みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもを大切にする教会です。今日もこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。
今月から2か月間、パウロ書簡から宣教をしてゆきたいと思います。パウロ書簡を続けて宣教するのは初めてです。どうぞよろしくお願いいたします。最初の1ヶ月はガラテヤの信徒への手紙を読んでゆきたいと思います。
ここ数年、世界と日本のキリスト教の中でNPPという言葉を聞くようになりました。NPPとは“New Perspective on Paul”の略でパウロを新しい視点でとらえようという試みです。パウロとは新約聖書に掲載される手紙の多くを書いた人です。パウロは教会に向けて励ましや叱咤激励の手紙を送りました。これまでパウロがこれらの手紙で言っていることは大きく2つだとされてきました。一つ目はユダヤ教は愚かな宗教で、愚かな戒律だという律法批判です。2つ目は救いとは何かを行うのではなく、信じる信仰のみによって起こされるのだという信仰義認論です。律法批判と信仰義認論が、パウロが書簡全体で言っていることだと考えられてきました。私もそのように教会で教わってきました。頭の固いユダヤ人が漫然と意味もない儀式を繰り返して愚かである。そのような行為・行いではなく信仰のみが私たちを救うのだ。行為義認よりも信仰義認、信じる信仰がなによりも大事だと教えられてきました。
しかし、近年のパウロの書簡の研究は大きく進んでいます。主にユダヤ教の研究と対話が進んだことにより、多くの発展がありました。NPPパウロの新しい視点の研究では、パウロ書簡全体のとらえ方は大きく変わってきています。NPPの考え方はこうです。まずパウロは律法自体を否定したのではないということです。ではパウロが批判したのは何か、それは律法を隔ての壁とした民族主義だったと考えられます。パウロは律法ではなく、民族主義・民族差別を批判したと考えられています。そしてNPPではパウロはある箇所では確かに信仰のみと読まれる箇所もありますが、決して行いを否定しているわけではないと考えます。行為よりも信仰と言っているのではなく、信仰と行いの関係について両方大事であると語っています。大きく言うとNPPの考え方は、パウロが批判しているのは律法ではなく差別であるということ、信仰と行い両方大事だということです。このNPPの潮流は世界的なうねりになっています。今日の個所も新しくとらえられようとしている箇所です。新しい視点で、今の私たちが問われていることを考えたいと思います。
今日の聖書個所はイエス・キリストの死と復活から20年ほど後に書かれた手紙だと言われています。パウロは世界にイエス・キリストを伝える旅に出ていました。その途中、ガラテヤという地方の教会に手紙を書きました。エルサレムで起きたイエス様の十字架と復活の出来事の後、イエス様の教えは非常に短い期間で周辺世界に広がっていました。周辺世界のさまざまな場所にイエス様の教えに共感する人がいました。
そして当時はまだこのグループはキリスト教としてはっきりと成立はしていませんでした。キリスト教とユダヤ教ははっきりと分かれていなかったのです。ユダヤ教の1グループである、ユダヤ教ナザレ派という位置づけでした。
そこでは問題になっていることがありました。イエス・キリストを信じる人は、まず先にユダヤ教に入ることが必要なのかという問いです。ユダヤ教の教えを受け入れないと、イエス・キリストを信じたことにならないのかという問いでした。周辺の世界の人々はイエス様の事は信じるけれども、ユダヤ教のことはわからないという人が多くいました。
ユダヤ教に入信するのはかなり高いハードルがあります。男性は入信の時に割礼を求められるのです。割礼とは男性の性器の皮を切り取るという儀式のことです。ユダヤ教の男性はみな生まれて7日目に割礼を行います。しかし大人になって、新しいメンバーになる人にとってはかなり高いハードルがある儀式です。キリストは信じる、でも本当にユダヤ教の習慣に従うべきか迷っている人は多くいたのです。
もともとユダヤ教でイエス様を信じるようになった人(ユダヤ人キリスト者)は、当然割礼を受けてユダヤ人にならないと、キリストを信じることにはならないと考えました。ユダヤの人々にとっては神様を信じるのだったら、その喜びとして割礼をするというのが常識だったからです。そのように厳格に割礼が必要と考えた人がいました。厳格派です。一方、キリストを信じるなら、もともとユダヤ教ではなかった人は割礼をしなくてもいいのではないかという人もいました。ユダヤの習慣や律法を守らなくても、イエス・キリストを信じればそれでいいのではないかと考えたのです。穏健派です。このようにキリストを信じている人の中に2つの立場がありました。絶対に割礼を受けたうえでキリストを信じるべきだというのが厳格派です。一方、割礼はいらないと考えたのが穏健派でした。もちろん後にキリスト教は穏健派が中心になってゆきます。
パウロが論争の中心としているのは、ユダヤ教は愚かだということではありません。信仰か行いかということでもありません。パウロの論争の中心はキリストの信仰を持っている人を共同体がどのように受け止めていくかということでした。共同体の中では、信仰の有無と、割礼の有無は一致していませんでした。割礼を受けていなくても信じている人がいたのです。そのような中で割礼の意味は、信じている印ではなく、いわばユダヤの民族の印となっていました。キリストの集まりにとって割礼の有無は信仰の有無ではなく、ユダヤ民族かどうかを分けるものでした。そこでパウロは問いました。その問いは割礼の有無が人々の隔ての壁になっていなかという事でした。パウロは共同体として本来一番重要な、信じているかどうかよりも、同じ民族かどうかが大事にされていないかと心配したのです。共同体の中に割礼を受けた同じ民族か、そうではない人かという排除や差別が起きていないかを問うたのです。
パウロはどのような民族であっても、キリストを信じる信仰があれば、よいのではないかと考えました。無理にユダヤ人の習慣・割礼をする必要は無いのではないかと訴えました。割礼をしなくても神様に喜ばれるあり方があると考えたのです。パウロが本当に批判したのは割礼そのものではありませんでした。パウロが批判したのは割礼の有無による差別でした。キリストを信じるなら、それでよいのではないか。ユダヤ人と同じになる割礼を受ける必要はないと訴えたのです。つまり、あなたはあなたのままで、キリスト者としてこの仲間に加わることができると訴えたのです。
ガラテヤ書の各節を読んでゆきますが、キリスト教が正しくて、それ以外の宗教が間違っているという色眼鏡で読まないことが大事です。信仰義認の色眼鏡も外したいと思います。むしろパウロが一番注意したのは隔ての壁を持った独善的で、排他的な態度です。そのことを注意して読みます。
15節、パウロは「私は生まれながらに割礼を受けているユダヤ人だ」と言っています。異邦人を罪人と言ってまで、自分とは違うと言っています。まるで厳格派のような立場です。しかし16節は「けれども」と続きます。
16節には「信仰によって義とされる」とあります。これは人は割礼を基準として義とされるのではないという意味です。元々この共同体は割礼の有無ではなく、神様を信じているという信仰の有無が一番に大事にされる集まりであったはずです。私たちは割礼というつながりではなく、信仰によってつながっているのだということが語られています。
19節には「私は神に対して生きる」とあります。それはどう生きるかという私たちの行為に対する問いです。大切なのは信仰か行為かどちらかではありません。大切なのは信仰を持ってどう生きるかということです。行為よりも信仰が大事と言っているのでもありません。信仰をもってどう生きるのかが問いです。そして「私は十字架につけられている」と続きます。私が十字架にかかるとは、独善的な私、差別と隔てを持った私が、キリストと共に十字架につけられて殺されるということです。私の差別と隔ては十字架で死に、無くなるということです。
20節には「キリストが私のうちに生きておられる」とあります。私の隔ての壁、差別の壁は十字架に架けられたその後、私の中にはキリストが生きるのです。隔てと差別を超えた生き方始まるのです。それがキリストが内にある生き方です。21節それが、神の恵みを無駄にしない生き方なのです。
私たちの社会を考えます。私たちの社会にはまだまだこうあるべきという形は多くあります。親はこうあるべき、こどもはこうあるべき、男は、女は、日本に住むならこうあるべきということが多くあります。昔から輪の中に入っている人からすれば、それは当然のことかもしれません。でも輪の外の人にとって大きな壁に思える時があります。私たちはその壁をどうやって低くし、無くすことができるでしょうか。その人のそのままを受け止めてゆくことができるでしょうか?
私たちの教会はどうでしょうか。私たちにはどのような壁があるでしょうか。それをどのように低くし、無くすことができるでしょうか。私たちは共同体としてどこまで、ありのままを受け入れることができるでしょうか。私たちはどこまで社会の壁、教会の壁、私たちの壁を壊してゆけるでしょうか。それがパウロが語っていることではないでしょうか?お祈りします。