【全文】「風に吹かれればいい」

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日も大人もこどもも一緒に礼拝をしましょう。先月と今月は初めてキリスト教に触れる方に向けて話をしています。

私たちは毎週日曜日の午前中にこの礼拝という集会を持っています。牧師である私の務めは、毎週の礼拝で聖書の話をすることです。毎週15分ほどのお話をしていますが、実は準備するのが大変です。どんなに頑張ってパソコンにかじりついても、参考書を読んでも、うまくいかない、何かが違うと思う時があります。この勤めを毎週果たし続けるには、みなさんの日頃の祈りと支えが必要です。そして何より神様の導きが必要です。とても自分の力だけではできません。どうしてもうまくいかない時どうしているかと言うと、そんな時は風に吹かれてみることにしています。教会の中庭にはハンモックがありますが、行き詰まった時はハンモックに揺られます。空を見上げながら、風に吹かれながら、何かが違うなぁ、うまくまとまらないぁ、うまく言葉にならないなぁ、どうしようかと思いを巡らせます。そやって風に吹かれていると、時々新しい言葉がひらめいたりします。風に吹かれると、変えるよりもこのままの方がいいかなと思ったりもします。風に吹かれると、やっぱりこの方向性はダメ、やり直そうと思ったりもします。風に吹かれながら、神様の導きを求めています。

今日は新しい仲間の信仰の言葉を聞きました。新しい仲間が増えることは大変うれしいことです。心から歓迎をします。今日のためにご自身の信仰を紹介する言葉を準備してくださいました。きっとこの言葉を紡ぐのも大変だったでしょう。そしてきっとそこにも神様の導きがあったでしょう。この告白ではっきりしていることは、神様は人間の力を超えて、不思議な力で、私たちを教会へと呼び集めるのだということです。

私たちの人生も同じでしょう。私たちの人生の行く先は、神様が導いてくださるのです。神様はまるで私たちの背中を押すように、私たちを信仰へと送り出してくださいます。それはまるで追い風を受けている様です。風が私たちを押し出します。それが神様からの風です。神様はそのような風を私たちに吹かしているのです。神様が私たちを導くとは、神様の吹かす風に押し出されて進むことです。私たちの人生で大事なこと、それは神様の風に吹かれることです。その風を感じて生きることです。そのように神様からの風は私たちに言葉を与え、私たちを新しい行動に導くのです。私の宣教の言葉も、今日の信仰の言葉も、神様からの風に、押し出され、発せられたものです。

聖書・創世記によれば、神様はまず土で人間の形を作りました。そして神様はその土に息・風を送り込みました。そうすると人間は生きるものとなったと書かれています。神様の風とは、私たちに生きる活力をあたえる風です。神様の風とは私たちに生命を吹き込む風です。私たちはそのようにして神様の風に吹かれて生きるようになるのです。神様の風が私たちに命を与え、導くのです。

私たちの人生には様々な課題があります。どうすればいいかわからないこと、どうすることもできないことがあるものです。そんな時、風に吹かれてみてはどうでしょうか?自分の頭で考えるのを少し休憩して、自然いっぱいの風を受けてみたらいいのです。自分を吹き去ってゆく風、自分の呼吸として取り込まれる風、自分の体をここちよく揺らす風にあたればいいのです。どこから来てどこに行くのかわからない風にあたればいいのです。体で風を感じれば、きっと心にも神様の風を感じることができるでしょう。そうすると神様の導く方向が分かるはずです。風を受けて生きましょう。風を受ければきっと新しい生き方、新しい命を神様からいただけるはずです。

キリスト教の神様の風は、宗教や性別を問わずに吹きます。ですからすでに皆さんには神様の風が吹いています。体で感じる風を受ければ、きっと神様が心に吹かす風も分かるはずです。皆さんの心にも神様の風がもう吹いています。それを感じ、神様に導きを感じてみて下さい。今日は聖書から風に吹かれた弟子たちの話をします。

 

 

今日は使徒言行録2章1~11節をお読みいただきました。教会では今日はペンテコステという記念日です。これは2000年前に聖霊が人々に下ったこと、風が吹いたことを記念する日です。2000年前、イエス様は様々なことを弟子たちに教えましたが、十字架に掛けられ死んでしまいました。しかし弟子たちはイエス様の死んでしまった後も集まっていました。本来は教祖が死んでしまったのですから、活動が終わってしまってもしょうがないのです。しかしキリスト教はイエス様が死んでしまった後も続いてゆきます。それは弟子たちがイエス様の後を引き継いで一生懸命に頑張ったからではありません。その活動は弟子たちが、神様からの不思議な力、不思議な風を受けることで続けることが出来たのです。

例えば今日の出来事もそうです。イエス様の死後、弟子たちがみんなで集まっている時、突然強い風が吹きました。風は神様の一方的な決断で吹きました。神様からの風は弟子たちが頑張った時、願った時、集まった時にだけ吹くのではありません。神様の風は神様の決めたタイミングで吹きます。私たちの願いと関係なく自由に吹きます。それが神様の風です。

そして神様の風はそこにいたみんなに吹きました。神様の風は後継者や一人の選ばれたリーダーに吹いて、そこから下々に広がるのではありませんでした。何か良い事をした人、キリスト教を信じている人にだけ吹いたのでもありません。神様の風は全員に等しく、全員に直接吹き抜けました。一人一人の頭の上に炎がともるように、全員に風は吹いたのです。神様が全員を選んだとも言えるでしょう。神様は全員に風が吹くように、風を送られたのです。

そして神様の風に吹かれると不思議なことが起こりました。風に吹かれた人たちは他の国の言葉でしゃべり出したのです。それは当然、自分の内側から出てきた言葉ではありませんでした。神様が外側から語るべき言葉を教えてくれたのです。それは様々な国の言葉でした。自分が語るべきことは神様が教えてくださったのです。弟子たちは自分の考えた言葉ではなく、神様の風の吹くままに語ったのです。それは自分の力ではなく、神様の力によって起きた出来事でした。私たちにもきっとそのようなことが起きるでしょう。自分にはできなくても、神様が力を与えて下さって、できることがあるでしょう。私の毎週のメッセージもそうです。教会に続けて来ることもそうです。それぞれの場所でも神様の力を受けるからこそできる、そんなことがきっとあるでしょう。

弟子たちが様々な国のことばで語ったことの意味も考えます。様々な国の言葉で語られたことは、全世界の人に神様の不思議な力が伝えられたということを意味するでしょう。普通では起きないことが、自分の力ではできないことが、神様の力によって起きるという希望は、全世界に伝えられました。それは難しい言葉ではなく、相手に良くわかる言葉で伝えられました。神様の力は、みんなにわかるように届けられたのです。私にもわかる、あなたにもわかる、みんなにわかる言葉で神様の希望が示されたのです。

神様の風はそのように、ひとりひとりに、全員に命と活力と言葉を吹き込みました。このようにして神様の風を受けて人は輝くのです。私にもあなたにも自分では輝く力がないかもしれません。でも神様から力をいただいて輝くことができるのです。私たちはそんな神様からの風を受けて歩むのです。私たちはすでにその風を受けています。私たちは全身でその風を感じ、風に身をゆだねてゆきましょう。

特に今日初めてキリスト教の話を聞く、初めてここに集まったという人にとって、この集いやこの言葉はどう響くでしょうか。毎週集まれるのはすごい熱心だと思うかもしれません。でも私たちが集うことが出来るのは、熱心さや一生懸命さではなく、神様の風に吹かれているからです。私たちが神様の風に身をゆだねているから集うことができるのです。自分で方向を決めるのではなく、神様の風に身をゆだねています。そのようにして私たちは神様の風に招かれるままに集まっています。周りの人からはおかしな集まりに見えるかもしれない。でもそれでもいいと思っています。

皆さんにはこう生きたい、こうなりたいという願いがあると思います。それはとても大事です。でもその願いと共にもう一つ心にとめて欲しいことがあります。それは私たちには神様の風が吹いているということです。神様の風はきっと私たちをどこかへと運ぼうと導いています。すでに私たちにはその風が吹いているはずです。私たちは自分の願いと共に、その神様からの風がどう吹いているのかを感じて生きてゆきたいのです。

神様は私たちに風を送ります。私たちはその風に吹かれながら生きましょう。私たちには何もできなくても、神様が風を吹かせ、導いてくださいます。神様が必要な言葉と力を与えてくれるはずです。だから神様の風に吹かれて生きましょう。その風はきっと私たちを新しい生き方へと導いてくれるはずです。一人一人の命が輝く生き方、互いを愛し、大事にする生き方へと導かれるでしょう。お祈りします。