みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
Iコリント6章9~10節
今月は性と聖書に考えています。最近テレビでは芸能界の性暴力について報道がされています。性暴力は魂の殺人と呼ばれます。教会はこれらの問題を魂の問題として関わるべきでしょう。教会が性の問題に沈黙するのは良くないと思います。
性の問題について、キリスト教には様々な立場があります。特に同性愛については意見が大きく割れています。私の理解では聖書全体に同性愛という言葉は一切登場しません。同性愛という言葉は19世紀に生まれた言葉だからです。しかし偏見を持って聖書が読まれた結果、同性愛への差別が生まれました。
今日の聖書の個所には男色するという言葉があります。やはり聖書は同性愛を禁止しているように思えます。もっと深く考えましょう。男色するという言葉は元のギリシャ語で「アルセノコイタイ」という言葉です。この言葉は語源から考えると、男が男に対して横たわるという意味で、同性間の性行為を指す言葉と推測されます。しかし文脈からその意味を推測すると経済的搾取の意味があります。おそらくこの「アルセノコイタイ」は同性間の性行為と経済的不正を掛け合わせた言葉で、お金や地位にものを言わせて、相手の性の尊厳を奪うことを意味していると思われます。
社会背景からも考えます。2000年前のローマでは年長の男性によって身分の低い少年や、奴隷の少年に対して性搾取が行われていました。少年たちには愛も自由な選択もありません。地位のある者が、少年の性を搾取していたのです。それは愛、同性愛とは全く違います。
しかし19世紀に同性愛という言葉が生まれました。本来、性的搾取を意味した「アルセノコイタイ」は、同性愛のことだと誤解されました。そして同性愛が悪、罪とされるようになり、同性愛者は神の国を受け継ぐことができないと解釈されるようになりました。しかし本来、この個所は同性が愛し合うことを禁止しているのではなく、性の尊厳を奪うことを禁止しているはずです。
私たちの社会を見渡します。世界では魂が殺される、魂が踏みにじられる事件が繰り返されています。私は聖書が性暴力・性搾取をはっきりと否定しているものとして、それに反対してゆきたいと思います。そしてそれと混同されるかのように、同性愛に対する偏見もまだ続いています。特にそれはキリスト教の中で続いています。偏見をもって、同性愛と性搾取が混同されることにも反対をしたいと思っています。
10節、神の国を受け継ぐ者とはどんな人かを想像します。それは互いの性を奪い、否定するのではなく、互い性の在り方を尊重できる人ではないでしょうか。そのような人が神の国を受け継いでゆくのではないでしょうか?教会は魂の問題として性に目を向けてゆく必要があるのではないでしょか?互いの性を尊重できる教会になりたいと思います。祈ります。