【全文】「命こそ宝 平和への方向転換」使徒言行録16章16~34節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できることを主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も命の声に囲まれながら礼拝をしてゆきましょう。

今日6月23日は79年前、沖縄で組織的な戦闘が終わった日です。私たちはこの日を「命どぅ宝の日」と呼び、平和を考える時として大切にしています。79年前、沖縄では激しい地上戦がありました。その時、軍隊や武器は国民を守りませんでした。日本軍は自分が助かるためなら一般市民でも殺しました。それが軍隊の本当の姿です。沖縄の人々は激しい地上戦の中で、洞窟に逃げ込みました。そしてそこで、どう死ぬか、どう殺すかでなく、どうやって命をつなぐかを考えました。彼らは洞窟の中で「命どぅ宝」「命どぅ宝」、命こそ宝だと互いに励ましあい、何とかして生きようとしました。

「命こそ宝」「命こそ宝」。暴力が充満し、殺すか死ぬかの選択肢しかないと思える場所で、沖縄の人々は生きるという選択をしました。生き残った人は決して多くありませんでした。だからこそ、命こそ宝と言う言葉は私たちに問いかけています。私たちは暴力か平和かどちらかを選ばなくてはいけません。暴力を選びながら平和を目指すことはできません。平和のための暴力も存在しません。

沖縄にはあの時から今も大きな基地がいくつも存在します。私たちは普天間、辺野古を含めて沖縄、日本、世界のすべての基地がなくなることを祈り願っています。それが平和の神様の御心だと信じています。

沖縄の普天間基地の前では毎週月曜日、クリスチャンが集まり讃美歌を歌っています。基地の前で暴力ではなく平和が欲しいと歌っています。基地の騒音と犯罪に苦しみ、平和を求める人たちが歌っています。私たちも神を信じる同じ人間だと讃美歌を歌っています。基地の前で神に向けて、兵士に向けて讃美歌を歌っています。それに呼応して戸塚駅の駅前でも月1回、第二月曜日に讃美歌が歌われています。沖縄だけの問題にしないために戸塚駅のコンコースで讃美歌を歌っています。私も何回か参加しています。

なぜ讃美歌を歌うことによって基地反対を訴えるのかとよく聞かれます。もっと効果的な方法があるのではないかと言われます。確かに、大きな基地に対して歌を歌うことにどれだけの意味があるでしょうか。基地問題に対して非常に小さい行動です。でも賛美歌を歌っています。世界に平和に目覚めて欲しいと願って讃美歌を歌っています。神様が必ずそれを実現させてくださると信じて歌っています。世界の人々に暴力ではなく、愛と平和を選んで欲しいと願って歌っています。歌い続けることで神様がきっと軍隊のない世界、平和な世界を実現させてくださると信じて歌っています。

私はこの世界からすべての軍隊と基地がなくなることを願っています。それは聖書の教えるイエス・キリストの平和です、私たちはあらゆる暴力のない、イエス・キリストの平和を模範とします。イエス・キリストの平和には戦争も軍隊も基地も一切必要ありません。暴力によって平和は実現できないからです。軍隊のいない世界、暴力の無い世界がきっと作り出せるはずです。神様がその力を私たちに下さるはずです。小さな行動でも私たちは軍事力に反対をし、暴力の無い平和を求めてゆきたいと思っています。今日は神様の示す平和と、平和を目指す生き方について考えたいと思います。

使徒言行録16章をお読みいただきました。今日の聖書の個所は、イエス様が十字架で死に、3日後に復活した後の物語です。弟子のパウロは、このイエス・キリストが私たちの生き方の模範だと世界中に伝え歩いていました。イエス様が教えた事はたくさんありますが、平和もその一つです。世界が隣人を愛し、敵を憎めと教えている中で、イエス様は敵を愛しなさいと教えました。敵と思える対象とも互いに愛し合う様に教えたのです。この平和の教えは世界中に広まってゆきました。そしてその平和の教えを世界に広めていた弟子がパウロとシラスでした。

16節、パウロはある時、女奴隷の占い師に会いました。彼女は占いで自身の生計を立てていたのではありません。その利益はほとんどは主人が持ってゆきました。彼女は主人の商売道具として、暴力的に搾取されながら、奴隷として占いを続けなければなりませんでした。この占い師はパウロを見た時、彼のことを大声で周囲に伝えようとします。「この人は救いを、イエスの平和を宣べ伝えている」と叫びます。幾日もそれが続き、パウロはたまりかねて「出て行け」と言いました。そうすると女奴隷はそれ以来、主人の金儲けのための占いが出来なくなってしまいました。主人は商売道具を使えなくされたことに怒ってパウロを訴えました。そしてパウロは鞭うたれ、牢獄に入れられることになりました。

牢獄に入れられること、それは暴力のただなかに放り出されるという事態でした。パウロは何度も鞭に打たれ、牢に投げ込まれました。足には足かせをはめられ、自由を奪われました。一切の抵抗ができない状態です。そして暴力の象徴である武器・剣もった看守がそれを見張っていました。暴力がすべてを支配する場所に投げ出されたのです。暴力が支配する牢獄の中で、パウロとシラスは何をしたでしょうか。脱獄するためにどうやって看守を殺そうかを考えたでしょうか。何か武器になるものを探したでしょうか。戦うための準備をしたでしょうか。

そうではありませんでした。彼らはなんと歌いました。暴力に支配される世界の中で歌を歌いました。暴力の渦巻くその中にいながら、彼らは暴力によって状況を変えようとしませんでした。彼らが選んだのは歌を歌うということでした。他の囚人はその歌に聞き入ったとあります。牢獄にはきっとパウロ達と同じ様に、無実の罪を着せられ暴力によってここに閉じ込められている人が多くいたのでしょう。彼らが聞き入ったのはきっと平和を願う歌、自由を願う歌、神様への感謝の歌だったでしょう。でも牢獄で歌って何になるでしょうか。圧倒的な暴力に対して歌を歌って何になるでしょうか。でも彼らは歌いました。その歌から、賛美から奇跡が起こされてゆきます。

地震が起きました。地震は神様が起こす奇跡の象徴です。何かが起こり、牢が開きました。彼らは逃げることができるようになったのです。看守は囚人が逃げ出してしまったと思い、自死を選ぼうとします。これまで武器で、暴力で人を支配してきた看守は、行き詰った時、とっさに選んだ方法はやはり暴力でした。再び力をもってこれを解決しようし、今度は自分への暴力を選びました。彼には殺すか殺されるかしか選択肢が無かったのです。しかしパウロはそれを止めます。死んではいけない、どんな命にも暴力を向けてはいけないと教えたのです。

本当に暴力に支配されていたのは誰でしょうか。それはパウロではなく、看守の方です。看守は武器を持って、暴力で人を支配したつもりになっていました。そして暴力以外の解決方法を知りませんでした。そのように暴力に支配されていたのは看守の方です。看守はパウロに死んではいけないと言われて、たった今そのことに気づきました。そしてパウロに救いを求めました。それは暴力の支配からの救い、平和の願いだったはずです。

パウロは、死んではいけないと言います。私にはこのパウロの行動が「命どぅ宝(命こそ宝)」という言葉に聞こえます。それは平和を望む言葉です。死んではいけないとは、命こそ宝だという姿勢です。命こそ宝です。どんな暴力もあなたを支配することはできない、あなたはどんな暴力をつかっても誰も支配できないという意味です。それは暴力によって命を守ることはできない。平和を求めて、生きようという言葉です。そして看守はそのイエスの平和の福音に救われてゆきます。看守はそれまでの生き方を大きく方向転換します。

彼はパウロの傷を洗いました。彼は暴力で支配してきた態度から、他者の傷の痛みを知り、共感をするものとなったのです。それは暴力から愛への転換でした。敵を愛しなさいという教えの実践でした。彼はバプテスマを受け、そして食事を共にしました。暴力で支配してきた者と同じテーブルで食事をしたのです。看守はこのような転換をしました。相手を暴力で抑えつけ、痛めつけ、支配することから、相手の痛みと傷を知り、いたわり、対等に関わるように転換したのです。平和への方向転換です。

このような転換は人間によってはなかなか起こらないものでしょう。神様によって起こされた出来事です。私にとってこの物語の最大の奇跡は、地震で扉が開いたことではありません。彼がこのように平和を求めて生き方を変えことが、もっとも大きな奇跡です。それは神様を賛美し祈ることがきっかけとなって起きた奇跡でした。私たちもこの看守のような、暴力から愛への転換をしたいと願います。私たち自身に、私たちの世界全体に、暴力から愛への転換が起こって欲しいと願います。それは命どぅ宝の転換です。命こそ宝とする転換です。平和への方向転換です。

神様はどのように世界の平和を実現させてくださるでしょうか?今日の個所によればそれは平和を求める賛美を歌うこと起りました。神様が平和を実現させてくださいます。それを願い賛美しましょう。世界が暴力を辞めて、愛に目覚める様に神様に求めましょう。私たちにできることは賛美歌を歌うことです。神と人に向けて平和の賛美歌を歌いましょう。

沖縄からまずその歌が聞こえます。私たちの賛美から世界に平和が広がるように祈ります。平和こそ宝、命こそ宝であることが伝わるように祈ります。お祈りします。