【全文】「平和を祈ろう」イザヤ9章1~6節

みんさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。また今日はバプテスマ式を執り行うことができました。彼だけではなく、私たちにとっても大きな喜びです。彼の信仰告白から神様への思いが伝わってきました。そのバプテスマが人生の転機となるように祈っています。8月11日の平和祈念礼拝でバプテスマをうけることになったのは偶然ではないはずです。平和に向けて働くことも忘れないでいて欲しいと思います。みなさんと一緒に平和を考えることからクリスチャンの歩みをスタートしましょう。今日も平和について考えてゆきましょう。

今日は平良修という牧師を紹介します。戦後沖縄はアメリカ軍に占領され厳しい状況に置かれていました。アメリカの一部、アメリカの植民地とされたのです。植民地のトップにいたのがアメリカから派遣された「高等弁務官」でした。この高等弁務官は沖縄の政治・行政・司法を掌握していました。行政の職員は逆らえばクビにされました。沖縄政府が法律を作ろうとしても高等弁務官には拒否権がありました。裁判官も高等弁務官が任命しました。このように高等弁務官は行政・立法・司法の三権のさらに上に立っていました。高等弁務官は沖縄を植民地支配する絶対的権力を持つ存在でした。それは帝王と呼ばれていました。

15年間の占領で6人の高等弁務官がいましたが、その5人目の就任式に招かれたのが、平良修牧師でした。平良牧師はその就任式で祈ることとなりました。就任式での彼の祈りは次のようなものでした。「神よ、願わくは、世界に一日も早く平和が築き上げられ、新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、せつに祈ります。」就任式の祝いの席で、この人が最後の弁務官になるように、最後の支配者となるように、沖縄が正常な状態に戻るように、そう祈ったのです。この祈りは大きな驚きと反響を呼びました。帝王、絶対権力者の就任を祝う式で、牧師が神に、最後の権力者となりますようにと祈ったからです。

そしてさらに祈りは続きました。「神よ、沖縄にはあなたのひとり子イエス・キリストが生命を賭けて愛しておられる百万の市民がおります。高等弁務官をしてこれら市民の人権の尊厳の前に深く頭を垂れさせてください。そのようなあり方において、主なるあなたへの服従をなさしめてください。天地のすべての権威を持ちたもう神の子イエス・キリストは、その権威を、人々の足を洗う僕の形においてしか用いられませんでした。沖縄の最高権者、高等弁務官にもそのような権威のありかたをお示しください。」戦争に負け、植民地として暴力的に支配されている側の人間が、絶対権力者を前に、あなたが最後になりますように、そしてその権力者が民衆の足を洗う僕になりますようにと神様に祈ったのです。支配者が民衆の人権を守るようにと神様に祈ったのです。このような祈りは沖縄の人々を大きく励ますことになりました。本土復帰への力となっていったのです。

平良修牧師の就任式での平和の祈り、私たちもこのような祈りを持ちたいと思います。今私たちもトランプかハリスかアメリカのリーダーの変わり目に生きています。そして日本もそう遠くない時期にリーダーが変わるでしょう。私たちは政治と政治家のために祈ります。ただその祈りは、戦争の準備をするリーダーが最後になりますように、戦争をするリーダーが最後になりますようにという祈りです。私たちを抑圧する政治がこの人で終わりますようにという祈りです。

神様が用いるのは人々の足を洗うリーダーです。自分たちの利益や裏金ではなく、人々の足を洗う、命を守るリーダーが選ばれるように祈りましょう。今日の聖書の個所はイザヤ書です。今日の個所も就任式での平和の祈りです。預言者イザヤが就任式で祈った平和の祈りが記録されています。一緒に聖書を読みましょう。

 

 

 

イザヤ書9章1~6節までをお読みいただきました。イエス様が生まれるずっと前の時代、王様がアハズからヒゼキヤ変わる時の事です。当時のイスラエルは戦争直前の状態でした。近隣諸国との緊張関係が高まっていたのです。イスラエルの北側はすでに攻め滅ぼされていました。次は自分たちが戦争に巻き込まれるかもしれません。多くの人は軍備を拡張し、戦争に勝つことでしかこの状況を変えることはできないと考えました。戦争の準備をたくさんしたのです。そんな時に王様の交代がありました。

1節の「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者」とは、おそらくすでに戦争に負けた、北側の住民たちのことです。望まない戦争を戦わされ、被害にあい、家族の命が奪われ、財産や土地もすべて失い、人権が蹂躙された人々のことです。戦火にさらされた彼らは、暗い闇を生きるように、死を身近に感じたでしょう。しかしイザヤは預言をします。その人々は大いなる光を見ると預言します。光とは人生の希望です。残りの人生に希望が何もないと思える時も、神様が私たちに希望を見せてくれるということです。死に直面した、あるいはすでに死んでしまった人にも神様の希望が輝くと、ここでは約束されています。ここには「輝いた」と未来のことが過去形で記されます。それは実現が確実に約束されていることを示しています。強い約束、確実な約束として、光がある、希望があると記されているのです。神様はこのように戦争の起こる世界の中でも絶望せず、希望があることを私たちに伝えています。

2節、私たちには深い喜びが準備されています。それはたくさんの作物が収穫できた時の喜びに似ています。そのような心も体も満ち足りるような喜びが私たちを待っているのです。私たちが戦争で奪われたものが、もう一度自分の手に戻ってくるような喜びが私たちを待っています。

4節は重要な箇所です。ここでは軍事力の放棄が語られています。平和へと向かう時、兵士たちの靴や軍服は火に投げ込まれます。神様は軍隊の装備、武器をすべて焼き尽くすお方なのです。平和には武器も装備も必要ないのです。私たち人間は自分を守るためだと言って武器や基地を作ります。相手より強い武器を持っていることが最大の安心、抑止力、平和につながると考えます。しかし神様は違います。神様は武器装備をことごとく火に投げ込みます。武器では平和は作れない、必要ないと言うのです。ここには武器や基地がすべてなくなる約束がされています。これも焼き尽くされたという過去形の強い約束です。私たちには平和な世界と、武器と基地の無い世界が神様から約束されているのです。それを信じましょう。

5節「一人の赤ちゃんが、私たちのために生まれた。男の子が私たちに与えられた。」この言葉は新しく就任した王に対して、イザヤから平和への期待が託されています。よく見るとその王とは「私たちみんな」に与えられた王です。王とは特定の人の利益のために、自分のお友達の利益のためにだけいるのではありません。私たちみんなのために、民主的に与えられたのが王です。イザヤの願った王は絶対権力者でも、帝王でもありません。私たちのみんなの命と生活を守る、神の僕です。そしてそのような王は平和の君と呼ばれるとあります。そのような王が平和を実現するリーダーになるということです。イザヤは戦争に勝ちますように、戦争に勝つ強い王になりますようにとは祈っていません。イザヤは平和を実現する王を求めています。

6節その平和は正義と恵みの業によって支えられるとあります。正義とは正しいことです。そして恵みの業とは、恵みが誰かに偏って与えられるのではなく、みんなに与えられることです。それは偏りがなく、公平に与えられる様子です。平和とは戦争がないだけではありません。平和とは正しさと公平さが行き渡る場所で起るのです。神様はそのような正義と公正から、平和を成し遂げてくださるお方です。

神様はこのように平和を私たちに成し遂げると約束してくださっています。そしてイザヤはその約束がこの新しい王によって実現することを祈っています。新しい王に平和の実現のための器として、働くように呼びかけているのです。それが今日の聖書の個所です。イザヤの祈りはどこか平良修牧師の祈りとも重なるように思います。

私たちもこの世界と私たちの周囲の平和の実現について考えます。私たちは平和を大事にするリーダーを選びましょう。人はすぐに強いリーダー、戦争に勝つリーダーを求めるものです。しかし私たちは武器を捨て、正義と、公平さを持ったリーダーを選びましょう。そして私たちが選んだリーダーが平和を選ぶように祈り続けてゆきましょう。預言者イザヤや平良修牧師のように私たちは平和を祈ってゆきましょう。平和を祈り平和を実現する人を私たちのリーダーとしてゆきましょう。そして私たち自身が平和のリーダーとなってゆきましょう。武器を捨て、力を捨て、火に投げ入れ、正しさと公正さを持ったリーダーとなってゆきましょう。

私たちは1週間、自分の強さと勝利を求めるのではありません。私たちはそれぞれの1週間で平和を祈り、実現させましょう。暴力と力を焼き払い、正義と公正さ持ちましょう。そのために神様は私たちに知恵と力を与えて下さるはずです。

神様はそのようにして必ず地上に、私たちに平和を与えて下さいます。そのために祈りましょう。そして平和の実現のためにそれぞれの場所で働きましょう。今日はそのための平和祈念礼拝です。お祈りします。