『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」 マタイによる福音書2章6節
2000年前のイエス様の時代は今の私たちの価値観と大きく違います。特に人間関係のウチとソトの概念と、恥と名誉という概念に違いがあります。古代のユダヤ社会では人々は内輪とは親しくし、助け合い、その結束は固かったのです。反対に、外側の人とされた人には驚くほど冷たい社会でした。特に外国人はよそもの中のよそ者だったでしょう。もうひとつ古代ユダヤでは名誉が大事にされました。そんな価値観の中でイエス様は生まれました。
マタイ福音書1章によればマリアの妊娠は結婚前に起りました。それは当時恥とされることでした。マリアの恥、父の恥、家の恥でした。そのような恥は家から取り除かなければなりませんでした。ルカ福音書によると、ヨセフとマリアは旅先で宿屋が見つからなかったとあります。おそらく旅先の人間関係が内輪ではなくソトの関係だったからでしょう。ソトの人間にはそのくらいの対応で十分だったのです。イエス様はそのようにソト、外側に追いやれて生まれたのです。イエス様の誕生を見に来た学者たちも、古代のユダヤの基準からするととんでもなくソトの人です。そのまったくソトの人が、同じくソトにされたイエス様を訪ねています。
イエスの誕生を見ると恥から始まり、そしてソトに追いやられます。そしてさらにもっとソトの人が、イエス様を訪ねて来ます。それがクリスマスの物語です。イエス様の誕生物語はこのように、ソトと恥の物語です。
今日のことからどのように神様のことを考えるでしょうか。神様は私たちにどのように関わる方だと考えることができるでしょうか?今日感じるのは、神は私たちの内側の誇らしい場所に居るのではないということです。神様は恥、不名誉とされる中に、私たちがソトだとする人の中にいるということです。それが私たちの神様です。神様は当時の価値観の中で隅に追いやられた者として生まれました。生きづらい者として生まれました。
今の私たちの世界の、時代の、どのような価値観が、誰を隅に追いやっているのでしょうか。イエス様の誕生はそれに目を向けるようにと、私たちに訴えているのではないでしょうか。特に日本ではこどもや若者や外国にルーツを持つ人が生きづらいと感じていると聞きます。そこに神様は来てくださるでしょうか。そこにこそ、生きづらいと感じる人にこそ神様はきっと来て下さるのではないでしょう。そのような中にこそイエス様が生まれたのが、クリスマスなのではないでしょうか?
私は次の1年をこの時代に生きづらさを抱える人とその場所に、目を向けて向けてゆく、そのような1年にしてゆきたいと思いました。そして生きづらいと感じている人に、そこにこそ神様が共にいることが伝わる、そのような1年になることを願っています。お祈りします。