みなさん、おはようございます。今日もこうしてこどもも大人も一緒に礼拝できること、主に感謝します。今日も一緒に礼拝をしてゆきましょう。
今日まで5回の礼拝の中でこれまでとは少し違う視点でガラテヤ書を読んできました。どんな感想を持っておられるでしょうか。短い書簡を5回取り扱いましたが、それでもまだまだ短い、もっと味わいたいと感じています。
ガラテヤ書を読んでいる最中に、イスラエルとパレスチナで戦争が始まってしまったことはとても悲しいことです。聖書の舞台であり、私たちがいつも想像を膨らませているあのイスラエルで戦争が起きていることに、私たちは特に悲しみを覚えます。暴力を振るうイスラエルとパレスチナ、どちらも悪いと思います。そしてその原因は世界各国の身勝手な振る舞いです。16節には「イスラエルの上に平和と憐れみがあるように」とあります。本当にパウロと同じ思いです。イスラエルとパレスチナの上に平和と憐みがあるように私たちも祈ってゆきましょう。
ガラテヤ書ではこれまでも毎回、割礼がテーマになってきましたが、今回もそうです。パウロは繰り返し割礼について語っています。それだけこの問題が重要な問いかけを持っていたのです。そしてパウロは今日も、割礼ではなく愛を持って生きようということを語っています。今日の個所を見ましょう。
パウロは11節で「私はこんなに大きな文字で書いている」と書いています。当時、紙は貴重品でした。紙を節約する意味でも、文字は小さく詰めて書くのが普通です。しかしこの手紙の文字はかなり大きかったのです。この個所からパウロは近視で目が悪く、小さな文字の読み書きができなかったのではないかという説もあります。彼自身自分の身に不自由を負っていたのかもしれません。自分の弱さを隠さずに不格好な文字で手紙を書いたのかもしれません。
あるいは最後のまとめ部分だけ文字が大きかったのではないかという説もあります。最後のこの個所を特別目立つように、大きな文字で書いたのです。それは私たちがちょうど大事な聖書の個所に線を引くのと同じです。重要な部分が目立つようにされていたのです。目が見えづらかったのか、特別強調しようとしたのかはわかりませんが、彼は私たちに大切なことを伝えようとしています。
12節からの内容を見てゆきましょう。パウロは繰り返し割礼を批判しています。割礼とはユダヤ教の入信の際に、陰部の皮を切り取る儀式のことです。ユダヤ人の親から生まれたこどもは8日目に、この割礼を受けます。当時は教会に2グループの人がいました。生まれた時に割礼を受けたユダヤ人、もうひとつは他の宗教から移って来て割礼を受けていない異邦人です。同じキリストを信じ、同じ礼拝に参加しています。それでも教会の中には割礼を受けたユダヤ人キリスト者と割礼を受けていない異邦人キリスト者という区別があったのです。ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者に、神様を信じるならば絶対に割礼を受けるべきだと言いました。しかしこれはかなりハードルの高いことです。異邦人キリスト者は割礼を受けるべきか、当時の教会では大きな問題になっていました。もちろんその後、私たちの教会に至るまで割礼は必要ないということになってゆきますが、ここには大切な問題が隠れています。
この割礼は、信じることの象徴ということよりも、ユダヤ民族の象徴という意味が強くありました。割礼はユダヤ民族のあかし、ユダヤ民族の誇りだったのです。神様を信じる事と民族に誇りを持つことは別のことです。他の民族の人々から見ても、神様を信じる事と、割礼を受ける事との関係は分からなくなっていました。それでも一部の人は、割礼を受けてユダヤ民族になるべきだと訴えていました。そこにパウロが手紙を書いたのです。割礼を受けることはユダヤ民族の優越性・優位性を受け入れることにつながりました。自分の民族を捨ててユダヤ民族に同化する、そのような意味でした。パウロはそのような割礼を批判し、必要ないと言っています。それぞれ今の民族の、今の暮らしの中で、神様を信じ、愛の実践を行うことが大事だと教えたのです。
マウントを取る(マウンティング)という言葉があります。相手との会話の中で、自分の方が上で、優位に立っているということを示す行動です。割礼はマウントとも言えるでしょう。割礼を受けることは、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者にマウントを取るために使われたのです。
ユダヤ人が悪いと言っているのではありません。人間はこのような態度を取ることが多くあります。自分が優位に立とうとすること、自分と同じにさせようとすること、自分の正しさを押し付けてしまうことが多くあります。それは日常でも、世界でもそうです。
パウロは12節、13節でそれを批判しています。「肉において人からよく思われたがっている者」「あなたがたの肉について誇りたい」者とあります。これはマウントを取ってくる人のことです。自分を他者と比較してよいと思わせる、自分を他者と比較して誇る人のことです。
14節をみます。ではパウロが誇りに思っていることは何でしょうか。パウロはイエス・キリストの十字架を誇ると言っています。それ以外に誇ることは、決してあってはならないとまで言っています。十字架を誇るとは何でしょうか。十字架とは何でしょうか。十字架とはイエス様が愛に生きようとした時に起きた拒絶です。イエス様が愛に生きようとした時、多くの人がその価値観、生き方に拒絶を示しました。そんなことできないと笑いました。それは危険な思想だと言いました。イエス様の愛する生き方は人々に受け入れられず、十字架に架けられました。その拒絶の結果が十字架です。
パウロはその見捨てられた、拒絶された価値観を誇りに思うと言っています。それは拒絶された生き方でした。笑われた生き方でした。しかしそれに生き方に従う人もいました。それは人を愛するという生き方でした。パウロもその生き方、人を愛するという生き方を誇りとしたのです。民族を誇りに思うのではなく、十字架に向かう生き方を誇りとすると言ったのです。
14節の後半は「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」とあります。つまり、お互いに価値観を拒絶しているという意味です。世界と私は違う価値観を持ち、私と世界は違う価値観を持っているのです。それは愛するという価値観と争うという価値観とも言えるでしょう。愛と争いは互いを拒絶し合っています。私たちはどちらが上か、どちらが強いかを争って、戦ってはっきりさせようとする価値観には決して立ちません。私たちの誇りは十字架です。弱くて、笑われるかもしれません。でも愛する生き方を誇りにするのです。この二つの価値観は互いに互いをはりつけにしようとしています。
15節でパウロはもう一度はっきり「割礼はいらない」と言っています。大切なのは新しく創造されることだと言っています。大切なのは、私たちが神様によって、新しく創り変えられることなのです。私たちは割礼によって創り変えられるのではありません。私たちは十字架によって、創り変えられるのです。
16節には原理という言葉があります。原理という言葉は基準やものさしという意味のある言葉です。パウロはここで何を生きる基準とするのかということを問いかけています。世界の基準はどちらの方が上で、どちらが下か、どちらが豊かで、どちらが強いかです。それを争い、戦い、決めようとしています。しかし私たちの基準はそうではありません。割礼を受けているかどうかも基準ではありません。私たちの基準は十字架です。私たちの基準は十字架によって拒絶された、愛するという生き方です。私たちが生きる基準は、他者と自分を比較するのではなく、自分を優位にするために争うのでもありません。
私たちは自分に十字架という基準、ものさしを当ててみます。十字架のものさしを当てて、イエス様の愛と自分の愛を比較します。そうするといかに私たちの愛が小さいことが分かるでしょう。いかにイエス様の愛が大きいかが分かるでしょう。イエス様の愛という基準、ものさしと私を比較すること、それがこのように原理・基準に従って生きていくという生き方です。おそらく私たちもこの愛の基準、愛の価値観によって生きようとすれば、拒絶されるでしょう。私たちは愛に生きようとするとき、人一倍、苦労を体験することになるでしょう。私が優位に立ってしまえば楽です。でも私たちはそうしません。愛に生きる事を、十字架を私たちの基準とするのです。
17節パウロは、私は焼き印を身に帯びていると言います。焼き印とは一生消えない印です。それは割礼にも通じています。でもそれは優位性の印ではなく、愛の印です。私たちは割礼ではなく愛するという焼き印を神様からいただいているのです。
今日までガラテヤ書を読んできました。信仰義認ではなく、生き方としてガラテヤ書を読み、また共同体とは何かを考えてきました。私たち教会とはどんな集まりでしょうか。私たちはもちろん、マウントを取り合うためにここに来ているのではありません。世界の愚かさを見下すためにきているのでもありません。私たち教会とはどんな集まりでしょうか。私たちは互いを愛する生き方を確認するために、今日も集っているのではないでしょうか。それは拒絶され、苦労が多い生き方です。でも私たちの誇りは十字架です。その愛に誇りを持って生きようと今日も私たちは集まっているのではないでしょうか。それが十字架を誇るという意味ではないでしょうか。お祈りします。