【全文】「主のご来光」マタイ4章12~17節

みなさん、おはようございます。今日もおとなもこどもも共に礼拝できること、主に感謝です。こどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。そしてあけましておめでとうございます。今年最初の日曜日を礼拝から始めることができたこと感謝です。年末年始、お正月、それぞれの過ごし方があったと思います。どのように過ごしたでしょうか?駅伝は見たでしょうか?朝、早起きして初日の出を見た日という人はいるでしょうか。

平塚で初日の出を見るなら、湘南平がお勧めだそうです。湘南平の駐車場に住んでいるホームレスの方から教えてもらいました。湘南平は桜の季節に大渋滞をするのが有名ですが、1月1日の日の出の時間も大混雑するそうです。私は見に行ったことがありませんが、地平線の向こうから昇る太陽は想像するだけで、美しいことが分かります。初日の出は東の江の島の方から日が昇るそうです。海が赤くなって、湘南の町に徐々に光が射しこんでくる風景を想像します。そのご来光を湘南平の山頂からみるのは、きっとすがすがしい気持ちになるでしょう。日本では山頂からの日の出を特別に、ご来光と呼びます。おそらく仏教用語だと思いますが、山頂から見る日の出には何か特別な力を感じるものです。あるいは初日の出にも特別な力を感じます。それは多くの人にとってスピリチュアルな体験です。

初日の出やご来光といった習慣は、キリスト教にはあまりなじみのない習慣でしょうか。他の宗教の習慣でしょうか。しかしある意味では、日の出を見ること、そしてそこからスピリチュアルな力をいただくことは、キリスト教の信仰と重なる部分もあると思います。今日の聖書の個所にも日の出に関係することが書かれています。イエス様の登場が日の出のように、ご来光のように、私たちを照らすのだということが書かれています。今日はその箇所を中心に見てゆきたいと思います。

 

 

 

今日はマタイによる福音書4章12~17節をお読みいただきました。16節には光が射しこんだという言葉があります。光が射しこんだという言葉、実はこれは厳密にみると光が昇ったという意味の言葉です。光が昇るとはもちろん日の出を表す言葉です。ちなみに新しい翻訳ではここが修正されており、光が昇ったとなっています。この光はつまり、日の出です。山の上から見ればご来光を表す表現です。

13節にはイエス様はカファルナウムという町に来たとあります。カファルナウムから見る日の出はどのような日の出だったでしょうか?カファルナウムはガリラヤ湖の西の湖畔の町です。東には大きな湖が広がっています。カファルナウムからの日の出が、ガリラヤ湖の水面から日が昇ったでしょうか。もしかすると湘南平から見た日の出とよく似た風景かもしれません。この個所は日が昇る時に、暗闇が光に照らされていく様子を、イエス様の登場に重ねています。そしてイエス様は日の出やご来光にように、暗闇を照らし出す方だということを伝えています。

イエス様が日の出のように暗闇を照らしだすとはどんな意味でしょうか。イエス様の照らし出す暗闇とは、どんな暗闇でしょうか。暗闇とは光が当たらない場所です。死の陰の地という言葉もあります。死の陰とは、まさに死に直面している、死と隣り合わせの事を指す表現です。暗闇と死の陰に住む人々とは、何か悪い事をした人、罪を犯した人という意味ではありません。暗闇と死の陰に住む人々とは、光の当たらない人のことです。普段みんなから見過ごされてしまうような人のことです。あるいは隅に追いやられている人のこと、命が大切にされていない人のことのことです。命の危険がある人のことです。イエス様の登場はその人たちに光が当たる、その人たちに日が昇るような出来事なのだということです。

つまりイエス様の登場は見過ごされていた人が見つけられるということです。隅に追いやられていた人が真ん中にされ、大切にされるということです。命に危険のある人が解放されてゆくということです。それが暗闇と死の陰に光が射すということです。その光は社会の隅々にまで届きます。社会の隅々まで目が行き届くということです。このように光が射すとは取り残される人がいなくなるということです。イエス様はそのような社会・世界の訪れを私たちに告げています。

暗闇や死の陰は、社会や世界以外にもあるでしょう。光が当たらない場所、暗闇は私たち個人の中にもあるものです。私たちは暗く沈むような気分になる時があります。私たちには暗い一面があります。他者の幸せ素直に喜び、願うことができない闇があります。私たちの心には光が射しこまない暗闇があります。自分しか知らない、誰も知らない暗い部分があります。光が射しこんで欲しくない場所があります。

しかしイエス様は私たち個人にとっても太陽、日の出のようなお方です。イエス様の光は私の暗い部分に日の出のように射しこんできます。私にどんなに沈むようなことがあっても、暗闇があっても、イエス様は太陽のように、私たちに光を注いでくださるお方です。

今年もきっと私たちには神様の光がこの日の出のように注がれるでしょう。その光は私たちの心を照らし、私たちの世界を照らしてくれるでしょう。それがイエス様の日の出です。それはイエス様のご来光です。イエス様の光が今年も世界の隅々を照らすように願います。そしてイエス様の光が私の隅々までを照らしてくれるように願います。

今日の個所には他にもいくつか言葉の解釈によって、イメージが広がることがあります。私の注意を引くのは、13節にある「住まわれた」という言葉です。この「住む」も本来は「座る」という意味です。特に権威ある人が座る時によく使われる言葉です。日本語ではそのように偉い人が座る時、座すとか、玉座に着くとか、鎮座するという言葉を使いますが、そのような意味の言葉です。総理大臣の椅子に座るとか、社長の椅子に座ると言ったイメージです。権威のある人がそこにとどまって、隅々にまで目を配り、治めることを意味します。そこに座るということは、その場所の中心になることを意味します。

ですからここは、ただ来て住んだというイメージだけではありません。ここにはイエス様が、権威のある人としてそこに留まり、隅々にまで目を行き渡らせたというイメージがあります。イエス様はカファルナウムの町に座し、そこに住む人々を隅々まで目を配ったのです。

これも私たちの個人の心のことがらとしてもとらえることができるでしょう。イエス様は私たちの心の一番まん真ん中に座してくださるお方です。イエス様は私たちを通りすぎたりはしません。そしてただ、心に来て、住むだけでもありません。イエス様は私たちの心のまん真ん中の一番高い、一番大事なところに座すお方です。私たちを導く方として私たちに現れて下さるお方です。そして私たちの心の隅々にまで目を注ぎ、私たちを治めてくださるお方です。今年1年も私たちの心の真ん中には、イエス様が座ってくださるはずです。神様が私を選び、私の心に座ってくださいます。私たちは心を開いて、心の真ん中に神様を迎えてゆきましょう。今年1年が、そのような年となることを願います。

もう一か所、私が気になったのは17節です。17節には「天の国は近づいた」とあります。近づいたという言葉には、もうすぐ来る、いつかわからないけどやがて来るというイメージがあります。しかしこの「近づいた」も厳密に見ると、現在完了形になっていました。現在完了形は「し終わった」と訳します。つまりここは「天の国が近づき終わった」というのが本来の意味です。それはもうすでに来ているという意味です。今、ちょっとずつ向かっている、近づいているのではありません。もうすでに近づき終わって、来ているのです。つまり天の国、神様の光はすでに世界を、私たちを、照らしているということです。神様は私たちの心の真ん中にすでに来ていて、すでに座り終わっているということです。

今日の個所では、私たちには3つの希望が示されています。ひとつは神様の光が私たちの世界と心を照らすという希望です。二つ目は神様は私たちの世界と私たちの心の真ん中に来て下さるという希望です。そして三つめは、すでにそれは来ている、もう始まっているという希望です。この3つの希望が私たちに今日、示されています。

私たちは今日、新年最初の礼拝に集いました。私は、この世界と自分自身をカファルナウムと重ねて読んでみたいと感じました。カファルナウムを私たちの歩む1年と重ねて読んでみたいと感じました。

今年も1年、イエス様の光が世界と私たちを照らし出してくださるはずです。つらいことがあってもイエス様の光が必ず私たちに注ぐはずです。隅々まで私たちを照らしてくださるはずです。その光を、その日の出をいただきましょう。そして今年も1年、イエス様が世界の真ん中に、私の真ん中に座ってくださるはずです。今年も1年、イエス様を心の真ん中に迎えてゆきましょう。そして今年、すでに、イエス様の光は私たちを照らしています。すでに私たちに来てくださっています。すでに神様の国、神様の支配は私たちに起こっています。私たちはすでにその中を生きるのです。

今年1年の主の導きを信じます。主の光が、主のご来光が私たちを照らし、主が心の真ん中に来て下さいます。そしてそれはもうすでに始まっています。だから私たちは今年1年も安心して生きてゆきましょう。お祈りします。