【全文】「神が与える調和」使徒言行録15章1~21節

 

みなさん、おはようございます。今日もこうしてみなさんと共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの命の声に包まれながら礼拝をしてゆきましょう。今日は物事を決める時、妥協、調和、折衷を大事にしてゆこうということを考えたいと思います。

 

今日は私たち平塚バプテスト教会の創立記念礼拝です。私たちの教会は1950年に神様に導かれ創立され、74周年を迎えることができました。74年間も続いたのは本当に神様のおかげです。とても私たち人間だけではこの教会を続けることが出来なかったはずです。今日は私たちがこの教会に来る前からずっと、神様の働きがあったことを実感する日です。

 

74年間、この教会は多くの困難を乗り越えてきました。初代長尾先生の後の混乱と分裂、小田原伝道所の問題を経験しました。土地の問題もありました。私たちはこの土地を購入して代金を払っていましたが、名義の変更がされていませんでした。そのことで土地と建物すべてを失う危機もありました。しかし不思議な力に守られて74年間ここに建ち、礼拝が続いています。

 

74年間、本当に多くの課題があり、そのたびに熱心に議論がされました。バプテストは民主的に話し合って決めることを大切にしています。話し合いは確かに疲れるものです。みんなで考えるよりも誰かが決めてくれた方が楽です。でも私たちは多くの困難を話し合うこと、互いの理解を深めることで乗り越えてきました。

 

そしてこれからの私たちも大きな決断のための議論を控えています。土地の一部を売却し、建物を修繕する計画があります。現時点ではまだそれができるかどうかもわかりません。しかし、これは間違いなく教会が始まって以来の大仕事になるでしょう。

 

教会の建築を経験した人たちは口々にその苦労を語ります。ある教会では予算を巡って議論が過熱します。自分達はいくらの予算をたてるのか、お互いの経済事情を知らずに決定をしなければいけない苦労があります。それぞれの教会への新しい期待がぶつかり合います。ある教会は資材費の高騰で当初予算より大幅な支出をしなければなりません。私たちもこれから、そんな議論をしてゆかなければなりません。私たちが信仰を守るためには、どうしてもこの教会・建物が必要だと思います。そのための議論です。

 

私たちは老朽化に対応し、時代や環境の変化に対応し、それぞれの考えの違いを尊重しながら前に進まなければいけません。想像するだけで大変ですが、もし神様の計画ならば、そしてこの地にこの教会が必要とされ続けるならば80年、100年と続くための計画が成し遂げられてゆくはずです。74年間この教会が守られてきたことに感謝しながら、これからの議論を拡げてゆきたいと思います。

 

物事を決めてゆく時、大事なことは、時に妥協し、調和し、折衷案を持つことだと思います。それぞれの信仰と違って、建築はどうしても、最終的には一つの形にならざるを得ません。全員の要望を盛り込むことは難しいのです。私たちも大きな議論をするとき、互いに妥協し、調和し、折衷案を持ち前に進んでゆくことを覚えておきましょう。今日は聖書に記録される会議もそのような出来事です。聖書を読んでゆきましょう。

 

今月は使徒言行録を見ていますが、今日はその中でも15章にあるエルサレム会議と呼ばれる場面をみてゆきたいと思います。

 

先週からもお伝えしている様に、初期のキリスト教には二つのグループがありました。ユダヤ教の律法を重視するグループと、そうでないグループです。それぞれに熱心に信仰生活を送っていました。この二つのグループは決して対立をしていたわけではありません。時に互いに無関心だった時もありますが、人や献金を送ったりする良好な関係でした。今日の個所の3節にもあるように、何か互いに良いことがあれば、その恵みを喜び合う関係でした。ただユダヤ教の律法の実践を巡っては大きな隔たりがあったのです。

 

律法を重視する人も、これをやらないと地獄へ行ってしまうと思っていたわけではありません。神様の恵みに感謝して、律法を誠実に実践していました。多くの人はその実践は自由だと考え、絶対に他の人も実践をしなければいけないと思っていたわけではありませんでした。

 

しかし一部には、すべての人が、すべての律法を守るべきだと主張する人もいました。1節にある主張です。男性器の皮を切り取る、割礼までもすべきだという主張をする人までいました。

 

どこまで律法の実践を求めるべきか、二つのグループは意見が分かれていました。一部の人のように、すべては求めないにしろ、どこまでを求めるかが議論になりました。もう私とあなたは違う、それぞれ思い思いにやればいいとは思わなかったのです。何か最低限の一致できるはずだと考えたのです。

 

その妥協点を探るために、エルサレムで会議をすることになりました。このエルサレム会議はどちらが正しいか決着をつける会議ではありません。この会議は、どうすればキリストの弟子として一致し、仲間であり続けられのるかを話し合うために持たれたのです。別々の宗教になるのではなく、どこかで最低限の一致ができるはずだと考えて会議が持たれたのです。

 

会議はまず、律法を重視しないグループを見てきたペテロの報告から始まります。ペテロ自身ももともとは律法守っていた人です。しかし彼はいままでの立場に固執せず、律法を重視しない人々を好意的に受け止め、報告をしました。

 

ペテロは8節でこう報告します。私たちが神様から信仰を与えられたように、彼らにも神様からの信仰が与えられています。私たちが神様に受け入れられている様に、異邦人も神様に受け入れられています。神様はきっと彼らを差別しないはずです。神様はその恵みによってみんなを救うはずですと報告をしました。それはこれまで律法を重視していたペテロが、自分とは違う他者のあり方を認める報告でした。

 

それを受けて律法重視のグループの代表ヤコブが発言します。それは旧約聖書を引用する伝統的な姿勢です。しかし同時に引用した聖書箇所は律法を重視しない人も尊重する箇所でした。そしてヤコブは決断をしました。19節、ヤコブは律法を重視しないグループをこれ以上悩ませないと決断をしたのです。そして20節の決め事が発表されました。

 

決定の内容は端的には4つでした。これはレビ記に基づく伝統的にユダヤの律法を重視する人が守ってきたことの一部でした。そしてこの4項目以上の事、特に割礼は求めないという寛容な決定でした。

 

4つの決定を見ます。使徒教令ともよばれますが、ひとつはみだらな行いです。性的暴力や性的搾取をしないようにという教えです。現代にも通じます。そして残りの3つは食べ物に関する取り決めです。他の宗教の祭儀で使われた肉、ユダヤの祈りをせずに屠った肉、生焼けで血の滴る肉、それらを食べないようにという取り決めでした。

 

さらにおそらくこれは律法を守る人とそうでない人が一緒に食事をする時の決まり事でした。一人の時、律法を重視しない人だけの食事の時は、自由にいままでの習慣どおりに食事をしたでしょう。ただし、律法を重視する人と一緒に食事をするときにおいては、ユダヤの習慣を尊重するように、配慮をするようにと決められたのです。一緒に食事する時は食べられない人に配慮をしてください、それ以外・それ以上は求めませんということを決めたのです。うまい妥協点だと思います。

 

そしてこの決定は調和を重視しています。別々にいるときは自由だけれども、一緒に食事する時のルールが定められたのです。一緒に食事ができるようにルールが決められたのです。これは最小限の一致でした。一緒にいる時は、律法を守る人に合わせるという折衷案でした。

 

聖書を読み進めてゆくと、31節にその協議の結果を聞いて人々は喜んだとあります。そしてそれは彼らにとって励ましに満ちた決定だったとあります。その妥協案、折衷案、調和重視の案によって温かい一致が生まれたのです。

 

そこに絶対に律法を守り抜くという筋の通った考え方は無かったかもしれません。しかしそれはどちらかに合わせるのではなく、互いの言葉を聞き、互いを尊重し、互いに苦しまないための、両方が喜ぶことのできる決定でした。後から来た人が苦しむものではなく、今までいた人が否定されるものではなく、互いを否定、排除しない決定となったのでした。よい決め方だったと思います。

 

その会議には神様の力が働いたのでしょう。神様が知恵を与えたのでしょう。神様はこのようにして、共同体を導いてくださるお方です。互いに話し合い、互いを聞き合い、折り合いをつけ、私たちを結び付けて下さるのが、神様の働きなのです。それは人が決めたことのように見えるかもしれませんが、神様に導かれたのです。私たちの歩んだ74年間もそれが起り続けて、私たちは今に至るのです。

 

創立記念の時、これから起きる様々な議論に心を準備したいと思います。その時今日のエルサレム会議を覚えておきましょう。私たちは互いが自由です。そして神様が互いを受け入れていることを覚えておきましょう。私たちはそれぞれ感じ方、考え方が違います。大きなことから、小さなことまでいろいろ違います。そんな私たちがどうやって大きな決断をしてゆけるでしょうか。神様が導いてくださって、きっと互いに妥協し、調和し、折衷となる選びが示されてゆくはずです。

 

エルサレム教会では互いを尊重し、互いに苦しまない決定が選ばれました。それは誰かの喜びと励ましになる決定でした。私たちもこれからそのような選びへと導かれてゆきましょう。お祈りをいたします。