【全文】「信じるために食べる」ルカによる福音書24章13~35節

みなさん、おはようございます。今日も共に集って礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの命の存在を確かめながら、共に礼拝をしてゆきましょう。

 

今月は主の晩餐について考えています。今日は信仰とは体験しないとわからない一面がある、信仰とは体験してこそわかるものだということについてお話をしようと思います。

 

私は若い頃、ソムリエを目指していました。ワインの味だけでなく、その世界観にも惹かれていました。ソムリエになるには、ペーパーテストとテイスティングの実技試験があるのですが、最も大切なのは、実際にワインを見て、香りをかいで、飲んでみることです。ワインのテキストにはこのワインはラズベリーやリンゴのような香り、あのワインはルビー色や黄金色といった表現があります。しかしこれらは実際に飲んで初めて理解できるものです。

 

一番大事なのはテキストを覚えて知識を持つことではなく、ワインを直接見て、香りをかいで、飲んでみる事です。これに勝ることはありません。「百聞は一見にしかず」のように、「百見は一食にしかず」です。実際に飲んでみないと味や香りはわかりません。

 

もちろん高いワインとなればただやみくもに飲むということはありません。いろいろ勉強してからじっくり飲みます。それでもきっと知識よりも飲んでみることが何より大事です。どんなに説明をされても味や香りは体験しないとわからないものだからです。

 

それはいろいろなことにも共通すると思います。スポーツや音楽、料理も知識だけではなく実際に体験してみなければ、わからないことがたくさんあるものです。

 

今日の聖書の個所もそのような事を教えていると思います。どんなに知識としてそれを知っていても、体験をしなければわからないことがあると教えています。そのことを聖書から見てゆきましょう。

今日はルカによる福音書24章13~35節までをお読みいただきました。今日の個所の登場人物は旅をする2人とイエス様です。この二人はおそらくエマオに住んでいました。二人はイエス様の噂を聞きつけてエマオからエルサレムに向かったのです。行いにも言葉にも力がある預言者がいると聞きつけエルサレムに向かったのです。この方こそイスラエルを開放してくださると思ったのです。そして二人はイエス様の話を人づてに聞くのではなく、直接自分の目と耳で確かめようとして、彼らはエルサレムに向かったのです。

 

彼らはイエス様に会って直接の話を聞くことができたでしょうか。その願いは十分に叶わなかったでしょう。体験することができなかったでしょう。その代わりに彼らが体験したもの、見たものは、イエス様の十字架でした。直接その話を聞き、力をもらいたいと思っていたのに、自分たちが体験し見たのは残酷な処刑だったのです。

 

しかし彼らはエルサレムに滞在中にもうひとつ不思議な話を聞きました。それは3日後の朝早く、弟子の女性がイエス様の墓に行ったところ、その遺体がなくなっており、天使たちが現れて「イエスは生きている」と言ったという話でした。イエス様が復活をしたという話を聞いたのです。

 

二人は、話を聞きたいと思っていた人が殺され、その後復活したという話を聞き、混乱したでしょう。理解できないままエマオに帰ることになり、十字架と復活の意味を論じ合いながら帰りました。

 

そんな彼らに復活したイエス様はそっと現れます。イエス様は光り輝いて登場するのではありません。イエス様の方から近づいてきて、一緒に歩くように、寄り添うように現れます。覚えておきましょう。私たちの神様はそのように私たちに現れるのです。私たちが良い行いをした時、強い光に包まれた華々しい存在が登場するのではありません。

 

願いが叶わず、出来事の意味が十分に理解できず、うつむき歩いて帰る時、神様はそっと近づいてきて、寄り添うように現れるのです。そのようにして神様は私たちに伴ってくださるお方です。このことを忘れないでいたいと思っています。

 

主の晩餐でもそうですが、イエス様がこのように人に他者に寄り添う人だったということを思い出すことが大事です。私たちの人生には苦しいこと、思いどおりにならないことがたくさんあります。そんな中でイエス様は私たちとそっと共にいて、励まし、導いてくださるのです。だから私たちは歩むことができるのです。そのことを覚えておきましょう。この物語の大切なポイントです。

 

今日はこの物語から主の晩餐について考えたいと思います。旅をする二人はイエス様のことをとても良く知っていました。二人がエルサレムの出来事を説明する様子はまるでキリスト教全体の説明のようです。彼らはイエス様とはどんな人か、どのように生き、どのように死んだのか的確にまとめられています。二人はイエス様のことをよく知っていました。しかし彼らはそれを知っているだけで、経験をしたことはありませんでした。

 

イエス様は旅路で二人に熱心に説明をしました。地上に生まれた救い主は、苦しみを受けた後に栄光に入ること、聖書全体にそのことが書いてあることを熱心に説明をしました。二人は何かを理解したのでしょうか。そうは書いてありません。二人はよく知っていました、二人は熱心な説明を受けました。しかしそれでもまだ彼らには変化が無いようです。

 

イエス様は彼らと食事をすることになりました。今度は二人がイエス様を引き留めました。先をいそぐイエス様を無理に引き留めて、一緒に食事をしようと招いたのです。30節に食事の様子が記されています。そこにはこうあります。「イエス様はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した」。ここでは明らかに主の晩餐が行われました。そうすると彼らは目が開けたのです。

 

二人の目が開けたとは、どんな意味でしょうか。二人は目が見えていなかったわけではありません。確かに見えていました。目が開けたとは、今まで見えなかったもの、わからなかったものが、わかるようになったということです。それが一緒に食べたその時に起りました。

 

一緒に食べた時、一緒にいるのがイエス様だと気づいたのです。彼らは事前に十分に学び、知識を持っていました。イエス様から直接、熱心に教えを受けていました。しかし彼らは目が開いていなかったのです。彼らの目が開かれたのは、主の晩餐を受けた時でした。

 

この特別な食事を体験して、二人は初めて気付いたのです。彼らが気づいたのは自分と一緒に伴っているのがイエス様だったということです。彼ら気付いたのはイエス様が復活をして私たちと共にいるということでした。二人はこの食事・主の晩餐を通じて、わかったのです。二人はこれに気付き、エルサレムの仲間の元に戻ってゆきました。それが今日の物語です。

 

この物語は私たちの主の晩餐とどんな関係があるでしょうか。私たちの教会の主の晩餐はバプテスマを受けた方に限定しています。それはイエス様のことをわかった人、すでに信じている人が食べているはずです。しかしどうでしょうか、今日の聖書箇所によれば、食べることによって信仰が深まるようになるのです。

 

私たちは信じて食べているのでしょうか。それとも食べることによって信じるようになるのでしょうか。私にはどちらなのかよくわかりません。どんなに知識として知っていても、食べなくては目が開かれません。私たちがイエス様を信じるためには知識だけではなく、パンを食べることも必要なのです。

 

私たちは信じているから食べるのでしょうか?それとも食べるから信じる事ができるのでしょうか?実はそれはどちらが先というものなのではなく、あいまいなのかもしれません。私は信じるために食べているような気がしています。

 

確かにこの二人のようにイエス様のことを良く知ってから食べるべきなのかもしれません。大切なイエス様の体です。その意味をよく分かってから食べてもらいたいと思います。でもこの二人はどんなに熱心に説明をしても、わかりませんでした。イエス様が直接説明してもだめでした。二人はこの食事を体験をするまでわからなかったのです。食べて初めて、食べたその時、イエス様のことがわかったのです。

 

この物語は私たちの主の晩餐ともきっと重なる部分があるでしょう。私たちは主の晩餐を勉強したから食べるのではありません。きっとどれだけ勉強をしてもわからないことがあるでしょう。食べてみなければわからないことがあるでしょう。そして食べればわかることがあるのでしょう。私たち自身もこの二人のような存在です。いろいろ知っているけれど、食べてわかるようになる存在なのです。このように今日の物語は、パンを食べる体験を通じて、イエス様がどんな人だったのかをわかったという物語です。

 

私は信じてからパンを食べるのか、パンを食べてから信じるのか、聖書はどちらの可能性にも開かれていると思います。私たちはどのようにパンを食べるでしょうか。私たちのあの小さなパンにどんな意味があるのでしょうか。私たちは信じているから食べるのでしょうか、食べるから信じるのですしょうか。きっと信仰とは体験しないとわからない一面があるのでしょう。信仰とは体験してこそわかるものなのでしょう。そのことに思いを巡らせながらまた主の晩餐をしてゆきたいと思います。

 

イエス様はきっとそのような迷いや混乱に伴ってくださる方です。あの出来事にどのような意味があるのか、二人は熱心に論じ合いました。論じ合うそのそばにそっと近づき、導いてくださるお方です。お祈りします。