まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 イザヤ書25章4節
みなさん、おはようございます。先週はお休みをいただきました。代わりに奉仕を担ってくださった方々、本当にありがとうございました。今日も共にこの平塚教会で、神様からの招きに応えて、礼拝ができること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も小さなこどもたちの命がこの礼拝に共にあることを感じながら礼拝をしましょう。
先日は福岡から濱野先生を招いて、宣教の奉仕をしていただき、またその後の主の晩餐の学びをしました。お一人一人はどのようなことを感じたでしょうか。またそれぞれに分かち合ってゆきましょう。礼拝も礼典も、神様からの招きです。招かれたままに、たとえその意味が分からなくても、聞いたまま、伝えられたままに続けてゆくことも大事です。そしてそれと同時に各教会や個人がはっきりとした信仰理解を持ってその礼典を行ってゆくことも大事です。すべてを理解し、言葉にすることはできないかもしれません。でも今日の礼拝、主の晩餐を何のために、誰に向けてするのかを考えて受けてゆきたいと思っています。
8月と9月は平和について考えています。私の心を特に締め付けるのは戦争で壊れた建物の瓦礫の前で泣いているこどもたちや、血だらけになって病院に運ばれたこどもたちです。世界中でその光景が繰り返されるたびに「神様はどこにいるのか」「神様はなぜ戦争を止めないのか」と疑問に思います。そしてこどもたちの笑い声が響きわたるのがどれだけ平和を象徴しているかを想像します。少し考えてみてください。みなさんも戦争の様子を見るたびに、神様がどこにいるのかと感じることは無いでしょうか?
イスラエル・ガザの紛争はイエス様が暮らし、平和を教えて回った場所で起きています。そこで紛争が繰り返され、エスカレートしていくことに特に心を痛めています。ロシアもウクライナももともとキリスト教が盛んな国です。平和の神様を信じている人間が、どうして戦争をしてしまうのかを疑問に思います。神様は一体どこでこの世界の様子を見ているのでしょうか。今日は戦争の中で神様はどこにいるのかを考えたいと思います。今読んでいるイザヤ書は、激しい戦争の時代に書かれた書です。神様が平和を願うメッセージが多く書かれています。今日の聖書から平和を見てゆきたいと思います。
今日はイザヤ書25章4~10節までをお読みいただきました。4節にはまことに神様は弱い者の砦とあります。神様は戦争において弱い者の砦であり、弱い者を守る側にいるということです。戦争の勝敗は神の願い、御心とは一切関係がありません。誰が神に戦争の勝利を祈ろうとも、神はその力でどちらかに勝敗を下すことはありません。神に戦争必勝の祈願をしても意味がありません。戦勝祈願は無意味な祈りです。神様はそのような暴力の衝突について、どちらかの「正しい側」「より熱心な側」に立つお方ではありません。
4節にもあるとおり神様は弱い者の砦です。神様が関わるのは、弱さと貧しさです。神様は弱い者と共にいるということです。戦争は強い者が勝ち、弱い者が負けて死にます。しかし神様は弱い者の砦です。神様は弱くて小さな者を見つけ、それを自分の元に集め、守ろうとします。神様は戦争のために熱心に祈り、戦って、武勲を上げる人を探しているのではありません。敵味方関係なく、戦火に追われる弱くて小さな者を見つけるのが神様の働きです。弱い者、貧しい者の希望となるのが、神様なのです。神様は弱く小さい者を見つけようとしています。私たちがその神様を見つけるためには、小さくならなければいけません。強く、大きく、広く、高くを目指す時、神様は見えなくなるのです。私たちも弱さや小ささ、貧しさに目を向けたいのです。
戦争の報道は、どちらがどのような兵器で、どちらが優勢で、大国がどんな武器の支援をするかに目を向けがちです。でも私たちも戦争に触れる時、神様のように弱さや小ささ、貧しさに目を向けてゆきましょう。私たちは戦争で傷つき、犠牲にされ、人生を壊された人を想像し、目を向けてゆきましょう。その時神様が戦争の中でどこにいるのかを見つけることが出来るはずです。
6節には神様が山で祝宴を開くとあります。神様は戦争の中で、弱い者、苦難にあう者、貧しい者、乾ききった者を山の上で行われる祝宴に招きます。山とは神様を礼拝する場所という意味です。神様は傷つき、疲れ、平和を求めて飢え渇くすべての人を礼拝に集めるのです。それは神様の側からの招待です。人間が場所とごちそうといけにえを準備して神様を招待するではありません。神様が場所も食べ物もすべてを整えて、山の上で待っていてくださるのです。私たちが招かれて礼拝をするのです。戦争で傷つき疲れた人々はそこで平和を願って礼拝するのです。
この個所には「すべて」という言葉が3回出てきます。山の上ではすべての民に神様からの食事が与えられます。ここでも敵味方関係ありません。一人の例外もなく、すべての民が、神様に招かれて、山に集まった者全員が祝宴に参加します。それが神様の礼拝の在り方です。分け隔てのないすべての人との食事が神様の愛を象徴しています。このように神様が山の上から招く祝宴は、神の愛、神の平和、神の招きの象徴です。その祝宴・礼拝ではすべての人に良い肉と古い酒(良いお酒)が提供されます。私たちはその肉と酒を受けとります。そうすると、神様から生きる活力をもらいます。これを食べると、生きよう、他者を愛そうという力が湧いてくるのです。この祝宴・礼拝に出て自分を反省するのではありません。主に招かれたこの時を楽しみ、食べて、力をもらうのが祝宴・礼拝の役割です。
この食べ物と良いお酒、私たちにとって何でしょうか。私たちにとってこの食べ物は、きっと礼拝の中の聖書の言葉でしょう。聖書の言葉から命、愛、祈り、平和をいただきます。あるいは今日いただく主の晩餐も、この食べ物をよく象徴しているでしょう。神様に招かれて、私たちは聖書の言葉と、主の晩餐をいただいて、生きる活力、希望をいただくのです。それが私たちです。神様はこのようにすべての人をこの祝宴・礼拝に招いています。
8節を見ます。主なる神はすべての顔から涙をぬぐうお方です。戦争の光景にはいつも涙があります。あるいは涙もでない悲しみがあります。神様はすべての顔から涙をぬぐってくださるお方です。神様は戦争の悲しみ、命を奪う悲しみ、恥、不名誉、失敗の涙をぬぐってくださるのです。神様は泣くなとは言いません。神様はただひたすら泣く人間の涙を、ぬぐってくださるお方です。涙が渇くまで、涙が枯れるまで、涙がとまるまでただただ涙をぬぐってくださるお方です。そしてそれもきっと味方の涙だけではありません。地上のすべての涙、敵の涙をもぬぐうのでしょう。
神様は戦争の勝敗に関わらない方です。戦争に勝つことを神様に祈ることは無意味です。そもそも神様は戦争を望んでいません。私たちは神様が戦争のどこにいるのかを探します。神様は勝った側にいるのではありません。より熱心に戦争の勝利を祈った側にいるのではありません。神様は敵味方関係なく、涙が流される場所、弱さと貧しさのある場所、安全な場所を求めて逃げまどう人と共にいるのです。神様はそのようにして戦争のただなかに、戦争の一番の悲しみの中にいるのです。
そして神様はすべての人を平和、礼拝へと招いています。だから私たちはこの礼拝で平和を求めましょう。世界では戦争によってたくさんの涙が流されています。そのような世界で、私たちは山の上の礼拝に招かれています。私たちはこの礼拝で平和を祈りましょう。
9節この方こそ私たちの神様です。私たちが待ち望むのはそのような神様です。この方が私たちを救ってくださるのです。私たちを平和へと導いてくださるのです。この方こそが私たちが待ち望んでいた主です。私たちは礼拝で、神様が涙の中に共にいてくれることを共に喜び合います。その礼拝の中で主の働きは豊かに注ぐのです。
私たちは世界の平和を求めて礼拝をしましょう。壊れたがれきと涙するこどもを見て、神様は必ずそこにいる、涙をぬぐってくださると信じましょう。そしてその戦争が早く終わるように祈りましょう。一人一人が平和のためにできることをしましょう。
そして私たちはずっと山の上に留まるのではありません。今日私たちはこの平塚バプテスト教会という山・礼拝から降りて、礼拝から派遣されて、それぞれの場所で暮らしてゆきます。私たちの派遣された場所は平和ではないかもしれません。弱さと涙があるかもしれません。でもその場所に神がおられます。みなさんが平和を実現するために、1週間できることは何でしょうか?私たちは神様の愛と平和を広げることができる、1週間を目指します。一人ひとりがその実現に向けてどのように行動できるかを考えてみましょう。それぞれの生活の中で、神様の平和を広めるための具体的な行動は一体なんでしょうか。そして私たちはまた来週の礼拝にも招かれています。1週間それぞれの場所での平和を求めて、過ごし、また集いましょう。
これから主の晩餐を持ちます。これも神様から招かれている祝宴の一つです。このパンと杯を受けて、平和を実現させるための力と知恵と励ましをいただきましょう。神様は礼拝と平和へと私たちすべての人を招いています。そのことを覚えてこの祝宴にあずかりましょう。お祈りいたします。