【全文】「よく確かめてから食べる」 Ⅰコリント11章17~34節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さなこどもたちの命を感じながら、礼拝をしましょう。

今月は主の晩餐について考えています。そして教会の運営するこども食堂「こひつじ食堂」のことも分けては考えられないと思っています。

こひつじ食堂で一番混乱するのは、ご飯(ライス)がなくなったときです。次のお客さんの分が足りないとわかってから、お米を研いで、炊飯ボタンを押しても、もう間に合いません。1時間後にご飯が足りるかどうかを逆算しなければいけません。もしご飯がなければ食べに来てもその食事は台無しです。

200人でどれくらいのご飯を準備すれば良いのでしょうか。一人180gのご飯を食べるとします。180gを200食用意すればいいので、36kgのご飯があればいいのです。お米は炊飯すると水を吸収して2.3倍の重さになるということから逆算すると約16kgのお米が必要です。お米は1合150gなので、16kgのお米は104合です。104合炊けば足りる計算です。だいたいでは準備できない数量です。

教会には1升炊きの炊飯器が8個あります。ですから11回炊飯すれば良いのです。しかし1升炊きの炊飯器でも9合くらいの方がおいしく炊けることが分かりました。8個の炊飯器で9合ずつ12回炊飯します。さらに微調整が必要です。220食の時はもう1回炊飯します。180食の時は1回減らします。実際にご飯を盛り付けるときには、目分量で盛り付けると必ずずれがあるので、一つ一つ180gを測りながら盛り付けています。

ここまで計算して準備しても時々ご飯が足りなくなってしまう時があります。確認を忘れてしまっている時、一人でやっている時、後回しにしてしまった時、それが起きます。そんな時は待たせてしまったり、少なくなったりして申し訳ない気持ちでいっぱいになります。これはお米の話ですが、食材ひとつひとつにもこのように注意しなければいけないことがたくさんあります。

何が言いたいかというと、それだけ良く確かめながらやっているということです。配慮をしているということです。全員が楽しく食べるためには、きめ細かい確認と、配慮が必要です。だいたいの人が食べれればいい、一部の人だけ食べればいい、食べられなかったらごめんなさいというのなら簡単です。でもそれをせずに全員で一緒に食べようとする時、様々な確認と配慮が必要です。

ご飯が足りるかどうかは私だけではなく、みんなで気にかけています。私一人では目が行き届かないことが多く、たくさんの人に良く確かめ、気にかけてもらう必要があります。残りがあとどれくらいかを良く確かめて全員分ある、大丈夫だということを確認しながら進めています。みんな自分の分があるかを確かめているのではありません、全員分、足りるかどうかを確かめながら食堂をしています。それはとても大切な配慮だと思います。

今日は聖書の食事の中にどんな配慮があったのか、無かったのかを見てゆきます。そこから聖書が伝えている配慮と、私たちが他者に目を向けてゆく生き方について考えたいと思います。

 

今日はⅠコリント11章をお読み頂きました。ここにはコリント教会での食事についての記録が残っています。コリント教会では礼拝の後、みんなで持ち寄りの食事会を行っていました。これは垣根のない、誰でも参加できる食事会でした。当初はこれを主の晩餐と呼んでいました。

この食事会は、イエス様が罪人や他の宗教の人々と共に食事をしたように、異なる者同士が互いを大切にする愛の確認の場でした。しかし、ここで問題が発生していました。パウロは17節でこの点を指摘し、良い結果ではなく悪い結果が生じていると述べています。それはどんな問題かというと21節、食事の時に先に食べて、先に飲んでしまう人がいたという問題でした。後から空腹の人がやって来る時には、食べ散らかした残り物しかないという状態でした。パウロはこの点を褒めることはできないと言っています。コリント教会では食事の際に、全員分が足りるかという配慮が全くなく、自分の事だけを考えて食事をしていたのです。少し驚きです。

さらにこのような食事の背景には経済的な格差があったのではないかと言われています。コリント教会の中には、お金持ちの人と貧しい人がいました。お金持ちは仕事を早く終わらせて、おいしいものをたくさん持って来て、先に楽しくやっていたのです。

そこに後から忙しく働かなければいけない貧しい人が来ました。しかし食事に加わろうとすると、食べ散らかした中で余り物を食べました。あるいはもう自分の分は残っていなかったのです。22節これでは貧しい人々は恥をかきました。

コリント教会ではこのような食事会が行われており、それをパウロは注意をしています。食事会をするならば全員が食べることが出来るように、食事の量や内容や、持ち方を良く確かめて、配慮しなさいと言っています。

コリント教会の人はどうすればよかったのでしょうか。パウロはどのような食事を期待したのでしょうか。例えば33節で提案されているのは、みんなが揃うまで待つという方法です。他にも例えば後から来た人の分が食べ残しにならない様に、ちゃんと先に取り分けておいて残しておくというのはどうでしょうか。最初にいる人だけで乾杯をしたのなら、後でまた全員が揃った時もう一度乾杯をしてはどうでしょうか。そういう確認や配慮や工夫は今の私たちには当然のことのように感じます。しかしコリント教会にはそれがまったくなかったのです。

どうしてそのような雰囲気になってしまったのでしょうか。仲間割れが起きてしまったのでしょうか。みんな我先にと食べたのでしょうか。自分の分だけにしか興味がなかったのでしょうか。コリント教会は誰が食べられないのかに対して良く確かめずに食べていました。自分だけ食べてしまう、その根底にはどんな考えがあったのでしょうか。

きっとそこには他者への無関心や無理解があったでしょう。きっとコリント教会の問題は食事会のことだけではなかったはずです。そのような食事をする共同体の中には、忘れられている人、一人になっている人、見下されている人、後回しにされている人がたくさんいたはずです。様々な問題がおきていたはずです。

パウロはそのような共同体になっていないかよく確かめるようにいっています。そのような、後回しにされた仲間がいないかという確かめ合いと、配慮が出来ないのであれば、もう一緒の食事会はやめるようにと言っています。自分の家でそれぞれ食べてから集まるようにしなさいと言っています。実際にこの後コリント教会の人々は一緒に食事をすることを諦めてしまいました。そして主の晩餐は小さなパンとワインを飲む儀式として改めて残ってゆきました。それが私たちの今の主の晩餐のルーツです。

パウロがここで伝えようとしていること、聖書が伝えようとしていることは何でしょうか。ここでは主の晩餐を自分の内面や罪深さと深く向き合って、よく確かめてこのパンを食べる様にと言っているのではありません。

ここでよく確かめるべきことは、他の人との関係性です。他者のことを考えながら食べる様にと言っているのです。自分の食べ物、自分の事、自分の罪を考えて食べるだけではなく、他者の食べもの、他者の事、他者への配慮をよく確かめて食べる様にと言っているのです。ここにどんな他者がいるのか、どんな他者がいないのかをよく確かめてから食べなさいと言っているのです。

パウロはイエス様がどのように人々と食事をしたのか思い出そうと言っています。自分がこれから十字架に掛かるという時において、イエス様が一緒に食事をしたのを思い出そうと言っています。あの時イエス様は十字架の後も互いに仲間であると確認し、その記念として食事をしました。そしてそれを繰り返すように教えたのです。

パウロはふさわしくないままで食べてはいけないとあります。わたしたちはどこまで、その食事にふさわしい者でしょうか。私は自分自身をふさわしくないと思っています。周りの人を良く確かめて配慮することがまだまだ足りないと思っています。そのような中でも、主の晩餐を食べるのですけれども、のども通らないような気持ちで食べています。

私たちはどのように主の晩餐を食べ、生きるでしょうか。私はふさわしい者になりたいと思っています。食べ物が全員にいきわたる配慮ができる人になりたいと思っています。食事の時だけではなく様々な場面で、忘れられている人、一人になっている人、後回しにされている人がいないかに目を配り、よく確かめたいと思います。それは難しい事だと思います。でも精一杯それをしてゆきたいと思います。それが今日の聖書箇所が指し示している生き方ではでしょうか。

ひとりも取り残されず、ひとりも忘れられない、そのようによく確かめられ、配慮された共同体が神の国と呼ばれるのではないでしょうか。私たちは今週1週間、それぞれの場所でそれをよく確かめて生きてゆきましょう。神様はそのようにして私たちのいる場所に働き、導いてくださっています。お祈りします。