【全文】「性的少数者 歓迎教会」使徒8章26~40節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどももいっしょに礼拝できることを感謝します。こどもたちの声を聞きながら一緒に礼拝をしましょう。今月は聖書と性・セクシャリティーについて考えています。本日で最後です。これまでの2回では主に、同性愛は罪ではないということ、むしろそれと混同されている性暴力こそ罪であるということお話してきました。教会では触れづらいテーマですが、人の魂に関わる、大切な事柄です。聖書でどのように性、特に性的少数者が受け止められているのかを考えたいと思います。

今日は聖書に登場する宦官について考えたいと思います。古代から宦官という人が存在しました。宦官とは、睾丸や陰茎を切除した男性です。彼らは王宮などで働いていました。宦官は子孫を残すことができないので、王様になることはできませんでした。ですから王様から見ると、自分の座を奪おうとしない安心できる存在でした。さらに宦官は、女性と性的に交わる機能が失われています。王宮の女性たちにとっても宦官は、性的な関係にならない、安心できる存在でした。ですから宦官は王様や、王宮の女性にとって、最も従順な僕と言えるでしょう。彼らは時々、高級官僚として取りたてられました。それが宦官という存在です。古代では世界中に宦官がいました。

当時のユダヤ教は宦官をどのように受け止めたでしょうか。旧約聖書には多くの宦官が登場し多くの場合、好意的に描かれています(エステル記など)。しかし旧約聖書の申命記23章2節にはこうあります「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」宦官が主の会衆に加わることができないとはつまり、宦官はユダヤ教に入信することが出来なかったということです。おそらく割礼が受けられないということも理由のひとつです。あるいは身体的な欠損があるものは汚れていると考えられたことも理由のひとつです。

本来、すべての男性が、割礼を受けることでユダヤ人になることができました。そしてユダヤ人になると神殿に入ることが許されました。しかし宦官だけは違います。信仰があってもユダヤ人になることはできませんでした。どんなことをしても神殿に入ることが許されなかったのです。旧約聖書を見ると宦官が好意的に描かれている場面が多くあるものの、やはり自分達とは決定的に違う、神殿の内側には入れてはいけない、軽蔑すべき存在だったのです。それが宦官でした。ちなみに当時と今ではユダヤ教の中でも大きく考えが変わっています。現在のイスラエルは、LGBT先進国として有名です。

 

 

さて今日の聖書の物語に目を移しましょう。ある宦官がエチオピア、これは現在のスーダンからエルサレムにやってきました。この宦官は女王の全財産をまかされるほど信頼されていた、かなり高い役職にいる官僚でした。そんな彼が小さな民族の信仰に興味を持ったのです。聖書に興味があり、聖書の神を求めたのです。そしてはるばるエルサレムに来たのです。

しかし彼はエルサレムで排除される存在でした。彼は外国人であるという理由で、あるいは宦官であるという理由で、神殿に入ることが許されませんでした。あなたは体の一部が無いから、完全な男ではないから、神殿には入ることができないと排除されたのです。その時、彼の信仰は一切関係ありませんでした。彼の内面は一切関係ありませんでした。彼の外形的な性が判断基準とされ、神殿から排除されたのでした。彼のせっかくのエルサレム訪問は、このようにして台無しになりました。関心と共感をもって神殿に訪れたのに、彼は拒否されたのです。原因は彼が外国人であり、性的少数者であったからです。彼はとても残念に思ったはずです。彼は信仰が打ち砕かれたでしょう。残念な思いと共に、イザヤ書の巻物を買って帰ったのかもしれません。彼はイザヤ書を買って、馬車で読みながら帰っていったのです。帰り道、それは彼の性が排除された後の帰り道でした。自分の性が、彼の信仰が受け入れられなかったという経験の帰り道です。失望の帰り道です。彼はそのような状況でイザヤ書を読みながら帰りました。涙ながらに聖書を読んだでしょうか。

 でもおそらくこの宦官はこのような、性的少数者であることでの差別を幾度となく受けてきたでしょう。何度も同じ経験をしてきたでしょう。宦官は高級官僚として尊敬されつつも、やはり人々から軽蔑のまなざしを受けていたでしょう。結婚し、こどもがたくさんできるということが神の祝福とされた時代です。それができない宦官は卑しい者として扱われました。その性によって差別されたのです。人々に拒絶されました。そして聖書に救いを見出そうとしました。しかしまた拒絶されました、それが彼の人生でした。26節、寂しい道とあります。それは景色も、そしてきっと宦官の気分も寂しい道であったでしょう。

そんな彼が馬車に乗っています。そこに神様はフィリポを遣わしました。フィリポは偶然にそこを通りかかったのではありません。主の天使が、霊が、フィリポにそこに行けと命令したのです。天使と霊は、排除された性的少数者と出会わせるために、フィリポを導いたのです。神様が性的少数者との出会うようにと導いたのです。宦官がイザヤ書を読みながらフィリポの目の前を通り過ぎます。劇的な出会いです。フィリポは急いで追いかけて、イエス様についての福音を伝えます。フィリポは、イエス様は弱い人、貧しい人、隅に追いやられている人、排除された人と最後まで共にいたということを宦官に伝えたでしょう。このイザヤ書に登場するのは、そんなイエス様のことなのだと話をしたのです。やがて、二人は水のある場所にたどり着きました。水のある場所へと神様から導かれました。宦官はバプテスマへと導かれてゆくのです。

宦官は「バプテスマに何か妨げがあるますか」と確認します。「何か妨げがあるでしょうか」とはどんな意味を含むのでしょうか。彼はおそらく確認したのでしょう。これまで私は性的少数者として、社会から、神殿から徹底的に排除されてきました。そんな私でも洗礼を受けることができるのですか?クリスチャンになることができるのですか?という問いだったのです。キリスト教では、私もその仲間に加わることが出来るのですか?そう聞いたのです。フィリポは何も答えずに、行動で返事をしています。速やかに宦官へのバプテスマが実行されました。フィリポはその人を排除しませんでした。性的少数者を排除しなかったのです。

バプテスマに何か妨げがあるかと聞かれたとき、もっと準備が必要だ、あなたは性的少数者だからできないと言わなかったのです。彼の信仰に基づいて、速やかにバプテスマは実行されたのです。宦官は喜びあふれたとあります。それはこれまで排除されてきた悲しみは、自らを神が受け止めてくれた、キリスト者が差別せずに受け止めてくれたという喜びに変わりました。寂しい帰り道は、喜びの帰り道と変わったのです。宦官は自分に神様の希望が示されていることを知ったはずです。何の妨げも無く、キリスト者として受け入れられることを通じて、神様が私の神様となり、私を守ってくださるのだと知ったのです。彼はこのようにして喜びながら帰ったのでしょう。それが宦官の物語です。

さて、現代の教会、現代の社会の性的少数者の人々とも重ねて考えてみましょう。社会では多くの性的少数者が、その性を否定されています。教会も同じでした。教会はそれは罪だと言い、その性を否定してきました。性的少数者の人々は罪だと言われ、教会から排除され、追われるように逃げ、失意の中で帰り道を歩いて帰りました。社会からも教会からも軽蔑され、居場所を失っていったのです。しかし今日の個所によれば、性の在り方は入信・バプテスマの条件に一切なっていません。フィリポは性の在り方によって、共同体から誰かを排除するということを全くしなかったということです。むしろ神様は私たちを性的少数者と出会う様に導いています。教会はそのようにすべての性を受け止めてゆくことができる、すべての性を罪としないことができるのです。それが今日この物語が伝えている福音です。

性的少数者の「何かさまたげがあるでしょうか」という問い。それは私たちに向けられた問いでもあります。私はこの教会において、性的少数者の洗礼・バプテスマ、礼拝出席を妨げる理由はないと思っています。みなさんはどうでしょうか。そして現代の社会の何が、性的少数者の妨げになっているかも想像します。この社会は、どのような性であるかに関わらず、その人を受け止めることができるのでしょうか。

キリスト教ではこのように性的少数者を受け止めてきました。そしてこの宦官は異邦人の中で最初に洗礼・バプテスマを受けた人となりました。この人が異邦人の中で一番最初に、洗礼・バプテスマを受けたのです。彼から、性的少数者から、世界中にキリスト教会が広まっていったのです。性的少数者である彼から、世界宣教は始まったのです。それが私たちのキリスト教の始まりだったのです。

私は性的少数者の方が教会に来る、洗礼・バプテスマを受ける、そのままの性を生きることを、神様は何も妨げないと思います。むしろ神様はそのような人を用いて福音を拡げるのだと思います。私はこの教会が性的少数者の方が来ることに何の妨げもない教会になるように願っています。そのようにしてすべての人を歓迎する教会になりたいと思っています。お祈りします。