【全文】「入りやすい教会」ヨハネによる福音書1章19~27節

みなさん、おはようございます。今日もこうして大人もこどもも共に礼拝できること主に感謝します。毎週点火しているろうそくは3本目がともりました。来週はいよいよクリスマスです。

先日のこども食堂、こどもクリスマスはたくさんの人が来てくれました。先週の教会は、こどもと親たちが教会の中で食事をしたり、工作をしたりし、遊んで帰ってゆきました。私たちはその方たちに、直接聖書のみ言葉を伝えているわけではありませんが、これが私たちの伝道です。このようにして地域の人に教会を身近に感じてもらい、キリスト教を身近に感じてもらい、神様のことを身近に感じてもらいたいと思っています。そしてその中の内の誰かと一緒に礼拝できることがあれば、うれしいと思っています。クリスマスは教会の注目度があがる時です。今週もいろいろな人が教会を訪れます。来られた方を大切にしたいと思っています。

教会はよく敷居が高いと言われます。中でどんなことをしているのかわからない。自分も入っていいのかわからないと思われています。生まれた時から平塚に住んでいるが、中に入ったことは無い、中を見たいことがないという人は多くいます。これはイエス様の言葉を届ける以前の問題です。地域の方たちは案外、私たちの教会のことを何も知りません。私たちも地域のことを知りません。私たちと地域の人に関係性が薄いからです。私たちにはまず、もっと関係性が必要です。いきなり宗教の話や洗礼の話をするのではありません。まず互いの存在を知り、話し合う関係性が必要です。そのうえで、そうだ教会・礼拝に行ってみようと思える関係性が大事なのではないでしょうか?

教会の敷居が高いことについて東京バプテスト神学校の講座でこんなイメージを教わりました。このイメージは教会は敷居が高くて入りづらいというイメージです。もうすでに中にいる人(私たち)にはこの敷居の高さは関係ありません。中に入ってしまえば心地よいのです。でもこれから入ろうとする人は、相当敷居を高く感じています。それが右側の急な階段を上っている人の様子です。教会に入っていくのはなかなか大変で勇気のいるものです。教会にスムーズに入るには何かスロープの様なものが必要です。それが左側のスロープです。教会にはゆっくりと関係が作れるスロープのようなものが必要なのです。来るか来ないか、敷居をまたぐかまたがないかではない、ゆっくりと関係を造ることができるスロープが必要ではないかと教わりました。

私たちの教会に置き換えると、このスロープはどんなことでしょうか。これまでは特伝やバザーでした。新しくはこどもプロジェクトです。こひつじひろば、こひつじ食堂、こひつじまつり、こどもクリスマス・・・。これらは教会とゆっくりと関係を造っていくスロープの様な存在です。私たちはどんどんスロープを拡げてゆき、いつかたくさんの人と礼拝したいと思っています。

私たちは信仰を直接、すぐに言葉で伝えるわけではありません。私たちがしたいのは、緩やかなスロープを作るということです。そして今、私たち自身がそのようなスロープになる役割も与えられているのではないでしょうか。私たちに与えられている役割。それはスロープの道を作る、スロープの道になることだと思います。私は愛と平和の神に続くまっすぐで、ゆるやかな道を作ってゆきたい、私自身が道になりたいと思っています。今日の個所から、私たちの役割を考えたいと思います。そして来週のクリスマス、たくさんの人を招き、歓迎したいと思います。今日の聖書の言葉を見てゆきましょう。

今日はヨハネ福音書1章19節~28節までをお読みいただきました。この福音書はヨハネ福音書ですが、今日出てくるのはバプテスマのヨハネという別人のヨハネです。このバプテスマのヨハネは当時人気のある宗教指導者でした。彼は聖書の4つの福音書、すべてに登場します。それほど彼の存在は聖書の中でも重要なのです。多くの人が彼に従っていました。イエス様も彼から大きな影響を受けた人の一人です。彼はバプテスマのヨハネと呼ばれていました。彼の教えの特徴がバプテスマ・洗礼をするということにあったので、バプテスマのヨハネと呼ばれていました。

もともとユダヤ教ではバプテスマは日常的に繰り返し行われていました。たとえば市場に行くと体が汚れる、その全身の汚れを清めるためにバプテスマをしました。食事の前は手から汚れを取り払うために手を洗いました。このようにバプテスマ・洗礼、水で汚れを清める行為は、律法の習慣として日常的に行われていました。

しかしヨハネのバプテスマは違いました。ヨハネのバプテスマは個人個人の悔い改めと方向転換、新たな人間として生まれ変わるという意味がありました。つまりそれは汚れを取り払うためではなく、生き方を変える、生き方を方向転換するという意味を持ちました。彼は贅沢をせず身を慎み、他者と分かちあいをする生き方勧めました。その生き方に多くの人が共感し、バプテスマ・洗礼を受け、ヨハネに従い、生き方の方向を変えたのです。

ユダヤ教には当時、他にもいろいろな信仰のグループがありました。しかしどれもそのグループに入るのは高いハードルがありました。例えばサドカイ派は血縁による貴族祭司です。あとからサドカイ派になることはできません。熱心党(ゼロータイ)というグループもありましたが、ここは武闘派で、武力闘争も辞さないグループです。そこに入るのもハードルが高いです。エッセネ派というグループもあります。これは完全に社会と断絶するグループでした。これも敷居の高いグループです。

それらと比較すると、贅沢を控え、身を慎み、他者と分かち合う生き方をしようという教えは平凡で消極的なグループにも見えます。しかしその生き方は多くの共感を得ていました。そしてその新しい生き方を始めるバプテスマ・洗礼という方式は、他のグループよりもハードルが低いものだったはずです。まずこのグループに入るのは血縁や身分、力は関係ありません。割礼は男性しかできませんが、バプテスマなら女性も主体的に参加できます。お金はかかりません。貧どんなに貧しい人でも参加できるグループです。いわば誰でも入ることができる、平和的なグループだったのです。イエス様もそこに共感し、当初はヨハネの教えを良く聞きました。それがベースになっている教えもいくつもあります。どんな人でもバプテスマによって新しい生き方を始めることができる、誰でもそれは受けることができる。それに共感する人々はどんどん増えて、多くの人がバプテスマを受けてゆきました。

その人気を見た、他のグループの人びとは、ヨハネの元に行って聞きました。あなたはメシアですかと?ヨハネの答えははっきりと「私はメシアではない」と答えました。では何かとしつこく聞かれ、そしてヨハネは自分の役割をこう言っています。「私は声である」。その声とは「主の道をまっすぐにせよ」という声です。私は「主の道をまっすぐにせよ」という声だと言っているのです。

「主の道をまっすぐにせよ」とはどんな意味でしょうか?ヨハネが引用しているイザヤ40章3・4節を見るとこう書いてあります「主のために荒野に道を備え、私たちの神のために荒地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らにし、狭い道は広い谷となれ。」つまり、神様のために平らな道を作りなさいということです。その道は平らな道です。低かった谷が平らになります。高かった山と丘が平らになります。狭くて、でこぼこで通りづらい道が、広くて平らな道になるということです。それが主の道をまっすぐにするということです。それがヨハネの役割でした。彼の目的は神様に通じる道をまっすぐ平らにし、みんなが通りやすい様にすることだったのです。みんなが神様にたどり着くことができるように、神の愛と平和にたどり着くことができるように、そのための道を整える、それが彼の目的です。彼はその声でした。「主の道をまっすぐにする」のが彼の使命・役割だったのです。

このイメージは、イラストのイメージと重なります。高い階段を上る、高い敷居をまたいで入ってくる必要があるのが教会かもしれません。しかし、私たちは今、ゆっくりでいいから、なだらかで、平らな道から入ってきて欲しいと、願っています。私たちは多くの人たちに、この平らな道から神様に近づいて欲しいと願っています。そのために様々な地域との交流を持っています。

私たちは今、バプテスマのヨハネと同じ使命をいただいているのかもしれません。「主の道をまっすぐにせよ」「平らにせよ」。私たちはその声に促されて、道を造っているのではないでしょうか。様々な活動をしているのではないでしょうか?そのようにして、たくさんの人がゆるやかに、まっすぐにキリストの愛と平和にたどりついてくれるように道を造っている、それが今の私たちではないでしょうか?

もうすぐクリスマスです。光を求めて多くの人が教会を訪ねて来るでしょう。でもきっと来る人の何倍もの人が、行ってみたいと思っていても、興味はあると思っていても、敷居が高い、怖い、何をしているのかわからないと思って来れないでいます。私たちは平らでまっすぐな道を造りましょう。キリストの愛と平和にまっすぐに、緩やかに向かうことができるように。まっすぐで平らな道を造りましょう。私たち自身が主にまっすぐな者となってゆきましょう。

きっと私たちの働きは小さく、ゆっくりとしたものです。それはキリストの靴紐をほどく値打ちもない働きかもしれません。でも、それでいいのです。神様の道を造りましょう。みんなが入りやすい、まっすぐな道を造りましょう。私たちにはヨハネと同じ役割が与えられています。私たちもキリストの道をまっすぐに歩みましょう。お祈りします。