みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこうしてこどもたちの声を聞きながら、大人もこどもも共に礼拝をしましょう。
4月と5月は新しくキリスト教に触れる人に向けて話をしたいと思っています。聖書の中でも有名な個所を聞きながら、一緒に考えましょう。特に聖書の中のヨハネ福音書という部分取り上げてゆきたいと思います。
私は会社の勤めていた時、誤解や失敗をきっかけに他者との信頼関係ができるということを何度か経験しました。例えばクレームを頂いた取引先に訪問し、謝罪をしたり、対話したりしてゆくと、以前よりお互いの事情が分かるようになり、信頼関係が生まれることがありました。クレーム対応をきっかけに、個人的な信頼関係が生まれました。そのような経験が何度もありました。もちろんそのような信頼関係がいつもできるわけではないのですが、いつからかクレームを頂く度に、ここから新しい信頼関係ができればいいと思いながら対応をするようになりました。
このように衝突や誤解がきっかけで相互の理解が生まれ、信頼関係につながってゆくということがあります。みなさんにもそんな経験があるでしょうか。第一印象が悪かったのに、誤解が解けて仲が良くなった人がいるでしょうか。昔は嫌いだったのに今は好きな食べ物も同じだと言えるでしょうか。
関係は必ず修復発展できるというわけではないのですが、相互の信頼関係は互いの誤解に向き合うことによって、対話することによって生まれてゆきます。誤解は信頼の入り口でもあります。聖書にもこのような誤解から信頼が始まるエピソードがあります。今日はそのエピソードをご紹介したいと思います。
ヨハネ福音書4章1~30節、39~42節をお読みいただきました。キリスト教の中では有名なサマリアの女という話です。登場人物はサマリアの女性です。実はこのサマリアの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。まず当時ユダヤの人々はサマリアという言葉を口に出すのをはばかるほどサマリアの人々を嫌っていました。なぜならサマリアの人々は混血民族と考えられたからです。サマリアの人々は民族の純血を大事にしたユダヤ人から、いわゆる混血とされ、見下され、差別されたのです。
さらに女性という点にも注目します。当時の社会は今よりもっとひどい男性中心社会でした。女性の地位はとても弱く、女性は男性の所有物とみなされ、男性が一方的に離婚することが可能な社会でした。このようにサマリアの女性は、民族的にも性別的にも差別を受けた人でした。
そのサマリアの女性が井戸に水を汲みに来ました。当時、水汲みは女性の仕事でした。通常女性は水汲みを朝の涼しい時間帯にするものでした。しかし聖書には彼女が正午・昼の12時の一番暑い時間に水を汲みに来たとあります。その理由はおそらく彼女が同じサマリアの女性たちからも疎外されていたからです。5回の離婚を経験した彼女の波乱の人生は、村の人から奇異の目で見られていました。彼女はいろいろな噂をされたり、白い目で見られたりしたのでしょう。彼女は村八分にされ、誰もいない時間を見計らってコソコソと井戸に来たのです。
5回の離婚の理由はわかりません。彼女に問題が有ったのか、無かったのかわかりません。しかし当時は男性が一方的に離婚を言い渡しました。戦争や飢餓や暴力が絶えず、今よりずっと死は身近でした。この女性に責任・罪があって今の境遇にいるという推測は、噂をして村八分にした人と同じ誤解でしょう。このようにこの女性は幾重にもわたって社会から疎外された人でした。多くの誤解を受けた人でした。だから彼女は誰とも会わない、関わらないで済む時間に井戸に来たのです。
そんな時、イエス様と出会います。イエス様はそんな社会から疎外された人に、自分から言葉を掛けました。神様はそのようなお方です。人間の世界では差別や、いじめ、仲間外れ、排除があります。でも神様は違います。神様は神様の方からその人を見つけ、声をかけ、招いて下さるお方です。さらに当時は男性が見知らぬ女性に声をかけることもタブーでした。それでもイエス様は、その人に声をかけるのです。神様はそのように働きかけてくるのです。
イエス様との会話を見てゆきましょう。声のかけ方が面白いと思います。イエス様は「水をください」と声をかけるのです。復活した時も「何か食べる物はありますか」と声をかけたのですが、今回は「水をください」です。この問いかけに向き合います。
水を巡ってのイエス様と女性との会話は複雑です。特に10節はイエス様が水をくださいと言っているのか、イエス様が水をあげると言っているのか、よくわからない箇所です。読んでいる私たちも混乱する話、誤解が生じやすい話です。
どうやらイエス様が与える水というのは、肉体的にのどを潤す水分補給のことではないようです。その水とは心と魂を潤す水のことを言っています。それは心の内面に染み渡るような何かです。彼女の心と魂は何かを求めているのに埋まりません。心と魂が満たされず、渇いている状態です。その心と魂が求めていることを、満たしてくれるものが、イエス様の渡そうとしている水です。それは彼女にとっては周囲からの誤解と差別から解放されることだったでしょう。
しかしイエス様と女性の会話にも誤解があります。心と魂の水のことは女性には伝わっていません。女性は引き続き、のどを潤す水、ここまで汲みに来ないでよい水を求めています。誤解が続きます。
16節でイエス様は突然話題を変えます。話題は水の話から、結婚関係の話に話題が変わります。イエス様は対話をあきらめていないようです。伝えたいことが伝わらなくても、対話をあきらめずにまた別の角度から伝えようとしています。そして20節以降からはさらに話題が礼拝へと変わってゆきます。全体をみるとかなりかみ合わない会話です。ちぐはぐな会話です。会話は終始かみ合っていませんが、それでも二人が対話を続けていることはとても印象深いことです。
20節からイエス様は繰り返し礼拝という言葉を使っています。イエス様の言った心と魂を潤す水、それは礼拝と言い換えることができるでしょう。
この今私たちの持っている礼拝とは、自分の生き方を考える集まりです。自分はどう生きるのか、神様の言葉、神様の語り掛けを聞きながら考える集まり、それが礼拝です。一人ではなく、みんなとそれを考えます。イエス様はその礼拝が、あなたの心と魂を潤す水となると言ったのです。この礼拝というキーワードからようやく二人の話がかみ合ってきます。
女性はこのような対話からイエス様を信頼するようになりました。彼女はイエス様を、私に何が必要かを知り、私の心の渇きを知り、それを礼拝によって潤してくださるお方、私に新しい生き方を教えてくださるお方だと信頼をしたのです。イエス様との対話によって誤解が解かれ、この女性はイエス様を信頼するようになりました。そして彼女はその信頼を村の人々に告げ広めたのです。
村の人々も、最初は半信半疑でした。しかし村の人々は言います。自分で聞いたからよくわかった。それはイエス様の話を直接聞いて、誤解しなかったからこそ信頼できたという出来事でした。
イエス様とこの女性はすれ違いながらも、忍耐強く対話を続けることによって信頼が生まれました。誤解は信頼へと変わってゆきました。今日この個所を見て私は改めて対話の大切さを感じます。私たち人間にはたくさんの誤解があります。誤解に基づいて様々な戦争が起き、誤解に基づいてうまくいかない人間関係が生まれます。誤解は人々を苦しめます。差別も命に優劣があるという誤解から生まれます。
女性が苦しんでいたことは何よりも、周囲に誤解されたことだったはずです。そして彼女の中でもイエス様への誤解がありました。でもそれでよいのです。多くの関係は誤解から始まってゆくからです。その誤解は徐々に解かれてゆくものです。私たちにも今日この個所からそのことが示されているのでしょう。私たちの周りにもたくさんの誤解があります。誤解したり、誤解されたりすることがあります。でも私たちはイエス様のように向き合い、対話することをあきらめずにいたいのです。今日の個所のように誤解から始まる信頼がきっとあるはずだからです。
私たちはどうやって、誤解を信頼に変える力をいただくことができるのでしょうか。私たちが自分を変えるには限界があります。自分では変わりたくても、変わることができないのです。でも私たちはきっとその力を礼拝からいただくことができます。私たち人間は互いに理解できず、誤解が解けない、信頼しあえない存在です。私たちは人間の力だけでは、豊かな信頼関係を築くことができないことを良く知っています。でもだからこそ私たちは神様から、その力をいただきたいのです。この礼拝で神様から他者を理解する力、誤解のある他者と信頼を作ってゆく力を受け取りたいと思うのです。礼拝からその力をもらい、それぞれの場所で誤解を信頼に変えたいのです。
初めての方、まだ教会に来たことのない方にも、ぜひこの礼拝に加わって欲しいと思っています。教会に昔からいる人、最近来るようになった人の間にも、お互いにいろいろな誤解があるかもしれません。でもきっと礼拝を共にしてゆくことで互いに分かり合えると思います。
ぜひ礼拝にお越しください。そしてこれからも共に礼拝を献げ、神様から、誤解を信頼に変える力を互いに頂いてゆきましょう。お祈りします。