みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝をできること、主に感謝します。今日は収穫感謝礼拝です。収穫の恵みに感謝をし、礼拝をしましょう。私たちはキリスト教の中でもバプテストというグループです。バプテストは特に「自由」を大切にするグループです。個人個人の自由な選択、自由な信仰の選択が尊重される教会です。そして平等ということも大切にしています。教会の中では、誰かから指示されるような上下関係はありません。そのような自由と平等を大切にしています。
服装も他の教会よりも自由と言えるでしょう。みんな自分の好きな格好で来ています。私はいつも似たような服を着ていますが、なるべくオーガニックコットンの服を選ぶようにしています。オーガニックコットンとは3年以上化学肥料や農薬を使わない畑で栽培された綿のことです。身近には無印良品がオーガニックコットンの衣料品を販売しています。私の服も多くは無印です。なぜ私がオーガニックコトンを選んでいるのかと言うと、綿が非常に多くの農薬を使うからです。世界の農薬の7%が、綿の生産のために使われていると言われています。
農薬や化学肥料に頼りすぎた農業をすると一時的には良く育ち、効率が上がります。しかしそれを繰り返ししてゆくと土壌はやせてゆきます。収穫を続けるにはより多くの肥料と農薬が必要になります。それは持続可能な農業ではありません。これを続けると農家は生産を続けることができなくなります。このままでは生産者も消費者も互いに滅んでしまうのです。農薬はそれを使う農家の健康にも負担があります。農家さんがたくさんの農薬を使えば、自分が病気になったり、子どもたちにも影響があるのです。
私の服の選択肢は無数にあり自由です。しかし私の着る物が誰かの負担や犠牲のもとに成り立つのなら、私はそのような服を着続けたくないと思います。できれば少しでも生産者の負担や犠牲が少ない商品を選択したいと思います。そのような思いで無印で服を買っています。もちろん私は限界のある罪人です。100%それだけで生活できるわけではありません。でもできる限りそうしたいと思っています。もちろんオーガニックコットン自体にも課題や限界があります。色や柄の選択肢は少なくつまらないです。価格は割高です。環境への負担や生産者の犠牲は少なくても、たとえば児童労働の問題やフェアトレードの問題は解決されていません。
いずれにしても大事なのは、私たちの着るもの、食べるもの、生活はすべて、誰かに支えられているということです。好みのもの、安いものを選ぶだけではなく、生産者を考えて商品を選びたいと思います。せっかくの収穫感謝礼拝です。この収穫を神様に感謝しましょう。そして、その収穫を支えている人が、誰かの犠牲になっていないかにも思いを巡らせたいと思います。
私たちには自由があります。どんな服を着るか、それがどんな素材で、どんなデザインか、自分で決める自由があります。それは絶対に誰かから強制されません。お互いを素敵な服ですねと褒め合いましょう。
でも私の自由、私の選択は本当に、誰かを守る選択なのだろうか?私の選択は本当に愛のある選択だろうか?私の選択は地球の環境にやさしいものか?それをよく考えたうえで自由な選択をすることが必要なのではないでしょうか。自由とはただ楽であればよいということとは違うと思うのです。私たちは罪を犯さずに生きることが出来ないように、誰にも負担をかけず、誰も犠牲にせずに生きることはできません。しかし少なくともその負担と犠牲を知り、どう解消すべきかを考えながら生きたいと思います。
今日の収穫感謝礼拝。おいしいものがいっぱい実る秋。私たちの食も自由な選択が広がる季節です。その収穫を喜び、そしてこの収穫の背景に、誰かの負担と犠牲が無いか考えたいと思います。そして私たちは精一杯の愛の選択をしたいと思います。そのように愛を選びたいのです。神様はきっと一人一人が愛の選択をする、その方向へと世界が進んでゆくことを願っておられるはずです。
今日の聖書の個所を読みましょう。イエス様の弟子パウロはガラテヤという地域の教会へ手紙を送りました。2節の前の太字の表題には「キリスト者の自由」という題があります。今日の個所は、キリスト者はどのように自由に生きるかということがテーマです。全体的に強い口調が続きますが、目に留まるのは6節です。そこには、割礼の有無ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切だとあります。私たちに必要なのは愛の実践を伴う信仰です。
これまでパウロと言えば、何かをしたことを誇るよりも信仰を誇るように語っていると教えられてきました。信仰義認論です。それは一面では確かにそうなのですが、しかしパウロが語っているのは信仰心が大事ということだけではありません。ここでははっきりと書いてあります。パウロははっきりと「愛の実践を伴う信仰が大切だ」と言っているのです。割礼と言う儀式を通過しているかどうかが問題なのではなく、愛の実践を伴う信仰が大切だと言っています。ここからもパウロは信仰義認論を訴えているとは言い切れません。
これまでにも見てきたように、ガラテヤ教会の一部の人は、信仰を持ったなら、ユダヤ人の習慣である割礼(男性の性器の皮を切る儀式)を当然すべきだと言いました。割礼をすることが信仰がある証拠だ、これをしないと信じたことにならないという意見がありました。当初は割礼は無くてもよいと合意されていたのでしょうか。しかし多くの人がやはり必要という意見に代わって来ていました。やはりこの儀式・習慣は必要だと考えていました。しかし割礼は受ける人にとって大きな負担です。割礼を受けるには大きな抵抗がありました。
7節~12節まではガラテヤ教会が割礼のことで揺れていた様子が記されています。愛の実践よりも、まず割礼が必要だと気持ちがなびいてしまった人が大勢いたのです。キリストを信じるだけではなく、愛の実践をするよりも、やっぱり割礼が必要だと考える人がいたのです。私と同じキリストを信じるなら、私と同じように割礼を受けるべきだと考えたのです。私たちと同じようになるべきという民族の意識は、人間の意識はパンが発酵して膨らむように、どんどん大きくなっていました。
割礼のことで二分されているガラテヤの教会です。そこにパウロから手紙が届きました。パウロは手紙の中で6節「愛の実践を伴う信仰が大切」だと訴えています。あの人は自分と同じになるべき、自分と同じ割礼を受けるべきということよりも、愛の実践が大切なのではないかと手紙を出しました。パウロが伝えようとしたことは、愛という信仰の実践こそが大切だということです。割礼の有無よりも、私たちの生き方が大事ということです。他の人が自分と同じか違うかということよりも、お互いが愛をもって生きることが出来ているかどうかが大事だということです。
これは私たちにも語られていることです。私たちに一人一人にとって愛を実践する生き方はとはどんな生き方でしょうか。愛の実践を伴った信仰を持って生きるとはどんな生き方なのでしょうか?収穫感謝礼拝の中で考えます。
私たちには様々な自由があります。何を着るか、何を食べるかは自由です。どのような楽しい時間を持つかは自由です。私たちは自由に生きるように神様に示されています。私たちは自由な選択してゆきましょう。他の人と同じ選択をする必要はありません。仲間になるからといって他の人と同じになる必要はありません。特に教会ではそうです。自由に、ありのままに私たちは集いましょう。
ただ私たちの自由は罪、誰かを傷つけるものとなっていないかも考える必要があるでしょう。自由に生きるからこそ、他者を傷つけないこと、他者を愛することを忘れないようにしましょう。愛によって互いに恵みがあるようにしましょう。私たちは収穫をただ自由に受け取るだけではありません。その収穫の創造主と、その収穫の苦労に思いめぐらせ、感謝をしましょう。そして愛を持って、自由な選択をしましょう。そして他者を傷つけない選択、他者を愛する選択をしましょう。
人と地球にやさしい物を選ぶことは、本当に小さな選択かもしれません。でもその選択は他の人の選択と、あるいは今までの選択とすこし違う選択です。その小さな愛の選択が私たちの世界を少しずつ変えるはずです。私たちをもっと自由にするはずです。神様はそのような自由と愛の選択を私たちに期待しておられます。
そして互いの選択を非難する必要はありません。12節には去勢してしまえばよいとありますが、これはパウロの言い過ぎです。このような発言はどんな論敵に対してもいけません。パウロは反省が必要です。
14節、隣人を自分のように愛す、これが律法全体、聖書全体を表す言葉です。収穫を神様に感謝しましょう。そして世界の生産者が、私たちと同じように、豊かに暮らすことができるように願います。私たちの生活を支える誰かを犠牲にしない選択をしましょう。それも愛です。世界が共食いをせず、愛のある選択をするように祈ります。
15節、世界がお互いによって滅ぼされないように祈ります。私たちが自分だけ良ければよいと思う時が、世界が共食いを始める時です。私たちは共食いをするのではなく、互いに愛し合いましょう。その選択をしましょう。
私たちは収穫を神に感謝し、愛のある選択をしましょう。一方だけが豊かなのではなく、共に豊かになる道を選びましょう。神様からいただいた収穫に感謝します。お祈りします。