思い通りの姿になります。そして掘り出して便利なことは、神様をどこにでも好きな場所に持ち出せるということです。例えば王様のところに置けば、王様と神が近い存在だと表すことができます。戦争に神の像を連れて行けば、神様が自分たちの戦争を応援していることになります。あるいは小さくしてポケットに入れればどこにでも連れて行けるようになります。

しかし注意していないと、神様を人間の思い通りになる存在にしてしまうでしょう。人間は神様のことを自分たちの都合に合わせて姿や形、大きさを変え、私たちの意のままの存在にしてしまうのです。どこにでも持っていけるのは聖書の神様ではありません、神様はそのように私たちの思い通りに、願いをかなえてくれる存在ではありません。だから聖書は神様の姿形を造って拝むことを禁止しています。

聖書によれば神様は私たちが見えていなくても、いつも一緒にいる存在です。だから形や像にする必要がないのです。形にしてはいけないのです。神様は私の願いごとをかなえてくれるのではないのです。神様の願いがこの地上でかなうために、私たちは用いられるのです。だから神様を形にする必要がないのです。それが聖書の信仰です。見えないけれど確かに共にいて下さるのが神様です。

イスラエルの人々は戦争に負け、異国に連れていれ、異教の神の像を見て、もういちど自分たちの信仰を問い直したはずです。そしてなぜ自分体がそれを造らないのかを考えたはずです。そして気づいたでしょう。私たちの願いは叶わなかったけれど、きっと神様は私たちに良い計画を準備してくださっているはず。私たちの願いとは違うけれど、神様の姿・形は見えないけれど、神様はいつも一緒にいてくれるはず、彼らはそう思ったでしょう。そう思わなければ悲しみに耐えることができなかったでしょう。

そのときイザヤを通じて神様の言葉が響いたのです。1節にはこうあります。今形にされているバビロンの神は、きっといつか他の荷物と同じように運ばれていくだろうと。疲れた動物があの神の像をひっぱることになるだろうと言っています。

姿・形に彫り出され動物にひいてゆかれる神は、聖書の神の特徴と大きく違います。聖書の神様は人間や動物に担ぎ上げられて、運ばれてゆく神様ではありません。聖書の神様はその反対です。聖書では神様が人間を背負うのです。私たちや動物が神を背負うのではありません。神様が私たちを背負うのです。それが聖書の神様の特徴です。

聖書の神様は私たちを背負う神様です。神様が私たちの人生を背負っています。私たちは神様の背中に乗って、運ばれている存在なのです。そして3節にはそれは生まれる前からそうだとあります。「あなたは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」とあります。神様は生まれた時から私たちを背負っているということです。4節、そしてそれは髪の毛が真っ白になるまで続くのです。神様は生まれた時から、死ぬ時まで、そして死んだ後も私たちを背負ってくださるのです。それが聖書の神様です。神様が私たちを背負うとはどんなことでしょうか。それは私たちだけでは前に進めない時、神様が私たちを支え導いてくれるということです。

それは先ほど紹介した「あしあと」の話のようです。神様は私たちが運ぶのではありません。神様が私たちを背負って運んでくださるのです。私たちが前に進めない時、神様が私たちの心と魂を支えて、背負って歩んでくださるのです。それが私たちの神様です。今日の聖書の個所もそれを伝えようとしています。

私たちの人生はひとりでは生きていけないものです。そして自分ひとりでは背負いきれないものがあります。家族のこと、仕事のこと、健康のこと、自分の心のこと、自分一人ではどうにもできず、背負いきれず前に進むことができない時があります。私たちの人生にはそのような重荷や悲しみ失敗があります。

私たちの神様はその時、確かに私たちを支えてくださるお方です。私たちが立てない時、支えて、背負ってくださるお方です。私たちはその神様を支えにして生きます。心の支え、魂の支え、生活の支えとして生きます。神様によって人生が願ったとおりになるわけではありません。でも私たちは神様が支え導いてくれると信じながら歩むのです。つらい時は神様が一緒にいたことがわからないものです。振り返ってもひとりだったように感じるものです。でも本当は神様はずっと私たちの人生に、共にいて下さるのです。

このことをこどもたちにも伝えたいと思っています。これからずっと神様が一緒に歩き、つらい時あなたを背負ってくれるのだと。そして高齢者のみなさんと分かち合いたいとも思っています。みなさんの人生はきっとそうだったはずです。振り返ってみると一人のように思える時があったかもしれません。でもその時も神様がみなさんと一緒に歩み、皆さんを背負って、歩いてくださっていたのです。そして神様はこれからもみなさんを背負って歩いてくださるのです。私たちにはこのように神様が共にいて下さいます。だから安心してこれからも歩んでゆきましょう。お祈りします。