【全文】「こどもの命をつないだ人たち」出エジプト1章15節~2章10節

みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先週はお休みをいただき感謝です。先月は聖書と性についてお話をしました。聖書が同性愛や性的少数者を罪としていないのだということ、神様はその人々を豊かに用いているということを見て来ました。男か女ということを超えて、神様の働きは広がるのだということを見て来ました。

そして今日と次回は、聖書の中の女性について目を向けたいと思っています。男も女もなく平等に、いろいろな性が平等にあるべきだと話をした後に、聖書の女性に注目するというのは矛盾のように思えるかもしれません。どの性も平等であるべきなら、女性に注目して聖書を読むのはおかしいとも言われるかもしれません。

ところで教会には女性会というグループがあります。女性のみが集まるグループです。全国区でも女性連合というグループがあります。しかし近年は女性だけが集まることの課題が指摘されるようになりました。これまで見てきた性の多様さから考えると、女性か男性かでグループを作ることには、課題があります。参加者は自分をどちらかに決めなくてはならないからです。女性会は女性以外を排除しているのではないかという指摘もあります。またある他の教会の女性会の参加者からは、話題が結婚・出産・育児の話ばかりで、仕事をしている独身女性からすると、そのグループは合わないという声も聞きました。その人たちは仕事をしている男性たちと話していた方が良いと言って男性のグループに参加していました。またある教会では、オリーブ会などと名称を変えて、女性に限定しないグループを作っている教会もあります。

一方で女性だけが集まることに様々な良い面があるでしょう。同じ性・似た性の人が集まる場所だからこそ、打ち明けることができる話や悩みがあるはずです。また社会に目を向けると日本は女性の社会進出が非常に妨げられている国です。男女平等指数は146ケ国中125位です。特に政治の分野、企業のリーダーシップの分野で、日本は圧倒的に男性が支配している社会です。男中心社会です。きっと教会にもそのような一面が残っているのでしょう。牧師はやっぱり男性がいい、役員は男性がいいなどの意見です。そのような男性中心主義が残る社会や教会において、女性たちが集まるということは大変意味のあることだと思います。なんでも男が決め、男が働く、男中心の社会の中で、女性が集まり、女性が決めるというグループに大きな存在意義があるでしょう。そしてそのようなグループは大切な視点を持っていると思います。それは社会の中心から外された人に目をとめてゆくという鋭い視点です。女性連合はそれを持っていると思います。沖縄への関わり、平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。社会や教会で、中心から隅に追いやられた存在に目をとめ、中心へと戻してゆくことが必要とされています。その点で、女性が集まる意味はまだまだ大きいでしょう。

いずれにしても男性である私が、女性の集まりをどのような集まりにしてゆくのか、とやかく言うのはまったく的外れです。ぜひ皆さんその集まりについてよく話して欲しいと思っています。男も女もなく、どの性も平等です。だからこそ女性や少数派の人々に目を向けてゆくことが大切なのでしょう。ですから今日と来週は聖書の中の女性を見て行きたいと思います。

 

 

今日は出エジプト記1章15節~2章10節までを読んでいただきました。イエス様が生まれるずっと前の時代の話です。神様を信じる人々は奴隷として、激しい重労働をさせられていました。それは過酷を極めた労働でした。神様はそこから逃げ出す、出エジプトを導いてくださいました。恵み深い神は休みをくれたのです。今日はその前の奴隷時代の話です。過酷を極めた労働の中でも、ヘブライの人、聖書の神を信じた人々は、人口が増えてゆき、やがてそれは軍事的な脅威となる程でした。15節、ファラオはこれ以上人口を増やさないために、二人の助産師を呼んで、男の赤ん坊が生まれたら殺せと命じました。二人の女性の名前がシフラとプアだったと記録されます。わざわざ名前が記録されるほど彼女たちの働きは重要だったのです。

エジプトの人々は、ファラオは神だと教えられ、従っていました。エジプトでのファラオの命令は神の命令と同じです。このファラオの命令によって、男の子が殺されようとしていました。ちなみに歴代のファラオのほとんどは男性です。男性が政治の実権を握っていました。しかし歴代ファラオの中で少数ですが女性がいた事もわかっています。中には男性の服装をした女性ファラオもいたそうです。

このファラオは人口を減らすために、男の赤ちゃんを殺せと命令をしました。しかし疑問です。人口を減らすなら、男女性別にかかわらず全員平等に殺した方が早いのではないでしょうか。その方が人口の増加がより抑えられるはずです。ファラオはなぜ女性を殺さないのでしょうか。それは、当時女の奴隷は高く売れたからだと言われています。男は殺す。女は物のように売買する。女は男のために働けというのがファラオの政治でした。あるいは女性は生きていても政治的な影響力が無いから生かしておいて良かったのです。ファラオは助産師の二人の女性、シフラとプアに命令しました。生まれた男だけ殺せと命令をしました。

しかし17節、女性たちは神様を畏れていました。神様を畏れるとは、そんなことをしたら神様の罰が怖いということではありません。神様を強く信じていたということです。特に二人は助産師です。実体験から命の源はこの聖書の神様であると信じていました。実体験から命は神様から授かったものであると信じていました。その命を人間が壊すべきではないと信じていたのです。命を壊すファラオは神ではないと信じていたのです。だから彼女たちは男性であるファラオの命令に従わなかったのです。彼女たちには確信がありました。堅い信仰がありました。それは生まれてくるこどもたちの命を守ることが、自分の信じる神様の教えだという確信です。彼女たちは社会の中心から追われる命、無視される命、無かったこととされる命、売り飛ばされる命を良く知っていました。だからこそ命に対して、特別なまなざしを持っていました。その命を守ることこそが神様への信仰なのだと確信した彼女たちは、ファラオに従わず、小さな命を守る決断を繰り返していたのです。

それに対してファラオはもう一度この女性たちを呼びつけ、殺せと迫ります。しかし彼女たちは「出産がすぐに終わってしまうのだ」と言います。きっとそれはウソです。小さな命を守るための、彼女たちが考えたウソです。助産師は誰よりも出産の苦労を知っているはずです。すぐに終わる出産ばかりではないはずです。助産師は誰よりも女性たちの苦しみと強さを知っていました。この助産師はそのような女性たちの姿を知らないファラオを、まるで馬鹿にしているようです。彼女たちはできる限りの抵抗をしました。それは男たちのような暴力、支配、抑圧によるものではありません。静かな戦いです。小さな命を守るための非暴力の戦いです。そのように戦う女性たちに神様は特別な恵みを与えたとあります。

2章1節からはもう一つの物語が始まります。あるレビ人の女性が妊娠し、男の子を出産しました。見つかればすぐに殺されてしまう状況です。母はなんとか助かって欲しいと願いました。彼女は赤ん坊をカゴに入れて水に流しました。それはまるで救命ボートです。なんとか助かって欲しいとカゴに乗せて送り出します。そしてその命を受け取ったのもまた女性でした。彼女はそのこどもをファラオの政策に反し、自分の息子として育てることにし、やがて彼は解放のリーダーに成長します。

このように、この物語は政治に反対した女性たちが小さな命を守るという物語です。女性たちの小さな決断のつながりが、小さな命を救いました。小さな命のためにたくさんの女性たちが知恵を尽くす物語です。男性の決定に反抗し、自分たちで決断する物語です。女性たちが命のバトンをつなぐ物語です。この物語に登場する女性たちはみなこの小さな命への慈しみにあふれています。それはきっと自分自身が、社会で隅に追いやられている経験をしたからでしょう。

男たちが政治を支配し、男たちが戦争をする世界です。彼女たちは考えました。男たちが中心の世界で、どのようにしたら平和に生きることができるだろうか、どうしたら小さい、いつもしわ寄せがくるこどもたちを守ることができるだろうかと考えたのです。そのように彼女たちは命を守り、平和を実現させるための働き人だったのです。そしてそこから、自由を求める旅、出エジプトが始まってゆくのです。

私が今日の個所を読んで思うのは、社会の中心から外された人に目をとめてゆきたいということです。平和と和解の働き、こどもたちへの働きなどは、中心から外されてしまう人に目をとめてゆく、大切な働きです。そして男も女もどの性も、小さな命を守るために働く社会になって欲しいと思います。女性だけ、男性だけの働きはありません。

私たちの教会でも同じです。私たちの教会も政治が決めたことに従うのではなく、神様から与えられた命を守る働きをしたいと思います。私たちの教会が性別に関わらず、社会の隅に追いやられる人の命を守り、再び中心に据えてゆくことができるように共に祈り、働いてゆきましょう。教会やその中のグループもそのために働くことができるように祈りましょう。お祈りします。