【全文】「悲しむ人々は幸いである」ヨハネ20章1~18節

みなさん、おはようございます。今日はこうしてイースター礼拝を共にできる事、主に感謝します。今日もこどもたちと共に、声を聞きながら礼拝をしましょう。

今日は3月最後の日です。3月と4月は様々な出会いと別れがある季節です。教会では受難節として聖書の十字架の場面を見て来ました。今日はイエスとの別れを体験した女性の物語です。その出会いと別れを見てゆきたいと思います。

誰かとの別れは人の心に大きな影響を与えます。大きな心の負担になります。その別れをすぐに受け入れられる時もありますが、長く引き、引きずるときもあります。ずっと心の中に重たく残り、昔のことにできないときがあります。悲しみの深さは、その時々によって違います。別れた人との関係性の深さや、お別れの仕方によって、悲しみの深さは違います。別れをしっかりと言えた、やりきったと思える別れは受け入れやすいものです。でもしっかりと言葉を交わすことができなかった別れ、突然の別れは受け入れるのに時間がかかるものです。それでも人それぞれのペースで、少しずつ別れを受け入れてゆきます。受け入れ方やスピードは人それぞれです。周りの人は前を向いているのに、どうしてか自分だけが置いて行かれるように、悲しみが続き、立ち上がることができないのかと思う時があります。頭では死では終わらない。また会えるとわかっています。悲しんでばかりではいけない、前を向いてゆかないといけないとわかっています。でも悲しみがあふれて止まらない時があるのです。

神様はそのような別れと悲しみの時、どのように、私たちと共にいて下さるのでしょうか。神様はきっと悲しむなと言わないお方です。人間は他人や自分自身に、いつまで悲しんでいるのか、そろそろ前を向けと言います。神様を信じて、これ以上悲しむなと押し付けます。でもきっと神様は違でしょう。神様はそのような前向きさを押し付けないお方です。神様はそっと悲しむ者のそばに共にいてくださるお方です。悲しむ者にこそ現れ、そばにいて下さるお方です。ここにいると伝えて下さるお方です。そしてゆっくりと悲しみとは違う方向へと導いてくださるお方です。神様はこのように、悲しむ人々に幸いを約束してくだいます。神様は涙から幸いへ導いてくださるお方です。今日は悲しみと共にいてくださる神様の姿を見たいと思います。

 

 

ヨハネによる福音書20章1~18節をお読みいただきました。イエス様は十字架で殺されてしまいました。それは無実の罪でした。若い人の死でした。残酷な死でした。突然の別れでした。心の支えだった人との別れ、尊敬する人との別れでした。それは、もっとも受け入れるのが難しい、もっとも受け入れるのに時間がかかる別れでした。弟子たちはとらえられる直前まで一緒にいて、食事をしていました。でも捕えられてからは、知らないと嘘をついて逃げました。それは最悪の別れ方でした。弟子たちはその後、自分も捕まるかもしれないということに怯え、隠れていました。弟子たちはその死にあたって自分を責めたでしょうか?自分の弱さを責めたでしょうか。

その弟子たちの中にマグダラのマリアという女性がいました。マリアはガリラヤからずっとイエス様に仕え、共に旅をしてきました。彼女はもともと、七つの悪霊が取りつた人でした。イエス様の力によってその悪霊が追い出され、イエス様に従う様になりました。古くから一緒にイエス様と共に、互いに愛しあうことを伝える活動をしていました。マリアたちは強い意志を持っていました。他の弟子たちが逃げ惑う中、最後まで裏切らず、逃げずに従ったのです。そしてイエス様の十字架を最後まで見届けました。福音書のすべてに、マリアが見届けたとあります。

しかし一方でそれはマリアにとって、大きな心の負担になったはずです。マリアは残酷な十字架を見なければいけなかったのです。マリアはイエス様の無残な死に方を直接見てしまいました。痛み、苦しみ、渇き、流れる血、その姿をすべて見て、受け取ってしまったのです。きっとマリアはそれに強い衝撃を受け、それはトラウマになったはずです。彼女はそのようにイエス様の最も近い弟子であり、十字架の姿を見てしまった一人でした。きっとイエス様の死は、マリアにとって他のどの弟子よりも衝撃的で、悲しみの深いものだったでしょう。その衝撃と悲しみは非常に深かったはずです。

1節には週の始めの日、彼女はまだ暗いうちにイエスの墓に行ったとあります。彼女はきっと悲しみが尽きなかったのでしょう。悲しみが深く、大きく、受け入れることができず、体が勝手に墓へと向かったのです。しかし彼女は墓で、イエス様の遺体がないことに気づきます。彼女は遺体がどこに置いてあるのかわからないと混乱をします。彼女は深い悲しみの中で何とか死を受け入れようとしていました。しかしその体がなくなって、また死を受け入れることができなくなってしまいます。「どこに置いてあるかわからない」それは彼女の気持ち自体もそうだったのでしょう。彼女は自分の悲しみをどこに置いたらよいかわからなくなってしまったのです。彼女はどのように悲しんだら良いか、どのように心の整理を付けたらよいかわからなくなってしまったのです。11節、マリアは墓の外で立ったまま泣いたとあります。これは彼女の感情をよく示しています。どのように受け止めたらよいかわからず、立ち尽くし泣いたのです。

他の弟子たちは家に帰ってしまいました。イエス様の死を他の弟子たちがどう受け入れたのかはわかりません。案外すんなりと受け入れたのでしょうか。どれほどの悲しみがあったのかは、外側からはわからないものです。ただきっとマリアこそ誰よりも深く傷つき、悲しんでいたでしょう。もっとも悲しみ、涙のとまらないマリア、そのマリアにイエス様は一番はじめに現れました。神様はこのように悲しむ者のもとに現れるのです。悲しみを受け入れた先に神がいるのではありません。深い悲しみの底に、もっとも悲しみの深いさなかに神様は現れてくださるのです。イエス様はそっと現れます。14節マリアが後ろを振り向くとイエス様がいたとあります。いつからそこにいたのかわかりません。でもイエス様はきっと、ずっと涙する者のそばにいました。悲しむ者と共にいました。それまでマリアは後ろに誰かがいることに気づいていませんでした。しかしイエス様はずっとそばにいました。一番悲しみの深い人と共に、イエス様はいました。イエス様はなぜ泣くのかと聞きます。きっとそれは、もう泣かなくていいという声です。私がずっと一緒にいるのだから、泣く必要はないという意味の言葉です。

15節マリアは最初それがイエス様だとは思わなかったとあります。まだ彼女はイエス様が共にいることに気づいていません。彼女がそれに気づいたのは、イエス様が「マリア」と彼女の名前を呼びかけた時でした。イエス様に自分の名前を呼ばれて、それがイエス様だと気づいたのです。それはまるで羊と羊飼いの様です。羊が自分の羊飼いの声を聞きわけるように、マリアはイエス様の声を聞き分かることができました。そしてイエス様は羊飼いの様です。1匹の迷った羊飼いを探すように、マリアの元に現れたのです。

17節イエス様は私にすがり続けてはいけない、兄弟たちに伝えなさいと言います。イエス様は突き放すようです。でもそのようにしてマリアは立ち上げられてゆきます。イエス様はそのように、マリアをもう一度仲間たちの元に派遣してゆくのです。そして彼女から全世界へと復活が伝えられていったのです。

今日の個所をからどんなことを考えるでしょうか。奇跡の復活を果たしたイエス様というイメージも大事かもしれません。しかし今日は、神様はこのようにして、悲しむ者と共にいるということに目が向きます。神様はこのように悲しむ者と、もっとも悲しむ者と共にいて下さるお方なのです。そして神様は悲しむ者にとっては一見わからないような形で、すぐ後ろに、共にいて下さるお方なのです。そして神様は迷った羊を探す羊飼いのように、悲しむ者に声をかけてくださいます。名前を呼んでくださいます。一緒にいるよ、だから立ち上がって、前に進もうと言ってくださるのです。そしてもう一度私たちを仲間のもとに派遣します。私たちはイエス様の復活を伝える、イエス様が悲しむ者といつも共にいることを伝える、その愛を伝えるために、派遣されてゆくのです。

イエス様が復活したとは、そのようなことを言うのではないでしょうか。復活とは死が無くなることではなく、その悲しみの中にイエス様が共にいて下さったことではないでしょうか。悲しみの中に主が共にいて下さることが、主が復活されたということなのではないでしょうか。

私たちの人生でも、きっとそのようなことが主の復活が起こるはずです。私たちの人生には悲しみの時、苦しい時、神に見放されたような出来事に出会う時があります。なかなか立ち直れないかもしれません。でも神様は復活し、悲しむときに私たちと共にいて下さいます。神様は悲しむ人の後ろにそっと復活して下さいます。振り返ると、すぐそこに復活した主が私たちと共にいて下さいます。私たちはそのことを覚えていましょう。そして悲しみと出会う時、振り返るようにしましょう。神様は復活し、私たちと共にいて下さいます。だから泣く必要はない、前を向いて歩こうと、そのように私たちを派遣してくださいます。

新しい1年が始まります。幸いが多くある1年に期待します。そして悲しみもあるでしょうか。きっと神様は悲しむ時に共にいて、私たちを幸いへと向けて導いてくださるお方です。その復活を信じ、歩みましょう。お祈りをいたします。