谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 イザヤ書40章4節
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は平和のしるしです。今日もこどもたちの声に包まれながら礼拝をしてゆきましょう。
8月・9月は平和について考えています。今日は沖縄の伊江島という小さな島から平和の本質を考えたいと思います。平和とは単に戦争が無い状態のことを指すのではありません。もっと深い意味を持っています。平和とは戦争がないことに加えて、もっと人々が自由で、平等な様子を言うのだということを考えたいと思います。
1945年、沖縄ではアメリカ軍との激しい地上戦が繰り広げられました。なかでも伊江島では激しい戦闘が行われました。伊江島の人々は日本軍から人間扱いされませんでした。住民は日本軍に箱型爆弾を背負わされ、上陸した戦車への特攻を命じられました。逃げる住民も米英は鬼畜だと教えられ、投降せず集団自決を強制されました。そのような激しい戦いがあったのが伊江島です。
戦争が終わり伊江島は平和になったでしょうか?そうではありませんでした。今度はアメリカ軍から人間扱いされません。アメリカ軍は占領した伊江島に爆撃の練習をするための飛行場を作ることにしました。住民たちは反対をしますが、うその契約書にサインをさせられ、アメリカ軍は土地を奪いました。アメリカ軍は接収に反対する住民がまだ住んでいる家をブルドーザーで壊してゆきました。住民たちにはほとんど補償はないまま、畑は飛行場にされ、自分の畑に入れば射殺されるか、爆弾が落ちて来るという状況でした。家と畑を奪われた住民たちは、生きるためにソテツという猛毒の草を食べ、米軍の落とした不発弾を拾って鉄くずを売って暮らしていました。不発弾が爆発して命を奪われる人もたくさんいました。伊江島は戦争が終わった後も爆弾が身近でした。戦争中は爆弾から逃げていた人々は、戦争が終わって今度は鉄くずを求めて爆弾を追いかけました。人々の生活は戦争中は日本軍によって、戦後はアメリカ軍によって貧しくされ続けたのです。
アメリカ軍の強引な土地接収に抗議運動が行われるようになりました。抗議運動を率いた一人に阿波根昌鴻という人がいました。彼はクリスチャンでもあり、沖縄のガンジーと呼ばれた人です。彼は非暴力でアメリカ軍と対峙することにしました。伊江島は戦争が終わってもまだ平和ではありませんでした。阿波根昌鴻たちは暴力を使わずに平和を実現しようとしました。その活動のひとつに「あいさつさびら」があります。沖縄の言葉で「あいさつしようね」という意味です。畑も家も奪っていくアメリカ軍は、自分たちのことを同じ人間だと思っていないはずだ。だからまず自分たちが同じ人間であることを伝えようとしました。「おはようございます」「こんにちは」と笑顔で挨拶する「あいさつさびら」はお互いが同じ人間同士だと伝えるための平和的な抗議運動として行われました。他にも様々な非暴力運動が行われました。アメリカ軍と何かを話す時は手に何も持たないことにしました。座って話をし、耳より上に手を挙げない、相手の悪口は言わないことをという活動をしました。
それでも困窮が改善しない彼らは「乞食行進」を始めました。乞食・托鉢をしながら沖縄の本土を行進し、その実情を訴えたのです。乞食・托鉢をするのは恥ずかしい事です。恥です。でも彼ら気づきます。自分達が乞食をすること自体が恥なのではなく、本当は自分たちに乞食をさせるアメリカ軍、非人間的行為、基地と武器こそ人間の恥なのだと気づきました。伊江島の人々の乞食行進はやがて沖縄各地の土地返還運動、本土復帰運動へとつながってゆきました。
伊江島の事を短く紹介しました。このことから平和について考えます。伊江島は戦争が終わって平和になったでしょうか?まったく平和は訪れていません。平和とは人々の権利が守られ、自由に平等に生きてゆける状態のことです。伊江島・沖縄はその意味で戦争が終わっても平和ではありません。
沖縄の基地問題はいまもまだ解決していないどころか、新たな基地が作られようとしています。戦争が終われば平和なのではありません。平和とは人々に自由と平等が与えられている状態です。平和を実現する行動とは、伊江島の人々のように、戦争に反対し自由と平等に向けて働いてゆくことです。
その平和は聖書の平和と共通しています。聖書の平和の概念もまた、戦争が無い状態ではありません。聖書における平和の概念は戦争がない、そしてさらにすべての人に自由と平等が保障されている、それが実現されてゆく様子です。神様の平和は不平等と抑圧の解消を指し示しています。今日の聖書からその平和を見てゆきましょう。
イザヤ書40章をお読みいただきました。この個所はイスラエルが戦争に負けた後、人に向けられた神様の言葉です。人々は望まない戦争を戦わされ、財産、土地、家族を失いました。戦争が終わった後もそれが回復するわけではありません。戦争が終わってもまだ平和ではなかったはずです。戦争が起こした苦痛が人々を苦しめていました。そこに神様の声が響いたのです。神様は平和の意味を教え、平和の約束を私たちに下さっています。その言葉が人々に響いたのです。
4節を見ます。「谷はすべて身を起こし、山と丘は低くなる」とあります。これが聖書の平和が実現してゆく様子です。聖書の平和は高いものが低くされ、低いものが高くなっていくことです。それはこのようなゆがんだ丸から説明することができます。現実の世界はゆがんでいます。自分だけが高く飛び抜けようようとしている場所があります。そこには高ぶる者が居ます。高ぶる者は、低くされている人間のことを、人間ではない劣った鬼畜だと言います。自分の民族は優秀で支配にふさわしいと言います。高いことを誇ろうとします。戦争中の日本は徹底的に高みに立とうとしたと言えるでしょう。アジアの人々を劣った人とし、アメリカを鬼畜だと言いました。その発想が平和を壊す始まりです。戦後のアメリカも同じです。アメリカは日本と沖縄、特に伊江島の人々を戦争に負けた劣った者、支配されるべき人間以下の存在として扱いました。
聖書の平和とはこのような不平等と抑圧を解消してゆく働きです。平和とはこのでこぼこな丸が、きれいな丸の状態になってゆく動作です。聖書の平和とはだれも高い人、低い人がいないきれいな丸になる状態です。押し込められていた人が元に戻り、高みにいた人が元に戻される、みんなが対等に、等しく満たされている状態です。ゆがんだ丸が平らになっていくことが平和です。そしてイエス様の十字架を、このへこみの下、低み、一番深い谷、悲しみの底に起きました。イエス様の十字架こそこの谷底にある出来事でした。聖書の平和とはその十字架から歪んだ丸を見つめ、元の美しい丸に戻してゆく動作です。そのダイナミックな動きが聖書の平和です。4節の「高みは低くなれ、低みは高くなれ」「険しい道は平らに、狭い道は広くなれ」とは、神様の平和の宣言です。人間同士に上下のない、優劣のない様子が平和です。神様はそのような平和が私たちの世界に実現すると約束をしています。
5節を見ましょう。5節には「主の栄光が洗われるのを 肉なる者は共に見る」とあります。そうです私たちすべての人間は、共に神を見る者として存在をしています。人間の中にだれ一人、鬼畜はいません。悪魔のような人間はいません。たとえあいつらは人間ではない、悪魔だ、対話できないと教えられても信じてはいけません。すべての者が共に神の栄光を見る、尊い存在です。だから「あいさつさびら」です。私たちは互いにあいさつしましょう。共に言葉を交わし、共に食べ、共に笑いましょう。そのようにして同じ人間として他者がいることを忘れずにいましょう。共に神を見る者として互いを思うことが私たちが平和を実現するための第一歩です。
6~8節を見ましょう7節には「この民は草に等しい」とあります。そうです、私たち人間は葦のように弱い存在です。私たち人間は草に等しい、はかない存在です。どのような人種、宗教、民族であってもすべての人間が弱い草のような存在です。でも私たちはただの草ではありません。私たちには神様の言葉があります。私たちは同じ人間であるという言葉、神が私たちに平和を与えるという言葉が、弱い私たちにはあります。私たちは弱くても、神様の言葉があります。とこしえに立つ、永遠にある、神の言葉が私たちにはあります。その神の言葉によって私たちには希望が与えられます。だから弱くても共に神のことを求め、平和のために働くことができるのです。
私たちの世界は平和ではありません。私たちの国も平和ではありません。沖縄も平和ではありません。まだ様々な場所に、低くされ、抑えつけられ、人間扱いされていない人がいます。また戦争が起きています、基地に苦しむ人がいます、いじめに苦しむ人がいます、私の心の中だけではない場所で、そのようなことは起きています。
私たちはこのような世界でどのように生きてゆけば良いのでしょうか。私たちは特に痛みを覚える人に目を向けましょう。低く抑えつけられている場所を見つめてゆきましょう。きっとそこには十字架があるでしょう。そしてそれが元に戻されるために働きましょう。互いを対等な人間として、共に神の栄光を見上げる存在として大切にしましょう。挨拶をしてゆきましょう。それ以上に自由と平等、平和のために何ができるのか考えてゆきましょう。そして神様の平和の約束を信じましょう。お祈りします。