【全文】「愛は骨折り損」使徒言行録11章19~30節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもの声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。今日は無償の愛について考えたいと思います。

私が平塚教会に来て5年、前の先生からホームレスの支援を引き継いでいます。ホームレスの支援をしていると、この支援をしても自分にまったく得がないと思うことがあります。5年間関わり、支援をしてきたホームレスの方がいます。彼は平塚の海岸の砂防林の中で、10年以上テントを張って生活をしています。先日彼は、体調を崩し救急車で市民病院に運ばれました。退院後にテント生活を続けるわけにもいかず、病院を訪ね、新しい施設へ入居する手伝いをしました。しかし数か月後、施設を抜けだし、彼はまた海岸のテントに戻ってきてしまいました。施設で何かすれ違いがあったようです。

さらに数か月後、平塚教会の炊き出しで、やっぱりホームレスを辞めたいと言ってきました。私は半信半疑で本当にホームレスを辞める意思があるかどうか、何度も確認しました。彼はどうしてもホームレスを辞めたいと言います。私は苦労して、再び住む場所を探しました。今度はすれ違いが無いように、事前に一緒に施設を見学し、この部屋で大丈夫かどうか確認し、本人がその施設に住みたいと言うので、その施設を紹介しました。引っ越しの日はもう戻って来ないと約束し、一緒にテントを撤去し、車で送り届けました。しかし、最近また海岸に戻ってきてしまいました。まだ詳しくはわかりませんが、何か嫌なことがあったようです。もうそろそろ関わるのを辞めようかとも思います。

しかしホームレス支援ではよくあることです。時間とお金をかけても、思うような結果にならないことが多くあります。「こんなことをしても1円にもならない」と何度も思ったことでしょうか。骨折り損のくたびれもうけとはまさにこのことです。これは自分にまったく得のないことです。いつでもやめてよいことだと思っています。続けるかどうかについて、私には自由があると思っています。でもなぜかなかなか辞めることができません。不思議と彼を見捨てることができません。腐れ縁かもしれません。もしかするとキリスト教の視点からは、これこそが無償の愛なのかもしれません。いつか私にお返しがあるはず、いつかやりがいと満足感があるはず、いつか感謝と賞賛があるはず。そう思いながら活動をするなら、無償の愛ではないのかもしれません。

本当に何も得がないからこそ、愛なのかもしれません。この愛を本当に続けてゆけるかどうかはわかりません。でももし神様が私に、命にかかわる大事な活動だと示してくださるのなら、続けることができる、そう思っています。そう示されなければ続けることができないと思っています。

みなさんにも人生の中で、一切自分に得が無い、そう思っていても何かをした、あるいはせざるを得なかったということはあるでしょうか。きっとみなさんにもそんな経験があると思います。自分に一切得がないにも関わらず、それでも他者のための苦労する、もしかするとそれこそが本当の愛なのかもしれません。今日は聖書からアンティオキア教会の無償の愛を見てゆきたいと思います。

 

 

 

今日は使徒言行録11章19~30節をお読みいただきました。今日の聖書箇所の背景にある3つのグループを図で紹介します。イエス様の死後、エルサレムには3つのグループがありました。一つは主流派・保守派であり、伝統的なユダヤ教のグループです。熱心に戒律を守って生活をしていました。2つ目はナザレ派とあります。生前のイエス様の教えを信じ、キリストの弟子として生きながらも、ユダヤ教の戒律を守りながら生活した人のことです。ユダヤ教ナザレ派と呼びます。ヤコブやペテロがこのグループでした。そして3つ目はキリストの弟子としてユダヤ教を抜け出ようとしたグループです。後のキリスト教となるグループです。後から加わった外国人も多かったこのグループは、戒律をあまり重視しませんでした。

エルサレム市内ではユダヤ教の戒律を守るべきだという対立がありました。ある日その対立が表面化し、主流派がキリスト者のグループへの排除・虐殺を開始しました。後のキリスト教となるグループはエルサレムに残ることができず、世界に散り散りに逃げてゆきました。それが1節にあるステファノの事件です。エルサレムで殺されそうになり、逃げ出した人々が中心となってアンティオキア教会を作りました。そしてその教会に加わる人が増えていったのです。その噂はエルサレムに届くほどでした。

ナザレ派は23節アンティオキアで始まった新しい運動、後のキリスト教の様子を確かめることにしました。派遣されたバルナバはその教会に到着し、神様の恵みに驚いたとあります。そして29節、ある時、エルサレムで飢饉が起こります。それに対してアンティオキアの教会はこのナザレ派に対して援助の品を送りました、経済的な支援をすることにしたというのです。それが今日書かれている物語です。

この構図から感じることを挙げます。まず迫害・虐殺が起きた時ナザレ派は一体何をしていたのでしょうか。イエスを主と信じる仲間が殺されそうになり、逃げ惑う時、ナザレ派はどのように行動したのでしょうか。ナザレ派がこの迫害と虐殺に反対した様子が記録にありません。もしかすると彼らは「関わって得はない」と感じたのでしょうか。「自分達のことではない」「律法を守らない人が悪い」と思ったのでしょうか。彼らはなぜ反対せず、仲間を見捨ててしまったのでしょうか。

これは人間の罪が現れているかもしれません。身内の安全が守られている限りは声を上げなかった罪、自分達には関係ないと問題から目をそらした罪、自分の命が無事ならいいという罪、あの人たちは殺されてもしょうがないと思う罪です。イエス様を十字架につけた罪もそうです。その罪のため、多くの人が死にました。

一方、キリスト者のグループの行動をみます。彼らはエルサレムで飢饉が起きた時、経済的な援助をそれぞれの力に合わせて行いました。しかしこの行動は驚くべき行動です。以前ナザレ派は自分たちを助けてくれませんでした。あの時無関心でした。そのような過去の関係があったにも関わらず、アンティオケア教会はナザレ派を支援したのです。

彼らに何の得と、どんな義理があったでしょうか。何もありません。でも彼らは自分たちだけの安全を考える人ではありませんでした。あの時自分たちのことを助けてくれなかったけど、でも支援の品を送った。きっと記録に残るくらいのたくさんの品、多額の献金をアンティオケアからエルサレムのナザレ派に送ったのでしょう。あの時、自分を助けてくれなかった人たち、見殺しにした人たちに支援の品を送りました。惜しみなく財産を分かち合ったのです。それがアンティオケア教会の愛だったのです。

それが私たちの教会のルーツとなってゆきます。それは助けてくれたから、お返しに助けるという行動ではありません。それならば助けるのはある人として意味当然です。しかしここではあの時、助けてくれなかった人、関係ないと無視された人、その人を助けたのがアンティオケの教会だったのです。彼らは自分達が良ければいい、自分たちに危害が及ばなければいいとは考えませんでした。自分たちの得にならないことも進んで行ったのです。それがアンティオキア教会の愛でした。それはこちらが一方的に骨を折ることでしたが、それこそ無償の愛だったのです。

自分の利益とは関係なく、惜しみなく与えるのが愛です。アンティオキア教会ではそれを実践していたのです。それは困った時はお互い様を超える、相互扶助ではない、一方的な愛でした。23節でバルナバが見て感動した雰囲気はこの愛だったのではないでしょうか。バルナバが恵みだと感じたのは、人数の増減よりも、他者への無償の愛の姿勢でした。バルナバはその愛を見て、神の恵みを感じたのではないでしょうか。その愛の姿勢こそがキリスト教が世界に広がった原動力だったのではないでしょうか。

さて、私たちの教会もアンティオキア教会のようになることを願います。それはこの教会が良ければよい、この教会がうまくいけばよいという態度ではありません。いつかお世話になるかもしれないから助けるのでもありません。キリスト教の愛は相互扶助ではありません。たとえ今までもこれからも助けてもらえなくても助けるのが、キリスト者の無償の愛です。援助を必要とする人に、無条件に惜しみなく助けるのが愛です。そのようなアンティオキアの無償の愛は、きっと神様をよく証ししたでしょう。それを実践する人がキリスト者と呼ばれたのです。

私たちも同じキリスト者です。無償の愛を私も実践したいと思います。それはこれまでのわだかまりのある関係を超えた愛です。無関心を超える愛です。助けられたから助けるのではない愛です。ただ一方的な支援、教会や自分の損得ではない愛、愛されなくても愛す愛です。そのように神の愛を具体的に実践するとき、新しい生き方は神様の力によって自然と広がってゆくのでしょう。

私たちも教会でも、私たち一人一人でも無償の愛を大事にしてゆきましょう。それは骨折り損かもしれません。でもきっとそれこそが愛なのでしょう。そしてそれこそが神様の愛をもっともよく示す行動なのでしょう。それぞれの一週間があります。他者のために骨を折り、無償の愛を実践してゆきましょう。お祈りいたします