【全文】「同性愛は罪ではない」創世記19章1~15節

みなさん、おはようございます。今日も大人もこどもも共に礼拝できること、主に感謝します。今日も子どもたちの声を聞きながら、共に礼拝をしましょう。

今月は3回の礼拝でセクシャルマイノリティー・性的少数者をテーマに宣教をしてゆきたいと思っています。セクシャルマイノリティー・性的少数者とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーなど、性の在り方が少数派である人のことを指す言葉です。かつてはレズビアン・ゲイの人などは同性愛者とも呼ばれています。ここ数年、国会でそのことが議論されるなど、性的少数者への理解は少しずつ進んでいます。キリスト教では長らく、同性愛は罪であると教えてきました。様々な罪の中でも同性愛の罪は、特に重い罪として断罪されてきました。しかしキリスト教の理解も変わりつつあります。

3年ほど前にも同じテーマで宣教をしたことがありました。LGBTとキリスト教というテーマで、サムエル記上18章のダビデとヨナタンの関係が、同性愛だった可能性があるとお話をしました。深い愛情は異性の間だけではなく、同性の間にも起こり、聖書はそれを美しい愛として描いている、罪だなどとは言っていないのだということを見ました。その礼拝はいつもどおりYouTubeで配信されたのですが、大変大きな反響がありました。いつも礼拝のYouTube再生回数は30回程度です。しかしなぜかこの回の再生回数は4000回を超えて、まだ再生されています。何千人もの人がそのYouTube礼拝を見ることになりました。

YouTubeには動画の感想を書くことができるコメント欄があります。コメント欄には批判的な意見が書き込まれました。「裁きの時にイエス様に聞いてみ(;^_^AA)」「現代の風潮に迎合する様な誘導は止めて頂きたく存ずる次第!」「パウロも同性愛者に関しては行いを改めない限り教会から追放するように言ってます」「不敬虔の意味、知らないですか?」などです。

一方でYouTubeの配信を見て、わざわざ教会に電話をしてきてくださる方が何人もいました。教会に電話をされてきた方の多くは性的少数者の当事者の方でした。電話ではいままでどれだけ自分が教会や牧師から冷たい言葉をかけられてきたのか、どんなに生きづらく感じているのか、いまどんなことで悩んでいるのかを涙ながらに教えてくれました。そして多くの方が「私の近くにも性的少数者である自分を受け止めてくれる教会が欲しい」と言っておられました。

他にはどのような方がYouTubeを見たのか想像します。きっと教会の人や牧師に自分の性的指向は罪だと言われ、負い目を感じ、苦しんでいる、そんな全国の人が見たのだと思います。もう自分は教会には行けない、自分はどの教会にも受け入れられないと思っている人が、このYouTubeを見たのでしょう。そのような方たちの励ましとなることができたらうれしいです。

批判のコメントが来ることは私の心の負担です。しかしきっと当事者の方たちはずっとこのような批判に囲まれて、生きてきたのだということを思い知りました。いろいろな批判があると思いますが、もうしばらく公開を続けたいと思っています。

このテーマは話題にしない方が無難です。この事柄に触れないようにすることが無難です。でもそのように見過ごされている人がいるからこそ、教会がずっと見過ごしてきたからこそ、あえてそこに目を注ぎたいと思っています。とても触れづらいテーマですが、このテーマに向き合いたいと思っています。あくまでここで話すことは私の聖書の理解です。もちろん同様の考えはキリスト教の中に広がりつつあります。しかしこの教会やバプテスト連盟の統一見解ではありません。多くの意見があることをあらかじめお伝えしておきます。

 

 

今日は創世記19章1~11節をお読みしました。今日の個所は読んでいて気分が悪い箇所です。ある時、神様の遣いが二人、ソドムという町に来ました。ロトという人はその二人をもてなそうとしました。当時の旅は今とは比較にならないほど危険なものでした。旅人に安全な宿泊場所を提供することは、非常に重要な配慮でした。旅人とはそのホスピタリティーなしには、生命の危険がある人であり、最も弱い立場の人でした。だから聖書にも旅人をもてなしなさいという教えが繰り返しあります(ヨブ31:32、ローマ12:13、ヘブライ13:2他)。ロトも、広場で寝るからいいという旅人を、自分の家に招き、食事と宿泊場所を提供しました。心温かいもてなしです。

しかしソドムの町の男たちが、戸口に現れました。そのソドムの男たちは、その二人の旅人は誰だと迫って来ます。5節「なぶりものにしてやる」という言葉は、もともとは知るという意味ですが、性的な関係を持つという意味も含まれる言葉です。さらに6節には「乱暴なことをしないでください」8節には「娘たちを差し出します」とあります。5節で起きていることは、ソドムの町の男たちが、男性である旅人に性的暴力を加えようとしているということです。本来は安全を提供し、もてなすべき旅人です。しかしソドムの人たちは、この旅人を自分たちの支配の下に置くために、相手の尊厳を奪い自分たちに従わせるために、性的暴力を加えようとしたのです。それは愛ではありません。それは支配のために性を使った、性暴力です。

ロトはこの状況に自分の娘を差し出すという方法で対処しようとします。これは最悪の対応です。別の誰かを犠牲にしても、まったく問題は解決することができません。二人の神の遣いはこの事態に、目つぶしを食らわせ、ロトたちに逃げるように言いました。そして驚くべきことを伝えます。実はこの神の遣いははじめからこのソドムの町を滅ぼすために来たのだというのです。今からこの町を滅ぼすから、あなたたちだけは逃げなさいと教えました。それが今日の話です。

キリスト教ではこの物語を伝統的に、同性愛を断罪する話として解釈してきました。同性間の性交を英語で「ソドミー」「ソドミズム」と呼ぶことがあります。ソドムの罪とはまさしく同性愛の罪で、同性愛の罪によって、神はソドムを町ごと滅ぼすのだ。それほどに同性愛は罪深いことで、死に値する罪である。聖書の罪の中でもっとも重い罪であると解釈されてきました。そして多くの同性愛者、性的少数者がそれは罪だ、神に滅ぼされる、やめなければいけないと言われ続けました。そしてその人たちはもはや教会に居ることができず、追われるように教会から去って行かなければなりませんでした。

しかしもう一度この聖書の個所を読んでみて、この個所は同性愛とどのような関係があるのかよくわかりません。ここで起きている出来事は、同性愛とは全く違う、明らかな性暴力です。同性愛と性暴力はまったく違います。ここで問題になっているのは性暴力です。

性暴力は私たちに身近なものです。ジャニーズ事務所では人類史上最悪の性暴力が行われていました。日本はセクシャルハラスメントが絶えない社会です。ソドムで行われていたのはそれと同じ性暴力です。ソドムが滅ぼされたのは、男性同士が愛し合い、交わったかどうか、同性愛があったかどうかとはまったく関係ありません。ソドムが滅ぼされたのは、ソドムの人が本来守るべき命やもてなすべき命に対して、性暴力をし、セクシャルハラスメントを行い、性的搾取を行っていたからです。ソドムはそのような性暴力があふれる町でした。そのことが神の遣いがこの町を滅ぼす理由でした。

長くソドムは同性愛の罪で滅ぼされたと解釈をされてきましたが、この個所から同性愛は罪だと解釈するのは不可能です。むしろ解釈されるべきことは社会にあふれる性暴力、セクハラ、性的搾取をどれだけ神が憤りをもって見ているかということです。私たちはそのことをここから読み取ってゆくべきではないでしょうか。私たちの社会・世界に身近にあふれるそのような性暴力、セクハラ、性的搾取を神様は本当に憤ってみておられるでしょう。一人一人の性の尊厳を奪う、そのようなことがあふれる町があるなら、神様はそこから被害者を逃がし、神様はその町を滅ぼしたいと思っておられます。それが今日の聖書が伝えているメッセージです。

キリスト教の教会も反省すべきことがあります。教会はこの個所から同性愛を罪と断じてきました。教会も相手の性の尊厳を見下し、排除し、よそ者だと傷つけたのです。

このように同性愛は罪だ。そう解釈されてきた箇所でも、もう一度読み直してみると、決してそのような意味で語られていないことが分かります。聖書が本当にやめるべきと指し示しているのは、同性愛ではなく、性の尊厳を奪う事、性暴力です。そしてこの個所も聖書全体と同じことを指し示しています。弱い立場の人に目を注ぎなさいと語っているのです。この個所からは特に少数派の人たちの性を守りなさいと聞こえてきます。私たちはこの物語からそれを指し示されているのではないでしょうか。

この個所から同性愛は罪だということはできません。聖書にはこの個所以外にも同性愛を罪だと断罪する箇所はありません。むしろ私たちが本当に目を注ぐことは、性の尊厳が守られているかどうかということです。他の事柄によって、本当に罪とされるべき、性暴力を見逃してはいけないのです。私たちの社会が互いの性の尊厳を守ることができるように祈ります。そして何より教会が今までのことを悔い改め、互いの性を尊重できる場所となることを祈ります。